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月光〜元最強の暗殺者、記憶喪失で善人になった結果、裏社会で壊れていく〜  作者: 幻翠仁
第二章

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0011 - 理屈



 観察室は、二畳ほどの余白しかなく閉塞感があった。

 混凝土で覆われた四方。その一面には、隣の検査室を眺めるためのマジックミラーが埋め込まれている。暗闇。だが、ミラー越しに温度のない蛍光灯の光が淡く差していた。


 検査室の中央。白い空間にテーブルと椅子が設置されている。

 スティンは、右手の椅子に腰を下ろしていた。感情が抜け落ちたような、それでいて気怠げな瞳を称えていた。


 額にセンサーが貼られ、脳波の線がモニターに浮かんでいく。

 人工的な機械音。規則的に点滅する波形。

 それらが“生還”の証のように動いていた。


 アルフェは、その光景を一瞥しながら金属椅子に腰を下ろした。

 背凭れに寄りかかり、腕を組んで息を吐く。無骨な手袋に覆われた指先が、不規則に腕を叩く。隣に座ったレノは、静かに脚を組み、目の前のテーブルに両腕を乗せた。


 どちらも声を発さない。

 ただ、ガラスの向こうで機械のコードが揺れた。


 医者の白衣が視界を横切る。

 指がスイッチを押すたび、モニターの波形が微かに跳ねた。


 アルフェの視線が長く留まる。鏡面の中で、スティンの灰緑色の瞳が一瞬、こちらを捉えるように滑った。ほんの一瞬。交わらないはずの視線。その見透かされたような錯覚に、アルフェの喉が僅かに鳴る。


 煙草を取り出しかけた指先が、途中で宙を掴んだ。

 代わりに腕を組み直す。それだけで椅子が小さく軋んだ。


 医者がモニターを見据え、口を開く。


「脳波、異常なし。記憶野にも損傷は確認できません――つまり、これは器質的な障害ではなく“選択的忘却”ですね」


 抑揚のない声だった。

 レノが軽く眉を動かし、僅かに身じろぎする。アルフェの指が組んだ腕の上で一度だけ震えた。力を加えるでもなく、抜くわけでもない。ただ、凍りついたように止まった。


 スティンの眉に僅かながら皺が寄る。

 無表情ながら、その目には興味が乗せられていた。


「選択的忘却――俺は意図的に、記憶を抑制していると?」

「ええ。思い出したくない過去を自ら封じている。意識は忘れていますが、身体は覚えている。そういう状態ですね」


 アルフェは腕をほどき、テーブルに手を添える。

 その手は握り込まれ、黒革の手袋が小さく鳴った。


 スティンの喉から息が漏れ、視線が宙に逸れた。

 思案するように瞼が落ちる。短い沈黙だった。


「……なら、葬る。思い出す必要もないだろう」


 切り捨てる声に、記録を取る医者の手が止まった。

 レノの指先がテーブルの上で擦れ合う音が響く。アルフェは微動だにしない。だが、瞳孔は開いていた。


「何故です? 過去を知りたいとは思わないのですか?」

「――意図的に、過去の俺は記憶を海底に沈めた。なら、その意志を尊重すべきだろう。願いを踏みにじることはできないな」


 スティンは、過去と現在の自分を切り離していた。

 別の人間として扱う言葉尻に、アルフェは奥歯を噛む。だが、それもすぐに緩め、代わりに低く鼻を鳴らした。


「あなたは、理屈で自分を守るタイプなんですね」


 医者の言葉に、スティンは薄く笑みを浮かべた。

 不気味にも見えるその笑みは、冷静でも無関心でもない。決まり切った問いに、嘲るような仕草だった。


「己を殺したのは、おそらく“何か”を守るためだった。だが――理屈は所詮、痛みの代用品だ。覆った分だけ、代償が伴う」


 その声には、感情の起伏がなかった。

 己を守るために、己を切り捨てる。痛みに耐えきれず、理屈で心を包み、かつての自分を海底に沈める選択を取った。


 それは単なる逃避ではなく、生存のための自殺だった。

 理解した刹那、アルフェはスティンから視線を逸らした。

 握り込まれた手が、悲鳴を上げていた。


 医者が眼鏡を押し上げ、更に問う。


「その代償とは?」

「心が鈍くなる。やがて、死が己の影を踏み付ける」


 短い沈黙が降りた。

 場を取りなすように、機械の電子音が一度だけ高く鳴る。


「……実に、興味深い患者です」

「どうだか。今の俺は、ただの空虚でしかない」


 スティンの言葉を最後に、装置のスイッチが切られた。

 脳波の波形が音もなく消え失せる。


 観察室の中で、レノが煙草に火をつけた。

 細い煙が緩やかに立ち上り、白い光に照らされる。


「……仕草も口調も思考も、似てるようで全くの別人ね。記憶を失ったというより、まるで……人格をすげ替えたみたい」


 同意見だったが、アルフェは返答しなかった。

 言葉の代わりに、書類を胸元から取り出し、レノの目の前に放り捨てる。紙の擦れる音。レノの手が、訝しげに触れる。


「なによ、これ」

「行旅病人の書類だ。奴はこれを持ってサツに乗り込む気だったらしい。オレが拾わなきゃ、今ごろ地下で縛られてただろうぜ……」


 苛立ちを乗せた声に、レノの眉が上がった。

 視線を書類に戻し、苦笑する。

 だがすぐに吐息を洩らし、頭を押さえる仕草を取った。


「火消しが面倒ね……どうするつもり?」

「どうもこうもねぇ。奴の痕跡はすべて消す。駿河の病院、警察、市役所――関わった奴と、漏れた情報、そのすべてだ」


 手元で煙草に火を点け、ゆっくりと吸い込む。

 吐き出した煙は、肺に溶けて薄い。


「――なら、私は情報を消すわ。キレフにも頼んでおくから」


 レノの声は穏やかで、それでいて遠かった。

 その横顔を一瞥し、アルフェはただ頷く。地の底で水が静かに流れるような沈黙が、二人の間に満ちた。


「……ねぇ、随分熱があるようだけど。まるで、スティンを守ってるみたいじゃない。心境の変化でもあった?」


 レノの言葉に、アルフェの指が煙草を弾く。

 灰が散る音。灰皿に移った火種が一瞬広がり、すぐに消える。


「心境の変化だ? そんなもん、ありゃしねぇよ」


 レノの唇に小さな笑みが浮かぶ。

 煙を吐きながら、彼女は視線を横に流した。


「そうかしら。あなた、スティンを引き入れておいて……これまで全く興味を示さなかったじゃない。同僚以下の駒としか、見てなかったでしょ」


 鋭い眼光が、レノを捉えた。

 だが否定の言葉は落ちず、空気だけが熱を帯びた。


「あの夜――スティンに助けられて、情が芽生えた。だから守ろうとしてる。それなら、納得もできるのよね……違う?」


 押し付けの言葉に、顎を僅かに引いた。無意識に噛んでいた煙草が小さく軋む。灰がまた一つ、力を失ったように崩れ落ちた。


「オレは情なんてガラクタ、持ち合わせちゃいねぇ。誰に対してもだ」


 言葉は低く、だが湿り気を帯びていた。耳に聞こえた己の声に、苛立ちのまま目を細める。レノは、それを受け流すように目を伏せ、楽しげに微笑んだ。


「でも、スティンも優しいわよね……憎悪を向けていたはずの相手を助けて、自分は黒潮の海に。記憶まで沈めて」


 アルフェの目が揺らぐ。宙に漂わせた視線が、縋るようにミラー越しのスティンを射止める。気怠げな目と、また交錯する。


「……奴の行動に意味を求めても無駄だ……ただの偽善者だろ。そう名乗って生き延びてきただけだ」

「そうでもないんじゃない? あなたを助けようとした事実に、耐えられなかった。だからスティンは、記憶を消したんでしょ」


 観察室から音が消えた。

 アルフェの喉が僅かに鳴る。手元で灰皿に煙草を押し潰す。


「くだらねぇ理屈だな」

「そうね。でも、あなた……理屈でしか自分を保てないでしょ?」


 ゆらりと立ち上がったレノが、扉を開いた。

 閉まる音が、やけに遠く響く。


 アルフェは動かなかった。

 視線だけをガラスの先に向ける。


 検査台に座るスティンに、レノが駆け寄っていた。

 スティンは静かに立ち上がり、視線を漂わせる。その視線が、ぼんやりとこちらを据えた。距離はあるのに、視線だけが絡み合う。


 アルフェは煙草を咥え、噛んだ。灰が床に落ちる。

 それでも視線は逸らさなかった。



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