0017 - 道標
東京から駿河へと続く道中、ワイパーが払う雨はとうに止んでいた。
湿ったアスファルトを滑るように進むのは、深い闇を溶かし込んだような黒のセダン車――モンテヴェルディ・ハイスピード。記憶を失う前のスティンが、文字通り愛用していた一台らしい。重厚なV8エンジンが、低く精密な脈動を刻みながら、静かに海沿いの町へと滑り込んでいく。
――数週間前。
あの青白い電話ボックスのガラス越しに聞いた“理”の答え。それを自身の目で確かめるために、スティンは一人、この車を走らせていた。
見覚えのある坂道を上り、海沿いの駐車場に車を滑り込ませる。
エンジンを切ると、車内は耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
ドアを押し開け、夜の帳が完全に下りた外へ降り立つ。
潮の匂いは、あの初夏の日と変わらずそこにあった。
だが、目の前に佇む病院は、スティンの記憶にある姿とは似て非なるものへと様変わりしていた。廃れている、というのとは違った。暴力的に荒らされた痕跡も、割れた窓ガラスも、飛び散った血痕さえない。そこにあるのは、ただ何もない空白――それだけだった。
掲げられていたはずの古びた看板は綺麗に取り外され、ビスの穴だけが白く残っている。まるで、最初からそこに病院など存在しなかったかのように、あるいは、ある夜、突然すべての荷物を纏めて夜逃げでもしたかのように――ぽっかりと、不自然な空白だけがそこに佇んでいた。
組織が行う掃除の徹底ぶりを、スティンは肌で理解した。
彼らは血を流すだけでなく、その人間が生きていたという事実ごと、世界の輪郭から消し去るということを。
スティンはキツく奥歯を締め、無言のまま重い玄関の扉を押し開けた。
鍵すら掛かっていない受付を通り過ぎ、かつて自分が歩いた廊下に出る。軋む床の音。漂う僅かな薬品の匂いと、海の湿気。すべてはあの日のまま。だが角を曲がっても「また無茶をして」と呆れたように笑う、あの茶髪の看護師の姿は、何処にもない。医者も、看護師も、患者さえ、誰もいない。
自分が寝かされていた病室の扉を開ける。
そこには、錆びついたベッドが一つ、ぽつんと置かれているだけだった。シーツも、枕も、包帯の予備も、すべてが綺麗に立ち退かされている。ものけのからになった空間を見つめる灰緑色の瞳が、微かに揺らいだ。
胸を突く窒息感を堰き止めるように、スティンは踵を返し、廊下の奥にある院長室へと向かった。静かにドアノブを回し、中へ入る。
遮光カーテンの隙間から細い月光が差し込み、部屋の中に立ち込める埃を、金色にきらきらと照らし出していた。その光景は息を呑むほどに静謐で、数ヶ月前の日常がそのまま時を止めてそこにあるようだった。
机の上には、あの老医者が愛用していたマグカップが残されていた。
中に入れられたままのコーヒーはとうに干からび、底の方で黒く歪んだ輪となって、こびり付いている。あの電話ボックスでインクの染みに変わってしまった紙切れのように、それは医者がその瞬間まで、確かにここで呼吸をしていたという――残酷な物証だった。
スティンは引き寄せられるように机に近付き、引き出しを引いた。
中には、医者が大切にしていた、古びた銀製の懐中時計が収められていた。薄く積もった埃を被りながら、それは静かに眠っている。スティンは手袋を嵌めた右手を伸ばし、壊れ物を扱うように、慎重にその時計を取り上げた。
掌に乗った銀の塊は、手袋越しでも分かるほど、酷く冷たかった。
時を刻むことのない、完全に止まったままの重み。
あの夜。見せられた時からずっと止まっていた針をじっと見つめるうちに、耳の奥で、あの老医者の穏やかな声音が蘇ってきた。
『昔の君も、おそらく誰かを助けたんだろう。今の君が、溺れた子供を助けたように……その衝動が、君の中に残っていたんじゃないか?』
スティンは脳内で、その言葉を否定した。
自分はそんな崇高な人間ではない。もし自分の中にそんな美しい衝動があるのだとしたら、何故、自分を無条件に救い、何の見返りもなく接してくれた、ただの善人である医者を、看護師を、救うことができなかったのか。自分は、彼らを破滅に導いた死神であり、ただの殺人兵器に過ぎない。
込み上げる激しい自己嫌悪と痛みに、スティンは奥歯を噛み締めた。
その時だった。雲の切れ間から覗いた鋭い月光が、窓を抜け、スティンの掌にある銀の懐中時計へと真っ直ぐに差し込んだ。埃に塗れていた銀の輪郭が、冷たい光を受けて僅かに、だが刹那的にきらりと瞬く。その清冽な煌めきを見た瞬間、今度はあの看護師の、夜の病室での言葉がフラッシュバックした。
『月光は、闇の中で一番遠くまで届くんですよ』
窓の外の海を見つめて微笑んでいた彼女の横顔。
スティンはゆっくりと灰緑色の瞳を細め、片手で顔を覆った。指の隙間から酷く苦しげな、押し殺した笑いが漏れる。
「……俺は……俺はどうしたらいい……」
誰もいない院長室で、その呟きは虚しく消えた。
もう、彼らを救う手立てはない。ハンス・シュミットとして生きた温かい日々は二度と戻らない。だが、冷たい月光に照らされた銀時計は、暗闇の中で確かにその輪郭を主張していた。
組織という、光の届かない底なしの闇。その中で、ただの殺戮兵士として戻るのではなく、ハンス・シュミットが抱いてしまった「誰かを助けたい」という衝動を抱えたまま、泥をすすり、藻搔き続けること。それこそが、スティンが背負うべき因果であり、唯一の贖罪だった。
スティンは静かに息を吐き出すと、止まったままの銀時計を、胸ポケットの縒れた紙切れの隣へとそっと仕舞い込んだ。
それは、闇の中でスティンが歩むべき、唯一の道標だった。




