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月光〜元最強の暗殺者、記憶喪失で善人になった結果、裏社会で壊れていく〜  作者: 幻翠仁
第二章

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0010 - 帰巣



 昼下がり、東京近郊。

 ビル群に陽光が鈍く照り、ガラス窓が反射する。潮の匂いを纏っていた黒塗りのセダンが、それを振り落とすように速度を上げた。


 車窓から吹き抜ける、緩やかな風。靡いた長い黒髪に、排気ガスや下水の臭いが纏わり付く。雑踏が近く、騒がしい。駿河との落差に眉を顰め、スティンはゆっくりと車窓を締めた。


 長い移動の中で、沈黙が続いていた。

 だが、運転席の視線が前方のフロントガラスから、度々横に逸れているのを、スティンは感じ取っていた。執拗は不快。吐息混じりに目を滑らせると、灰色の瞳と視線が交錯した。


「……なんだ、鬱陶しい」


 同僚は視線を前方に移し、胸元から煙草を取り出した。その一本を口端に咥えたところで、スティンの腕がゆらりと伸びる。指先が煙草を引き抜くと、車内の揺れに合わせて葉が落ちた。


「ライターは、持ってなさそうだな」


 目を見開いた同僚に、言葉を投げかける。

 だが、返答は期待していなかった。


 両切りの煙草を咥え、車内のシガーソケットを押し込む。

 ものの数秒で戻る。それを先端に押し当て煙を吐いた。ふわりと懐かしさを孕んだ匂いが鼻腔を刺した。


 感傷に浸る間もなく、横合いから腕を掴まれた。

 抵抗する気もなく、視線も向けない。煙草を咥え直していた同僚が火をつけたところで、その腕を振り払う。定位置に戻した。


「オレの煙草を吸うなんざ……前の“お前”じゃ考えられねぇな」


 低く吐き出された声音。

 それは嘲りとも戸惑いともつかない響きを帯びていた。“前”という一語で、同僚は目の前のスティンを過去から切り離した。だが、切り離したつもりで、なお縛られているような気配があった。


「お前とは相当、仲が悪かったようだな」


 スティンは目を瞬いて、ふっと笑みを浮かべる。

 煙草の紫煙が同僚の横を通り過ぎ、外に消えていく。

 同僚はスティンの笑みを見て、ただ煙草を噛んだ。


「忘れた方が幸せってか。反吐が出るぜ……」

「幸せ云々ではなく、その方が生きやすい。それだけだろう」


 淡々と切り捨てる。

 スティンは車窓に視線を移した。


 車は大通りを抜け、緩やかな坂を降りていた。

 クラクションの音がゆっくりと消えていく。外光が減り、代わりに灰色の混凝土が迫る。地下駐車場に入った瞬間、エンジン音が低く反響し、世界が閉ざされた。


 同僚がブレーキを踏み、タイヤがアスファルトを噛む。

 擦り切れたような金属音。静寂が降りた。


 同僚は無言のままドアを押し開け、スーツの裾を揺らして歩き出す。

 スティンもその背中に続いた。それは忠誠でも、従順でもなかった。ただ、過去の己を知る人間に着いていく。今のスティンに出来ることと言えば、それくらいしかなかった。


 エレベーターが降下する。

 その浮遊感に、一瞬胸を掴まれたような感覚が走った。右手を胸に当てる。だが、妙なざわめきは消えない。記憶の残響が皮膚の内側を這っているような錯覚。掌に、冷や汗が滲んだ。


 鉄扉が音を立てて横に開く。

 中から吐き出された空気はひんやりとしていて、どこか薬品の匂いがした。外観とは打って変わって、内部は穏やかな照明に包まれている。


 壁際には観葉植物が並び、革張りの椅子が整然と置かれていた。

 まるで高級ホテルのラウンジのようだが、漂う静けさには、どこか人工的な不気味さがあった。


 その一角。脚を組んで革張りのソファに腰を下ろしていたブロンドの女が、こちらを見た瞬間、目を見開いた。整った真紅の唇から、僅かに息が漏れる。白磁のような頬に、驚きが走った。


「――スティン?」


 立ち上がった勢いのまま、女は駆け寄った。

 指先が震えながらスティンの肩に触れ、そのまま腕を回す。香水と煙草の匂いが混じる。柔らかな体温が、胸元に触れた。


「あなた、生きてたのね……」


 スティンは一瞬だけ瞼を伏せた。

 そして、抱き締め返すことなく、ただ眉を下げた。


「悪いが、お前……名前は」


 その言葉に、女の動きがぴたりと止まった。

 硬直。息を呑む音が、微かに聞こえた。

 その目が、恐る恐るスティンの顔を探る。


「……ちょっと。冗談、よね?」


 声は震えていた。

 その間を裂くように、背後から重い靴音が近づいた。


 スーツの裾が揺れ、灰髪の男が二人の間に割って入る。

 手が女の肩を押しのけ、スティンの体を軽く引き寄せた。


「この女はレノ……お前と同じ幹部だ」


 低い声が空気を冷やした。

 スティンは片眉を上げて呟く。


「俺も幹部なのか」


 その声音には自覚も誇りもなく、ただ事実を確認するだけの響きがあった。レノが眉を深く寄せ、灰髪の男へ視線を向ける。


「アルフェ、説明して。一体どういうことよ」

「……記憶がねぇ。こいつは何もかも、忘れちまってんのさ」


 灰髪の男――アルフェが、頭の横で手を刹那的に広げた。

 レノは息を呑み、視線を泳がせる。その青い瞳の奥に、悲しみとも哀れみともつかぬ色が滲んだ。


「こいつは今から検査に回す」


 短い命令。有無を言わせない声音だった。

 肩口から回されたアルフェの手が、拘束するように、逃さないとでも言うように強く絡んでくる。スティンはただ目を瞬いた。


「当分は、オレが預かる。他の奴らにも知らせとけ」

「……あなたが?」

「あぁ、そうだ」


 吐き捨てるような返答。

 拘束が解かれると、次は腕を掴まれた。力強く引かれ、足が自然と黒い背中を追う。不安に駆られ、振り返る。スティンの視界に映り込んだレノは、ただ静かに、唇を噛んでいた。


 三人の足音が廊下に響く。

 己の覚束ない足取りに、違和感が拭えない。


 理解の外にある出来事ばかりが続いている。

 それでも――歩く。過去を知る者がいる限り、自分という輪郭を繋ぎ止めることができる気がした。


 足音が冷たい床に落ちていく。

 その音が、やけに深く、遠く響いた。



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