旦那様の失言
――……結局一睡もできなかった。
私は軽く身支度を整えると、部屋から忍び足で出て一階へと降りていく。
まだ夢の世界にいる皆を起こさぬように、薄暗い中をゆっくりと。
夜が明けるか明けないか時間帯のため、仕事に行くにも少しばかり早い。
そのため私はアル達に一晩お世話になったということで、食事を作るために買いに行くことにした。
この時間でも教会前のパン屋さんがもう開店しているはずだ。
あと、配達があるから牛乳屋さんと卵屋さん。
比較的に開店時間が早いそこを回れば、軽い朝食ぐらい用意できるだろう。
玄関の鍵を開け外へと出れば、冷たい空気が体へと纏っていく。
そうすれば少しだけ、頭がすっきりしたような気がする。
こういう朝の雰囲気は好きだ。
まだ薄暗い空に、ぼんやりと太陽が顔を覗かせている風景。
それでも肌を掠める空気は氷のように冷たい。
うぅ、やっぱこの国は寒いなぁ。と、コートに顔を埋めた時だった。
「ヒスイさんっ!」
「え?」
自分の名を呼ぶ声がすぐ傍の建物と建物の隙間から聞こえてきたかと思えば、
ガガサガサとその物陰から影が飛び出して来てきた。そのため、私は危うく悲鳴を上げそうに。
それでも、それを呑み込んだのは知っている人だったからだ。
「だ、旦那様……!?」
私は目をまん丸くさせ、彼を見た。
なんでこんなに早い時間帯に来たの? たしかに朝一って言っていたけれども。
いつもの旦那様はまだ眠っている頃。
私もまだ仕事には向かわず、屋敷にいる時間帯なのでかなり早いのに。
「ご無事ですか? アルフレッド様に何もされてませんか?」
「あの……」
「何もされてませんよね!?」
両肩を掴まれ、旦那様に物凄い形相で凄まれた。
肩に食い込む手が力強く痛い。
――こ、怖いです。旦那様……
「されたんですか!?」
「あの……」
なんでそんなに鬼気迫る迫力で……
そんな旦那様の様子に戸惑っていると、「申し訳ありません、姉上」という、アクセラ様の声と姿が、
またまた物陰から現れた。
しかもなんだか、憔悴しきっている様子。
あぁ、もしかしてお仕事忙しいのかもしれない。
昨夜も不審者捕まえていたし……
今度、お花でも届けようかな。少しは癒されるかも。
「アクセラ様。おはようございます」
「おはようございます、姉上。早朝から兄上がご迷惑を……」
「いいえ」
「ヒスイさん! アクセラよりも僕の質問に答えて下さいっ!」
「アルとは違う部屋ですよ。私はリオナさんと同室です。何にもないです」
「本当ですか!?」
「はい」
「あぁ! 良かった」
旦那様はそう呟くと私を抱き寄せた。
ほんの一日ぶりのその温もり。それが数年も感じていなかったかのような錯覚に陥ってしまうぐらいに、私は旦那様が恋しかったようだ。
――久しぶりの旦那様だわ。
しばらく距離を置くと決めたくせに、つい我慢出来ずに自分の腕を伸ばして彼の背に回した。
「もうお仕事ですか? いつもより時間が早いようですが……」
「はい。お世話になったので、アル達に朝食を作ろうと思って」
「……え」
なんだろう? 場が凍った気がする。
旦那様は硬直したまま、不穏な空気を醸し出し初めてしまう。
私の気のせいかな? と思ったけれども、ちらりと伺ったアクセラ様の表情が強張っているから、
私の発言が雰囲気を壊してしまったのは確実みたいだ。
「――それは手料理という事ですよね? つまり、ヒスイさんはアルフレッド様に手作りの朝食を食べさせたいと?」
「あっ! もしかして不敬罪にあたりますか? 王弟殿下に手料理って」
でも、アル達と昨日テイクアウトの料理食べてたしなぁ。
ニイゲルでは食堂で蟹食べたし。
「姉上違います……違うんです……後生ですから、気持ちだけにして食事造りは辞退して下さい……姉上のためなんですよ……」
なぜか、涙目のアクセラ様は首を左右に振りながら懇願。
もしかしたらば、味とかを気にしているのかもしれない。
私は屋敷では料理はしないし。
「私、実家では毎日料理してましたよ? 兄さんも普通に美味しいって食べてましたし」
「違うんです。……お願いですから……まず兄上に作ってあげて下さい」
「屋敷には料理人の方がいらっしゃいますよ? ――……ん?」
旦那様に抱きしめられながらアクセラ様と会話していたけれども、その間にぶつぶつ何か言っている声が耳朶に触れる。それは私の肩に顔を埋めている旦那様が発生源。
粒子のように細かいそれは、私の耳には言葉として届くことはない。
――なんだろう? 聞き取れないや。
「兄上! 早まらないで下さい! お願いします。姉上! アルフレッド様達の朝食はこちらで用意致しますので、作らないで下さい。姉上のためです!」
「私のですか? なんだか事情が呑み込めませんが、わかりました」
「本当ですか!? ありがとうございます」
事情はわからないが騎士のアクセラ様がこんなに懇願するぐらいなのだから、もしかしたら規則か何かあるのかもしれない。食中毒が心配とか。
勝手な事をして、後で国同士の問題になるのも大変だ。
ここはこういった事に慣れているアクセラ様に従おう。
「それから、もしよろしければ騒動が落ち着くまで城にいらっしゃいませんか? 警備の面でも安全ですし。それにニクスとも遊んで下さると嬉しいです。あの子は姉上が大好きですから」
「ですが、ご迷惑では……?」
「むしろ、城に来てください。俺を助けると思って」
「え?」
私は小首を傾げ、アクセラ様を見上げた。
「姉上も普通の日常生活を望んでおられますよね? 自由を制限された生活よりも」
「それは勿論……――って、まさか」
ここで私は、はっと気づく。まさか、旦那様。また!?
私は旦那様へと回していた手を離し、無理やり引きはがした。
「旦那様。まさか、檻を買ったんじゃないないですよね?」
「……買っていません。土地は買いましたが」
「本当ですか?」
「えぇ」
じっと旦那様のエメラルド色の瞳を見詰めていると、ニイゲルの宝石店の時のように反らされなかった。
きっと私の勘違いだろう。さすがに旦那様だってわかっているはずだ。
「すみません。私の勘違いでした。てっきり旦那様が檻でも購入したのかと……」
「檻はもう買うの辞めました。ヒスイさんが窮屈になりますから。檻に入れてしまったら、部屋を自由に行き来できなくなりますし。僕もヒスイさんに逢うのに一々鍵を開けてでは、貴方に触れる時間が減ってしまいます」
旦那様はそう言うと、私の方へと腕を伸ばして頭を撫でて来た。
そうだよね。旦那様だって言ったらわかって下さる人だもんね。
ニイゲルで檻は駄目ってちゃんと言ったし。
「あ、姉上……」
「はい?」
小首を傾げすぐ傍にいるアクセラ様へと視線を移せば、彼は顔を引き攣らせていた。
心なしか顔色が悪い気がする。
昨夜も遅くまで見回りしていたのに、今朝もこんな時間から旦那様の付き添い。
これでは休む時間が無かったのかもしれない。
心配だなぁ……騎士のお仕事大変なのかもしれないけれども……
「俺は騎士です。国とそこに住む全ての人々を守る。それが役目です。ですから、姉上もお守り致しますので」
「ありがとうございます。アクセラ様、昨夜も不審者を捕まえていましたね。この国の平和は、騎士の人々に守られているので、安心です」
「え。ご覧になっていらっしゃったのですか!?」
アクセラ様が驚きのあまり身を後方へ退かせたので、私は小首を傾げた。
「はい。背の高いフード付きのコートを着ている男ですよね? 後ろ姿だけでしたので、顔は見ていませんが。あの人は、覗きとかですか?」
「のぞ……覗き……えぇ、ですがあれはなんと申しますか……いえ、その……記憶から抹消して下さい」
妙に歯切れの悪い言い方で、アクセラ様は話を終わらせてしまう。
きっと守秘義務等の誓約があるのだろう。
「お、お腹空いていませんか? 朝食でも食べに行きましょう。ついでにアルフレッド様達の分の朝食も購入してお渡しするというのは如何でしょうか?」
「あれ? お店で買うのは問題ないのですか?」
「えぇ。それは大丈夫です。姉上が手作りをしなければ」
「そうですか。でも私が知っているパン屋さんは、御惣菜パンというよりはコッペパンとか食パンなど、自分でアレンジするのに適している物が多いんです。何処かご存じありませんか?」
「申し訳ありません。食事は騎士の食堂や城で済ませてしまうので。兄上ご存じありませんか?」
「それなら噴水広場を越えた先にある、十字路にあるパン屋は如何ですか?」
旦那様のその台詞に、私の呼吸が止まりそうになる。
それはほんの数日前にメサイアさんに強制的に聞かされた、旦那様との思い出話に出てきた場所だったから。
「もしかして角のパン屋……?」
「はい。ヒスイさんご存じなんですか? 美味しいですよね」
と、微笑んでいる旦那様が腹立たしい。
世界一それが大好きなのに、世界一嫌いだ。
「……知っていますよ。なんでもメサイアさんと旦那様が良く行っていたお店だそうですね? 始めてパン屋に入店して、目を輝かせていたと伺いましたよ? 全商品購入したなんて、さすが旦那様です」
波打つ感情を抑え込み、無理やり口角を上げて私は微笑んだ。
両手に握りこぶしを作って。
「ち、違い……」
「あれ? 違うんですか? もしかしてメサイアさんが嘘を?」
「そ、その…いえ、それは、その、本当です……ですが…その……ち、ちがっ…違うんです……!」
旦那様は必至で首を左右に振っている。
きっと旦那様の事だ。悪気はないのだろう。
でも、少しはこっちにも配慮して欲しい。
私は旦那様の事が好き。
それなのに、元婚約者との思い出のパン屋の話を訊かされて気分が良いはずがない。
勿論、分かっている。
旦那様は私が旦那様の事を好きだという事は知らないから、仕方が無い事だということも――




