0022 - 包囲
マーレボルジェの網が絞られるとき、そこに一切の音は立たない。
深夜の湾岸道路を滑るように走る大型のワンボックス車。その車内は、混凝土の底に沈んだかのような、重苦しい静寂が支配していた。
フロントガラスの向こうには、夜の帳に霞む臨海地区の冷え切った夜景が広がっている。インパネが放つ淡い緑色の光だけが、後部座席に押し黙る構成員たちの、感情を完全に削ぎ落とした横顔を不気味に浮かび上がらせていた。誰一人として呼吸の音すら立てない。ただ、時折、タイヤがアスファルトの継ぎ目を踏む鈍い振動だけが、車内に細かく伝わっていた。
スティンは助手席で、膝の上に置いた暗い端末の画面を凝視していた。
画面上で冷たく明滅する数個の光点は、埋立地を取り囲むように配置されている。スティンが直卒する実働部隊の現在位置だ。一手、また一手と、光点が迷路のような地形の隙間を埋めていく。
「北側の臨港道路は完全に封鎖した。東側の水路にはレノの息がかかった臨検艇を出させてある。ネズミ一匹、外へは出さない」
スティンの声には高低がなかった。
冷徹で、淀みなく、寸分の狂いもない。
かつて海辺の町で、蝉の音を聞きながら子供救うために命を懸けた、あの男の温もりなど、そこには微塵も存在しなかった。ただひたすらに、目の前の標的を効率的に追い詰めるための、完璧な猟犬に成り切る。それが、今のスティンに与えられた唯一の機能であり、着こなさねばならない外套だった。
「抵抗すれば、その場で四肢の自由を奪って構わない。ただし、首謀者の脳天だけは残せ。理を違えた代償は、本人の口から直接吐かせる」
淡々と冷酷な指示を口にするスティンの横顔を、運転席の構成員が、ミラー越しに薄寒い戦慄を孕んだ目で見つめていた。彼らの目には、今のスティンが冷酷なアルフェの教えを最も忠実に体現する、隙のない幹部に映っている。
だが、高級スーツの胸ポケットの奥。
手袋を嵌めた指先から伝わる銀の懐中時計は、まるでそれ以上の凍結を促すように、絶え間なくスティンの皮膚を灼き続けている。胃の奥が歪に捩れるような不快感が、じわじわとせり上がってくるのを、スティンはただ能面のような無表情の裏に抑え込み、端末の光の中に視線を落とした。
包囲網は完璧だった。データの還流ルート、密閉された木箱に残されていた香水の残り香、そしてマースが手繰り寄せた通信ログ。すべての糸は、第二嚢であるローガンへと繋がっている。
今夜、この埋立地の最奥で、ローガンが異能対策管理局の人間と接触し、決定的な機密データの引き渡しを行う。その現場を現行犯で圧殺する。
それがこの作戦のすべてだった。
能弁に言い逃れを試みようと、この網から逃れる術はない。
だが、スティンの思考の底には、一抹の不安があった。
あの錆びた鉄板の隙間に落ちていた、歪に押し潰された煙草の吸い殻だ。
作戦本部に、アルフェの姿はなかった。この規模の幹部粛清であれば、あの男が直接指揮を執ってもおかしくはない。にもかかわらず、アルフェはすべてをスティンに委ね、自らは闇の奥へと完全に気配を消している。
自分が敷いているこの完璧な網そのものが、実はより巨大な網の目の、ほんの一部に過ぎないのではないか。自らの意志で網を絞れば絞るほど、巡り巡って自分の首が締まっていくような、歪で、逃れようのない錯覚が、スティンの背筋を静かに伝い降りていく。
ワンボックス車が、ヘッドライトを消したまま、埋立地の錆びついたゲートへと滑り込んだ。行く手に広がるのは、雲間の月光を浴びて整然と並ぶ、無機質な矩形の影。幾重にも重なるコンテナヤードの巨大な迷路が、まるで巨大な怪物の牙のように、彼らの静かな侵入を迎え入れる。
スティンは端末を閉じ、ジャケットの内側から銃の確かな重みを確かめた。
冷たい海鳴りの音が、鉄の壁に激しくぶつかっては反響している。
嵐の前の、息の詰まるような静寂のなか、猟犬たちは音もなく、標的の潜む深い闇へと歩みを進めた。




