0012 - 肉体
観察室の扉が、重い音を立てて閉じた。
白い蛍光灯に照らされた廊下は冷えている。薬品の匂いと、空調の乾いた風。アルフェは煙草を咥えたまま歩き出し、ガラス越しに見えるレノに向けて指先だけを軽く動かした。ひらひらと、払うような仕草。
「……相変わらず、不器用な男ね」
ガラスの向こうで、レノが細い煙を吐き出しながら、低く呟いた。その真紅の唇には、全てを見透かしたような冷ややかな笑みが浮かんでいる。
アルフェは立ち止まらず、ただ煙草の先端を赤く燃え上がらせた。
黒革の手袋が、歩くたびに小さく軋む。胸の奥に燻る苛立ちは、先ほどレノに理屈でしか自分を保てないと核心を突かれたせいか、あるいは、ガラスの向こうでただ空虚に佇むあの男のせいか――半ば、判然としない。
検査室の前に辿り着き、重い鉄扉を引く。
電子音が途絶えた部屋は、人工的な静寂に満ちていた。
スティンはまだ椅子に腰掛けたまま、額のセンサーを剥がされた痕を、長い指先でぼんやりと触っていた。アルフェの姿を捉えても、その灰緑色の瞳には警戒も、歓迎の色もない。ただ、ただ、静かだった。
「検査は終わりだ。次は実戦テストを行う」
アルフェは煙草を咥え直したまま、低く言い放った。
スティンはゆるく瞬きをし、ゆっくりと身体を起こした。
黒のスーツ、そしてロングコート。風もないのに、長い濡鴉色の髪が揺れる。纏った黒のロングコートは、油分が抜けてひどく硬化していた。腕を上げるだけで、糊を効かせすぎたように生地が皮膚を圧迫する。クリーニングに出されたアルフェの上質なスーツとは違い、それは家庭的な洗濯機で丸洗いされ、天日に晒された男の、妙に生々しい現実の重みだった。
「……実戦テスト、か。何をすればいい」
外套の襟を正しながら、スティンが淡々と問う。
「記憶がなくても、腕が落ちてりゃここでは生きていけねぇ。自分の身が本当に空虚かどうか、その身で確かめるんだな」
アルフェは背を向け、歩き出した。
二人の足音が、冷たい廊下に長く反響し始める。後ろに従うスティンの足取りは何処か覚束ない。それでも、アルフェの黒い背中を追うその眼光だけは、徐々に野生の鋭さを取り戻しつつあるように見えた。
混凝土の階段を下りる。
一歩ごとに、空気がより冷たく、より鉄の匂いを帯びていく。
アルフェは、口端の煙草を強く噛み締めた。
地下二階の訓練場は、混凝土の冷気と、乾いた鉄錆の匂いに満ちていた。
天井の剥き出しの蛍光灯が、白々とした光を床に落としている。外の喧騒は届かない。ただ、二人の男の足音が、静寂を不規則に刻んでいた。
スティンは白のワイシャツの袖を捲り上げ、床を踏みしめる。
新品の革靴は、此処ではやけに硬い音を立てた。
対峙するアルフェは、上着を脱ぎ捨て、黒革の手袋を嵌め直している。灰色の瞳が、品定めするように、スティンの全身を舐めた。
「お前がまだ幹部として使えるかどうか――オレが直々に確かめてやる」
低く落とされた声が、地下の空気を震わせた。
スティンは無言のまま、緩く首を傾げる。長い黒髪が肩を滑り、灰緑色の瞳が静かに細められた。
「手加減は期待するなよ」
その言葉を皮切りに、アルフェが地を蹴った。
細身ながら大柄な体躯が、鋭い踏み込みとともに迫る。放たれた直線的な右ストレート。風を切る音が鼓膜を震わせる。だが、スティンは思考が動くより先に身体の位置を入れ替えていた。半歩、左へ。拳が頬を掠める微かな熱量。スティンはアルフェの伸び切った右腕を視界の端で捉える。その手首を無意識に掴むと、己の身体の軸へと引き込んだ。流れるような足払い。アルフェの巨体が、混凝土の床へと叩き付けられる。鈍い衝撃音が、室内に爆ぜた。
息を吐き出す間すら与えられない。スティンは倒れたアルフェの背後に素早く回り込むと、その首元へ容赦なく腕を滑らせた。チョークスリーパー。頸動脈を正確に圧迫する、鉄線のような前腕。アルフェの身体が硬直する。黒革の手袋が、その腕を掻くように小さく鳴った。
完全に落ちる寸前、スティンはふっと腕の力を抜いた。
拘束から解かれたアルフェが、床に手を突き、激しく咳き込む。
土気色の肌に赤みが差し、荒い呼吸が冷たい空気を白く染めた。
「おい」
アルフェは喉を押さえ、睨みつけるように顔を上げた。
灰色の瞳の奥に、驚愕と、それ以上の歪な色が揺れている。
「……前より、動きが良くなってやがるな……」
記憶が消え、思考のノイズが無くなり、身体が主導権を握っているためか、以前よりも純度を増したその動き。アルフェの指摘に、スティンはただ伸ばした右手をアルフェへと向けた。
「そうか? 俺にはよく分からんが……」
アルフェはその手を見つめ、目を細めた。
不承不承といった様子で掴み、引き上げられる。その手の温もり。半年前、黒潮の海に投げ出された身体を掬い上げた男と同じ、確かな肉体の記憶。
アルフェを立たせ、その無事を確認した瞬間――スティンの口角が、ほんの僅かに上がった。それは、傷つけることではなく、誰かを無事に救い上げられたことに安堵するような笑みだった。その笑みが、血生臭い混凝土の訓練場に不釣り合いなほど、柔らかな光を落としていた。
「――笑うんじゃねぇ」
低く、地を這うような声だった。
アルフェはスティンの手を乱暴に振り払うと、一歩距離を詰め、その胸元を指先で強く小突いた。
「前のお前はそんな風に笑わなかった。歯の浮くような笑みだ……そんなん、この世界じゃ一瞬で命取りになる」
苛立ちの混ざった声音。
アルフェの瞳は、目の前のスティンを拒絶し、かつてのスティンを求めて足掻いているようだった。牙を失った獣は、ここでは生き残れない。それを誰よりも知っているからこその、歪な警告だった。
だが、スティンは目を瞬いた。
何故アルフェがこれほどまでに怒っているのか。何故自分が笑ってはいけないのか。分からないといった風に首を僅かに傾げた。その覚束ない、完全に他人を見るような無垢な反応に、アルフェは奥歯を噛み締める。
長く、重い沈黙が流れた。
手元で煙草に火をつけようとしたアルフェだったが、すぐにそれをポケットに仕舞い込み、顔を背けた。
「……チッ。もう良い、戻るぞ」
吐き捨てるように言い残し、アルフェは上着を拾い上げて背を向けた。
歩き出す靴音が、混凝土の壁に寂しく反響する。
スティンはその背中を無言で見送ったあと、自分の右手を見つめた。確かな戦闘の残響が残る掌。だが、胸の奥に残るざわめきだけは、冷たい蛍光灯の下でも、やはり消えてはくれなかった。




