0014 - 忘却
ワイパーが払う雨水の向こう、東京の夜景が歪んでは消えていく。
セダン車の車内は、静寂に包まれている。ただ、エンジンの低い唸りと、規則的な雨音だけが支配していた。
アルフェはアクセルを踏み込みながら、視線だけを僅かに右へ動かした。
助手席では、スティンが静かに眠っている。先ほどの殺伐とした現場が嘘のように、その寝顔は呑気で、何処か無防備ですらある。新調されたばかりの硬いスーツに身を包みながらも、呼吸は深く、規則正しい。かつての刺すような警戒心を完全に忘却した姿に、アルフェは口端を僅かに歪めた。
片手でハンドルを固定し、胸元から煙草を取り出す。
デュポンのライターを打ち鳴らし、先端に小さな火を灯した。紫煙が車内に広がり、高く澄んだ金属音とともに、冷たい夜気に溶けて消えていく。
その時、ダッシュボードの上で電子音が鳴り響いた。
アルフェは煙草を加えたまま、無造作に手を伸ばしガラケーを拾い上げた。親指でバネを弾くように開き、通話ボタンを押す。肩で押さえながら耳元に押し当てると、雨音の向こうから聞き慣れた女の低い声が聞こえてきた。
『……駿河の処理、終わったわよ』
レノの声だった。感情の起伏がない、淡々とした報告。
アルフェは煙草を深く吸い込み、煙とともに短い相槌を打つ。
『そっちはどう? 部下に任せてあるんでしょ?』
「問題ねぇ。既に掃除済だ」
『それはなにより』
レノは短く応じたが、受話器の向こうで小さく息を吐く気配がした。
少しの沈黙のあと、彼女の言葉が続く。
『でも彼ら……スティンのこと、かなり気に掛けてたみたいね』
駿河の病院。医者と看護師。
断崖から落ちたスティンを瀕死の状態から救い上げ、ハンス・シュミットという仮名を与え、手作りの食事を与え、新品の革靴を送った一般人達。
アルフェの指先が、煙草のフィルターを強く挟み込む。
視線が、再び助手席の男へと滑った。街灯の光が車内を通り過ぎるたびに、その褐色の横顔が浮かび上がり、また闇に沈む。アルフェは目を細め、その無垢な寝顔を盗み見るように凝視した。
「オレ達の理は教えた。理解できねぇ頭じゃねぇよ」
声を低く抑え、言い放つ。
自分に言い聞かせるような、ぶっきらぼうな響きだった。
電話の向こうで、レノが僅かに哀愁を漂わせるように声を落とす。
『……なら、良いんだけどね』
「平和ボケした奴には良い薬だ。何もするな」
突き放すようなアルフェの舌打ち。
それを受け流すように、レノは小さく、 どこか楽しげに微笑んだ。
『……本当、不器用ね。分かってるわよ』
短い電子音とともに、通話が切れた。アルフェはガラケーをパチンと乱暴に閉じ、ポケットへと仕舞い込む。その微かな物理音と気配の変化に反応したのか、助手席のシートが衣類の擦れる硬い音を立てた。スティンがゆっくりと濡鴉色の長い髪を揺らし、瞼を持ち上げる。その灰緑色の瞳は、まだ眠気を含んで微かに潤っていたが、すぐにアルフェの横顔へと向けられた。
「……何か、あったのか」
掠れた声が、狭い車内に落ちる。
アルフェは正面の闇を見据えたまま、咥え煙草の火を赤く燃え上がらせた。
「さぁな……」
素っ気なく応じ、アクセルを踏みしめる。
スティンは釈然としないように眉を顰めたが、それ以上は何も追及せず、再びシートに深く背を預けた。
僅かな歪みを残したまま、セダン車は加速していく。
光を弾く雨の街へと、二人の乗った車は、形を持たない霧のように静かに溶け込んでいった。




