0009 - 追手
緩やかな坂道を進む車内。
窓の外を流れる景色は、海沿いの道らしい開放感を湛えているが、スティンの視界は淡い緊張に縁取られていた。
ダッシュボードに放り投げられた書類がエンジンの振動に震え、運転席でハンドルを握る男の横顔に視線が移る。彫りの深い顔と、灰がかった冷たい色の瞳、そして土気色の肌。鋭さを帯びた輪郭が垂れた灰の前髪に隠れ、スティンの中で、妙な親近感を抱かせていた。
「――同僚。今、何処に向かっている」
問いは平然と、しかし何処か探りを含ませていた。
スティンの声は外套の襟を伝う風のように冷たい。
「東京だ。我々の拠点がそこにある」
同僚は、前方の道を捉えたまま答えた。
黒いワイシャツから覗くその首筋や、横顔の輪郭を――スティンは無意識ながら測るように見定めた。
「我々――妙な言い回しだな。まさかとは思うが、犯罪組織か」
その回答を待ちながら、スティンはバックミラーに視線を僅かに向け、車列の動きを探る。同僚が、短く溜めたように答えた。
「外側から見りゃ、そうとも言える」
嫌な予感は的中した。
スティンは吐息を洩らし、薄く目を細めた。
肩を竦めながらも、ミラー越しに後方を注視する。
「後方、白塗りのセダン二台。距離としては――そうだな、三百ほどか」
事務的に報告するように口に出す。
数字は身体感覚の延長だった。
忘れているはずの記憶が、反射として働く。
「あぁ、お前も気付いたか。忘れても、身体は覚えてるらしいな」
同僚の声に、くぐもった安堵の色が混じる。
スティンは短く息を吐き、問いを続けた。
「――それで、どうするつもりだ」
「まだ目的地まで距離がある。ここで撒いたところで、先回りされるのがオチだろうが……今ここで、わざわざ潰してやる必要もねぇ」
理性的な計算が交わされる。
スティンはその冷静さを評価しつつ、車外の空気を確かめるように首を僅かに動かした。
「合理的だな。だが、彼らは叩くつもりらしい」
言い終わる間もなく、視界の端で後方の二台が距離を詰めた。黒塗りの車体が低く唸りを立て、路面を引き裂くように迫っていた。
「――なら、お前が潰せ。オレは今、手が離せねぇからな」
短い命令に視線を滑らせると、同僚がスーツの胸元から、自然な仕草で拳銃を取り出していた。それが放り投げられたと同時に、スティンは手を伸ばし、受け取った。冷たい金属の感触。拳銃の重量が、掌に吸い付くように馴染む。指先の震えが、緊張だけではないことを告げていた。
「……俺は拳銃なんざ、使ったことないんだが……」
微かに震えの混ざった言葉を吐きつつも、スティンの指先は、確かに弾倉を捉え、リロードの動作を自然と行っていた。古い身体の反応が、忘却の壁を越えているのだと、スティンは肌で感じ取る。
「認めたくはねぇが……銃器の扱いなら、お前の右に出る者はいねぇ。感覚のままに撃て。それで奴らは沈む。容赦はするなよ」
同僚の声は淡く嘲るようで、それがかえって集中を促した。
スティンは弾を装填し、握り直す。
鉄の冷たさが理性に芯を通した。
「念のため訊くが、彼らは何者なんだ?」
「さぁな……だがまぁ、お前の居場所を嗅ぎ付けた諜報機関の連中だろうぜ」
スティンは予想外の返答に、口元を歪める。
静かに恐ろしいことを言う同僚に、僅かに引いた。
「……まあいい。運転は任せる」
了解の合図は軽く頷くだけで済む。背に腹は代えられない。
スティンは窓の外へ視線を移し、小さく目を瞬かせた。
「しばらく伏せてろ」
再び短い命令が出されると、車が加速する。後方の二台も追い立てるように速度を高め、三台の列が伸びていく。エンジンの咆哮が耳朶を打ち、町の景色が刹那的に流れていった。
後方から何発もの銃声が響く。
だが、車には当たらない。耳に残響して離れなかった。
己の銃声が空気を切り裂いたのは、三回目のカーブを曲がった瞬間だった。スティンは窓を開け、腕をだらんと外に放り出す。指先が引き金へと落ちる。反動が腕を返し、鉄の吐息が指に伝わる。
弾丸は視界を薙ぎ、思い描いた軌跡で前走車の前輪へと吸い込まれた。ゴムが悲鳴をあげ、車体が一瞬暴れ、制御を失って路肩へと滑り落ちる。後続の二台目も慌ててハンドルを切り、バランスを崩して転落した。砂煙と金属音が、短く街を満たしていく。
思いの外、罪悪感はなかった。
だが、罪悪を感じない己に、ただ嫌悪感を抱いた。
車内に短い沈黙が落ちる。同僚が煙草に火をつけ、無造作に吸い込んだ。灰の香りの裏に、硝煙の匂いが混じる。
「腕は落ちてねぇようだな」
運転席の言葉に、スティンは自分の右手を見下ろした。
拳銃を握る感触が、確かな生きた反射だった。
「……妙な感覚だがな」
短い沈黙の後、スティンは吐露するように言った。
胸の奥に、掴みかけては逃げる記憶の残滓が疼く。硝煙の臭いが懐かしさと吐き気を同時に呼び覚ました。
スティンは前髪をかき揚げ、拳銃をダッシュボードに置く。
間接的に人を殺した事実に、心が震えていた。
冷たさが車内の現実を強める。
外では救急のサイレンも、通行人の叫びも遠ざかっていく。
スティンの身体にはまだ、戦いの残響が生きていた。




