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月光〜元最強の暗殺者、記憶喪失で善人になった結果、裏社会で壊れていく〜  作者: 幻翠仁
第二章

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0009 - 追手



 緩やかな坂道を進む車内。

 窓の外を流れる景色は、海沿いの道らしい開放感を湛えているが、スティンの視界は淡い緊張に縁取られていた。


 ダッシュボードに放り投げられた書類がエンジンの振動に震え、運転席でハンドルを握る男の横顔に視線が移る。彫りの深い顔と、灰がかった冷たい色の瞳、そして土気色の肌。鋭さを帯びた輪郭が垂れた灰の前髪に隠れ、スティンの中で、妙な親近感を抱かせていた。


「――同僚。今、何処に向かっている」


 問いは平然と、しかし何処か探りを含ませていた。

 スティンの声は外套の襟を伝う風のように冷たい。


「東京だ。我々の拠点がそこにある」


 同僚は、前方の道を捉えたまま答えた。

 黒いワイシャツから覗くその首筋や、横顔の輪郭を――スティンは無意識ながら測るように見定めた。


「我々――妙な言い回しだな。まさかとは思うが、犯罪組織か」


 その回答を待ちながら、スティンはバックミラーに視線を僅かに向け、車列の動きを探る。同僚が、短く溜めたように答えた。


「外側から見りゃ、そうとも言える」


 嫌な予感は的中した。

 スティンは吐息を洩らし、薄く目を細めた。

 肩を竦めながらも、ミラー越しに後方を注視する。


「後方、白塗りのセダン二台。距離としては――そうだな、三百ほどか」


 事務的に報告するように口に出す。

 数字は身体感覚の延長だった。

 忘れているはずの記憶が、反射として働く。


「あぁ、お前も気付いたか。忘れても、身体は覚えてるらしいな」


 同僚の声に、くぐもった安堵の色が混じる。

 スティンは短く息を吐き、問いを続けた。


「――それで、どうするつもりだ」

「まだ目的地まで距離がある。ここで撒いたところで、先回りされるのがオチだろうが……今ここで、わざわざ潰してやる必要もねぇ」


 理性的な計算が交わされる。

 スティンはその冷静さを評価しつつ、車外の空気を確かめるように首を僅かに動かした。


「合理的だな。だが、彼らは叩くつもりらしい」


 言い終わる間もなく、視界の端で後方の二台が距離を詰めた。黒塗りの車体が低く唸りを立て、路面を引き裂くように迫っていた。


「――なら、お前が潰せ。オレは今、手が離せねぇからな」


 短い命令に視線を滑らせると、同僚がスーツの胸元から、自然な仕草で拳銃を取り出していた。それが放り投げられたと同時に、スティンは手を伸ばし、受け取った。冷たい金属の感触。拳銃の重量が、掌に吸い付くように馴染む。指先の震えが、緊張だけではないことを告げていた。


「……俺は拳銃なんざ、使ったことないんだが……」


 微かに震えの混ざった言葉を吐きつつも、スティンの指先は、確かに弾倉を捉え、リロードの動作を自然と行っていた。古い身体の反応が、忘却の壁を越えているのだと、スティンは肌で感じ取る。


「認めたくはねぇが……銃器の扱いなら、お前の右に出る者はいねぇ。感覚のままに撃て。それで奴らは沈む。容赦はするなよ」


 同僚の声は淡く嘲るようで、それがかえって集中を促した。

 スティンは弾を装填し、握り直す。

 鉄の冷たさが理性に芯を通した。


「念のため訊くが、彼らは何者なんだ?」

「さぁな……だがまぁ、お前の居場所を嗅ぎ付けた諜報機関の連中だろうぜ」


 スティンは予想外の返答に、口元を歪める。

 静かに恐ろしいことを言う同僚に、僅かに引いた。


「……まあいい。運転は任せる」


 了解の合図は軽く頷くだけで済む。背に腹は代えられない。

 スティンは窓の外へ視線を移し、小さく目を瞬かせた。


「しばらく伏せてろ」


 再び短い命令が出されると、車が加速する。後方の二台も追い立てるように速度を高め、三台の列が伸びていく。エンジンの咆哮が耳朶を打ち、町の景色が刹那的に流れていった。


 後方から何発もの銃声が響く。

 だが、車には当たらない。耳に残響して離れなかった。


 己の銃声が空気を切り裂いたのは、三回目のカーブを曲がった瞬間だった。スティンは窓を開け、腕をだらんと外に放り出す。指先が引き金へと落ちる。反動が腕を返し、鉄の吐息が指に伝わる。


 弾丸は視界を薙ぎ、思い描いた軌跡で前走車の前輪へと吸い込まれた。ゴムが悲鳴をあげ、車体が一瞬暴れ、制御を失って路肩へと滑り落ちる。後続の二台目も慌ててハンドルを切り、バランスを崩して転落した。砂煙と金属音が、短く街を満たしていく。


 思いの外、罪悪感はなかった。

 だが、罪悪を感じない己に、ただ嫌悪感を抱いた。


 車内に短い沈黙が落ちる。同僚が煙草に火をつけ、無造作に吸い込んだ。灰の香りの裏に、硝煙の匂いが混じる。


「腕は落ちてねぇようだな」


 運転席の言葉に、スティンは自分の右手を見下ろした。

 拳銃を握る感触が、確かな生きた反射だった。


「……妙な感覚だがな」


 短い沈黙の後、スティンは吐露するように言った。

 胸の奥に、掴みかけては逃げる記憶の残滓が疼く。硝煙の臭いが懐かしさと吐き気を同時に呼び覚ました。


 スティンは前髪をかき揚げ、拳銃をダッシュボードに置く。

 間接的に人を殺した事実に、心が震えていた。


 冷たさが車内の現実を強める。


 外では救急のサイレンも、通行人の叫びも遠ざかっていく。

 スティンの身体にはまだ、戦いの残響が生きていた。



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