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月光〜元最強の暗殺者、記憶喪失で善人になった結果、裏社会で壊れていく〜  作者: 幻翠仁
第三章

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0018 - 傲慢



 都心の喧騒を最上階から見下ろす、会員制の高級ラウンジ。

 遮光ガラスの向こうに広がる東京の夜景は、幾千もの光が蠢く巨大な光の海だった。だが、重厚な絨毯が敷き詰められたVIPルームの中は、外界の騒音を一切遮断した、ひどく人工的な静寂に包まれている。


 スティンが身を置く組織――悪の嚢(マーレボルジェ)

 その第八嚢で均衡を乱すアルフェとは異なり、政財界の権力者を操り、自らの巣へと引き摺り込む役割を担う男がそこにいた。


「随分と大人しくなったものだね、偽善者――スティン君?」


 豪奢な革張りのソファに深く腰掛け、琥珀色のグラスを傾けた男が、低く艶のある声で笑った。阿諛者――ローガン。傲慢の名を冠したマーレボルジェの幹部。完璧に仕立てられた三つ揃えのスーツを着こなし、細い指先でグラスの縁をなぞる仕草には、他者を支配し、弄ぶ者の余裕が満ちていた。


 スティンは部屋の隅、影の落ちる壁際に直立したまま、その俗悪な視線を、能面のような表情で受け流していた。

 胸ポケットの奥には、あの乾いたコーヒーの輪が残るマグカップのあった部屋で拾い上げた、止まったままの懐中時計が収まっている。手袋越しに触れたあの銀の冷たさが、今のスティンの肌に冷徹な境界線を引いていた。


「駿河での長期休暇は、随分と快適だったと見える」

 ローガンは視線をスティンへと向け、わざとらしく小首を傾げた。


「記憶を失い、さも家畜のように大人しく飼われていると聞いた時は耳を疑ったが……戻ってきたお前を見ると、なるほど、噂通りだ……かつてのように、目が合っただけでこちらの喉笛を噛み切ろうとするような、あの凶暴な野生がまるで感じられない」


 あえて駿河という地名を口にし、スティンの反応を探るような揺さぶり。記憶を失う前の怪物としてのスティンをよく知るローガンにとって、今のスティンの静けさは、格好の玩具に見えるのだろう。だが、スティンは眉一つ動かさなかった。灰緑色の瞳には、波一つ立たない。


「此処で俺に与えられた任務は、お前の身辺警護、および会談の監視だ」

 スティンの口から出たのは、高低のない、酷く平坦な声だった。


「それ以外の雑談に応じる義務はない。時間の無駄だ。非効率極まりない」

「ふん……素っ気ないね」


 ローガンは鼻を鳴らし、グラスを大理石のテーブルへと置いた。

 カツン、と高い音が響く。


「アルフェの奴が、お前の記憶を呼び覚まそうと躍起になってちょっかいを出しているらしいが、その様子だと、あいつの苦労も骨折り損というわけだ。お前はもう、過去の自分にも、あの男との関係にすら興味がないらしい」


 ローガンは立ち上がり、ゆっくりとした足取りでスティンへと近づいた。

 仕立ての良い靴が絨毯を踏み締めるたび、香水の甘い匂いが鼻を突く。ローガンはスティンの顔を覗き込むようにして、歪な笑みを深めた。


「だが、本当にそれだけか? 記憶を失くしたお前のその綺麗な頭の中に、何か別のノイズが混ざっているんじゃないかね。たとえば……あの海沿いの町で拾った、くだらない善性とかね」


 鋭い棘を孕んだ言葉が、スティンの鼓膜を叩く。

 ――『その衝動が、君の中に残っていたんじゃないか?』

 脳裏に、あの老医者の穏やかな声が一瞬だけ明滅した。しかし、スティンの心臓は、驚くほど冷たく脈打ったま行を崩さない。自分は善人などではない。ただの、組織の理を執行するための殺人兵器。内側にどれほど重い鉛の絶望を抱えていようとも、見せるべきは、眩いばかりに冷徹な偽善者の外套だ。


「……買い被りだな」

 スティンは、ローガンの目を真っ直ぐに見据え、冷ややかに言い放った。


「俺はマーレボルジェの猟犬だ。それ以上でも、それ以下でもない。お前が誰を操り、どれほどの富を貪ろうとも、俺には関係のないことだ。ただ、お前が組織の利益を損なう動きをしたその時は、この手で処理する。それだけだ」


 かつてのスティンなら殺気でねじ伏せていたであろう挑発を、今のスティンは、ただの事務処理として冷酷に切り捨てた。ローガンは数秒の間、スティンの瞳の奥を見つめていたが、やがて、くく、と喉を鳴らして笑い出した。


「素晴らしい。完璧な能面だ。だがね、スティン……内側に何かを隠そうとする人間の顔を、私は嫌というほど見てきたんだよ」


 ローガンがさらに言葉を重ねようとした、その時だった。

 VIPルームの重厚な扉が、事前のノックもなしに静かに開いた。現れたのは、黒いコートを纏い、指の間に煙草を挟んだ男――アルフェだった。


「随分と楽しそうじゃねぇか……ローガン」


 アルフェは部屋に入るなり、室内に立ち込めるローガンの香水を嫌悪するように僅かに眉を顰め、まっすぐにスティンの隣へと歩み寄った。


「……アルフェか。相変わらず不躾な男だね」


 ローガンは肩を竦め、ソファへと戻っていく。

 アルフェはローガンの言葉を完全に無視し、視線だけを隣のスティンへと向けた。その灰がかった冷たい瞳には、スティンの様子を観察するような、執拗な光が宿っている。アルフェは咥えた煙草にデュポンのライターで火を点けると、その金属音を響かせ、わざとスティンの顔に向けて紫煙を吹きかけた。


「どうだ。こいつの傲慢な面を見て、昔の任務を少しは思い出したか?」


 スティンは吹きかけられた煙を避けることさえせず、ただ淡々と、アルフェの視線を正面から受け流した。


「何も。ただ、この男の無駄話のせいで、予定の時刻が三分遅れている」

 スティンは視線をアルフェから外し、部屋の出口へと歩き出した。


「ローガン、移動だ。車を回してある。アルフェ、お前が先導しろ」


 背後で、アルフェが煙草を深く吸い込むチリ、という微かな音が聞こえた。

 その沈黙には、思い通りに動かない相棒への、微かな苛立ちの火種が混ざり始めている。


「……ふん。面白いな」

 二人の歪な温度差を察したローガンが、愉悦に満ちた声を漏らしながら席を立つ。


 スティンは、胸ポケットの奥にある銀時計の冷たさを指先で確かめるように、スーツの上から軽く触れた。アルフェの執着も、ローガンの傲慢も、今の自分にとってはただのノイズに過ぎない。


 眩いばかりの偽善の外套を身に纏い、スティンは光の届かない底なしの闇の中へと、静かに歩を進めていった。



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