0013 - 理念
東京の夜は、雨に濡れていた。
街の灯りが雨粒に滲み、ぼやけた輪郭を作る。セダン車のワイパーが静かに駆動し、フロントガラスの水滴を拭った。
ハンドルを握るアルフェがアクセルを踏むたび、唸るようなエンジン音が耳に反響する。潮の音は聞こえないが、喧騒が耳を突く。未だ慣れることのない騒音に、スティンは吐息を洩らした。
助手席で軽く身じろぎする。
新調したスーツとコートは、糊がきいていて動きが制限される。首元に張り付いた髪を払いのけるも、その動作も少しぎこちない。
マッチの擦れる音がした。
横目を向けると、アルフェが煙草に火をつけている。紫煙が揺らめきながら車窓に流れ、雨の夜気に溶けていった。
今日は、取引相手との交渉に同行していた。
「言っておくが、今日は交渉じゃねぇ。殺しだ」
「交渉の余地がないほど、致命的な過ちか?」
スティンは事前に手渡されていた紙の資料を捲っていく。
表向きは運送会社で、物資の搬入出を行っている。実体は、銃火器のルート調達。先日行った調査で「情報漏洩の可能性」があるとされていた。
「あぁ、致命的だ。オレ達の情報が外に漏れるのは、死と同義。可能性が浮上した段階で切り捨てろ。慈悲はいらねぇ――徹底的に潰せ」
その言葉に、スティンは短く息を吐く。
理屈としては理解できる。だが、胸の奥に何かが沈んでいく。
硝煙のような重さだった。
車は郊外に出て、やがて倉庫街の入り口に入る。
街灯が一本だけ立ち、雨粒の幕がそこに照り返っていた。車体が止まると、アルフェは無言でトランクを開け、サプレッサーを取り出した。拳銃の先端にそれをねじ込み、金属が擦れる鈍い音が響く。
スティンもまた、懐から拳銃を取り出した。
動作は淀みないが、目が僅かに曇っていた。
その様子を、アルフェは鋭い眼で見定めた。
「撃ちたくないなら、今日は撃たなくても構わねぇぜ……だが、その目で確認しろ――オレ達は、理屈ではなく理で動くということをな」
「なら先に、理屈と理の違いを説明しろ」
静寂。
アルフェが煙草を口の端から外し、灰を落とした。
雨音が代わりに会話の隙間を埋める。
「理屈は言葉で説明できるが、理は説明の外にある。つまり、消すことがオレ達の“在り方”ってことだ……さっさと来い」
その言葉を置き、アルフェが倉庫の中に消えていく。
背中を追い、スティンも中に入る。その瞬間、空気が変わった。
銃声が雨を貫き、短く乾いた音を立てた。
倉庫の薄闇に、何かが倒れる物音が響く。
硝煙の匂いが湿った夜風に乗って流れた。
「非合理に見えて、実に合理的だな」
「あぁ……理屈で物事を測る奴は大抵死ぬ。血で血を洗い流すこの世界では、理で動く奴だけが生き残る」
倉庫の奥で、火花がひとつ弾けた。
アルフェは淡々と弾倉を入れ替え、無造作に一歩を踏み出した。
書類が散乱したデスク。
裏切りを告げるように、パソコンのモニターが点滅している。アルフェがそれを乱暴に引き倒し、紙の束を焼却炉へ放り投げた。火が瞬き、音もなく燃え上がる。その炎をじっと見つめた。燃える光が、アルフェとスティンの顔を、血で濡れてしまったように、ゆらゆらと照らし出した。
「理に従うということは、存在を消すことと同義なのか」
「誰にも気取られず、証拠も痕跡も残さねぇ――それがオレ達の理だ。情報が漏れれば、潰える。だから、存在ごと消し去る」
その声には、躊躇いがなかった。
まるで呼吸のように暴力を語る。スティンは微かに息を吐いた。その目には納得ではなく、理解の色があった。
後始末を終えた二人は現場を離れ、セダン車に戻った。
車内には沈黙が流れる。
雨音とタイヤの摩擦音が、一定のリズムで夜を刻んだ。
「我々は……影のようなものだな」
「違ぇな。光がある限り、影は露呈する」
「なら、なんだ」
運転席で煙草を燻らせていたアルフェが、喉を鳴らした。
思案に耽ける横顔を、じっと見つめる。
「……例えるなら、霧みてぇなもんだ。掴めねぇが、確かにそこにある。光が差しても、誰にも形を見せねぇ――それが理想だ」
「存在しているのに知られない、か……言い得て妙だな」
「そうだ。少しは分かってきたじゃねぇか」
その言葉とともに、車は夜の闇へと滑り込んだ。
ワイパーが雨を弾き、ヘッドライトの光が道路を舐める。
そのたびに、街の輪郭は歪み、また元に戻った。
何も残らない。それが、この犯罪組織での正しさだった。




