呪縛するその言葉
――……遅いな、旦那様。
あの食堂の件があり、旦那様は食事を中途半端にしたまま退席。
私には「先に食事をしていて下さいね」と言ってくれたけれども、その顔は強張っていた。
無理くり張り付けた微笑。あんな顔、今までした事なんてなかったのに。
最初は私室で待っていたのだけれども、あっという間にもう就寝時刻。
そのため私は旦那様の部屋へと移動し寝具の上にて待っている。
明日も仕事。そのためいつもならば、とっくに夢の中だ。
――こんな状態で眠れるわけないよ……
「あの女」そうアイリスさんは言った。
という事は私の感が当たっているのならば、相手はメサイアさんだろう。
どうして今更? 何故? たしか結婚して子供もいるって言っていたよね?
どうしよう。ぐるぐると動き回っているネガティブな思考と不安で胸が押しつぶされそうだ。
早く旦那様に私の元へ戻って来て欲しい。
またいつもの笑顔で戻って来て欲しい。
――怖い。もし、戻って来なかったら?
まるで自分の居場所がこの世界から無くなってしまうと宣告されたかのような恐怖が私を襲う。
以前の私ならば、考えられないこと。
どうしてこんなに弱くなってしまったのだろう?
最初は旦那様に好きな女性が出来たら別れようと思っていたのに……
我が儘になってしまっている。旦那様の傍から離れたくないと。
「――……た」
「―から…か――」
「え?」
ふと耳が誰かの話し声を拾った。
どうやらそれは廊下から聞こえてくるようで、こちらに近づいて来ている。
それにたまらず寝具から降りて扉へと向かう。
どうやらあちらの方か早かったらしい。
取っ手に腕を伸ばしかけると勝手に扉が開き、旦那様とアイリスさんの姿が視界に飛び込んで来た。
二人共、最初の表情は険しかったのに、私を見るや否や目を大きく見開くや否や顔を驚きで染めた。
「奥様! 明日、いえ、正確には本日はお仕事のはずでは?」
「ヒスイさん? まだ起きていらっしゃったのですか?」
あぁ、旦那様の声だ。
当たり前なんだけれども、それが耳朶に触れ広がっていくのが嬉しい。
「……良かった。戻って来てくれて」
私は手を伸ばし、旦那様へとしがみ付くように抱き付く。
温かくて大きくて。いつも感じている旦那様の温もり。
本物の旦那様だ。
「申し訳ありません。不安ですよね。あんな様子で食事を中退すれば……」
旦那様がそう口にしながら、私を抱きしめ返してきた。
それが酷く安心する。
「ヒスイさん。メアが……メサイアが来ています。子供と一緒に。今は夜も遅いですし、ゲストルームにて宿泊を」
「そうですか」
そう返事をしたけれども、これから旦那様が説明してくれる内容が、決して私には良くないことだということはもう頭では理解出来ている。
それは旦那様の声音が強張っているから。
死刑台にでも連れて行かれるかのように、私の心臓は嫌な音を奏でていた。
「それでメサイアさんの用事は、込み入っている物なのですか?」
「えぇ……メサイアには子供がいるのですが、その子の父親が…どうやら僕だという事らしいです…」
実に歯切れの悪い物の言い方。
そんな話なんて聴きたくない。しかもなんて簡単に予想出来る内容なんだろう。
『メサイアさんの子供は、旦那様の子供かもしれない』
生まれて初めて音を遮りたくなった。そのため、体も拒絶しようと大きく動いてしまう。
「――っ」
旦那様はそんな私の反応に言葉を切ると、私を抱きしめている腕に力を込めていく。
まるで逃がしはしないと言っているかのように。
「……父親は旦那様なのですか?」
「わかりません。メサイアが子供は結婚してからと言っていたので、ちゃんと避妊はしていました。ですが、百パーセントとは言えません。彼女の言い分としては、僕の前から居なくなったのは妊娠して怖くなったからだと。たしかに手紙には妊娠何ヶ月とは書かれていませんでした……」
「それでメサイアさんは、復縁と認知を求めていらっしゃるのですか?」
その問いには旦那様は肯定も否定もしなかった。
「僕が父親ならば、親として必ず責任は取ります。ですが、父親かどうかは今すぐに判断できません。もしかしたらば、夫の子供という可能性もあります。僕はまだ王位継承権を持っていますから、父上の元にはこの件についてすぐに手紙を送り事情を説明致しました。僕が父親ならば、無関係では済まされませんから。早朝には城へ向かいます。そのため暫くごたつき、貴方にご迷惑をかけてしまうかもしれません」
「わかりました。メサイアさんは暫くこちらに滞在を?」
「いえ。宿を取りそちらに宿泊して頂けるように説得します」
「説得……もしかして、メサイアさんはここに滞在希望という事ですか?」
その答えとばかりに、旦那様の深く重い嘆息が零れてきた。
どうやら当たっているらしい。
――暫く実家に戻っていた方がいいのかな?
私が居ては話し合いもしにくいのかなと思う。だって現妻と元婚約者という間柄だ。鉢合わせでもしたらお互い気まずい。
それに現実逃避というわけではないが、メサイアさんとは逢いたくない。
「追い出せばいいんですよ! たしかにこの屋敷の建設には、あの女の希望が盛り込まれていまがね。ですが、一部ちゃんとリフォームしているじゃないですか。それにここは旦那様と奥様の屋敷なんですよ? それなのに我が物顔で! 旦那様も強く言わないから、ますます図に乗るんですってば!」
「アイリスさん……」
怒りに燃えているのか、いつもと口調が違いますよ。
それが声音にも含まれているらしく、旦那様の体が大きくびくついた。
+
+
+
「憂鬱だ」
いつもと同じ店から屋敷までの帰り道なのに、こんなに気が重いなんて始めてだ。
それもそうだろう。屋敷に待っているのは、旦那様の元婚約者とその子供。
しかも旦那様の子かもしれない。
昨夜のメサイアさんの訪問より、私と旦那様の日常は激変。
私は本当は暫く実家に泊ろうと思ったけれども、朝一番の店先で待っていたのが太陽にも負けずに爽やかな兄さんの笑顔。そしてそれと同時に報告されたのが、
「ヒスイも結婚生活落ち着いた頃だろうし、俺もそろそろと思ってな。昨夜アリーにプロポーズして了承貰ったんだ。今度の休みにアリーの両親に挨拶に行ってくる」というなんとも目出度い話。
それには流石に言えなかった。
まさか、いま屋敷の中は修羅場なんだなんて……
仕事中は良かったんだよね。没頭出来たから。
でもさ、それが終ると頭の中をネガティブがぐるぐると駆け巡っちゃう。
何度めかわからない嘆息を漏らせば、
「もしかして貴方がヒスイさんかしら?」
と背後からそう声をかけられた。そのため振り返って見て見たら、そこに居たのは見ず知らずの女性。
彼女の足もとには、六から七歳ぐらいの綺麗な顔立ちをした男の子の姿も。
その子はドレスの裾へとしがみつき、月のように丸く愛らしい瞳でこちらをじっと見ている。
眉を下げ警戒心をあらわにしているから、もしかしたら人見知りなのかも。
――親子かな?
二人共整った顔立ちをしていて、アメジスト色の透き通った瞳が印象的だ。
「はい、そうです。あの……?」
お店のお客さんだった人だろうか? と一瞬頭を過ぎったが、彼女達が身に纏っている衣装を見て、違うなと思った。細やかな刺繍が施されたドレスやと子供服から、恐らく上流貴族の人だろう。
うちは商店が並ぶ場所にあるため、お客さんもご近所やその周辺のエリア。
そのため高級品種の花々を扱ってはおらず、そういった物を求める貴族達はまた違うお店を利用するから。
「あら良かったわ。人違いでなくて。亜麻色の綺麗な髪をした小さくて可愛い人だと、昨夜ライト様に伺っていたから」
「旦那様が……? もしかして貴方がメサイアさん?」
「えぇ。宜しくね。しばらくお世話になりますので」
そう言って微笑まれたけれども、私は硬直。
たしかにそんな事を言っていたけれども、旦那様が説得するって言っていたのに!
……あぁ、旦那様。押しに弱そうというか、優しすぎるからな。なんとなく無理そうとは思っていたけど。
「この子がリヴァンよ。さぁ、ご挨拶して」
メサイアさんは屈み込み、足もとにしがみついている子供の体へと手を添え促す。
けれどもその子はますますメサイアさんへとへばりついた。
どうやらこの短時間では慣れてくれないみたい。
「こんにちは、リヴァンくん」
代わりに私がしゃがみ込み、視線を合わせて挨拶をすれば、なんとかこくんと頷いてくれた。
こちらをじっと見ているため視線が合うけれども、すぐに外されてしまう。
でもやはり気になるのか、またこっちを見る。とても可愛い。
「町の様子も変わってしまったのね。昔、この当たりに住んでいたのよ、私。
あぁ、でもそうね。角のパン屋は変わってないわ。あの頃のままね。
良くあそこにライト様と朝食を一緒に買いに来ていたの。ふふっ、ライト様ってば本当におもしろかったのよ? 初めてパン屋に入ったらしくて、目を輝かせて子供みたいにして。お店にあるパンを全種類購入してしまったの」
「そ、そうなんですか」
「えぇ。ライト様に聞いてみて。あそこのパン好きだったから」
「……今度訊いてみます」
何故、私は旦那様の元婚約者の昔話を聞かねばならないのだろうか。
しかも旦那様絡み。
心がひねくれてしまったのか、私はちょっとやさぐれていた。
波打つように感情が不安定になっている。
過去は過去! 今は今っ! そして旦那様の妻は私です! と、叫んでやりたい気分だ。
「あの……すみませんが、私はそろそろ……アイリスさんと約束があるんです」
さすがに子供の前だし、こちらもそれなりの距離感を保ちたい。
可もなく不可もない程良さを。
だからなるべくこの場を早く立ち去りたくて、そう言葉にした。
勿論言わずもがなそれは、さっさと帰宅するための口実。約束なんてしてない。
「あら、そうなの? なら、一緒に帰りましょう」
「は?」
と、その耳に届いた信じられない台詞についそんな言葉が漏れた。
――……私って、器小さいのかなぁ?
メサイアさんは気まずくないらしい。むしろなんとも思ってないのかも。
私だけ一人イライラして馬鹿みたいだ。
「駄目かしら?」
「いえ……ですが、馬車でいらっしゃったのでは?」
「えぇ、そうなの。でも、久し振りに歩きたい気分なの。リヴァンだけ馬車で先に屋敷に戻すわ。この子では、歩くのに距離があり過ぎるもの。ねぇ、構わないわよね? 私、ヒスイさんと仲良くなりたいの」
さすがに「いえ、私は別に程よい距離で」とは言いづらい。
それに何より恐らく彼女は私に話があるのだろう。
恐らくリヴァン君には聞かせたくない内容。
屋敷ではアイリスさん達の目がある。それならば、こうやって私の帰り道を待つのが一番手っ取り早い。
「わかりました」
私は仕方が無くそれを了承した。
きっとその話が私の感情を荒れさせるものだろうと理解していても。
逃げるなんて嫌だったから。
リヴァン君を従者に託し、メサイアさんと二人で歩いて帰宅。
なんて微妙なのだろう。
道行く人々の喧噪さえ、癪に障るほどに私の神経は張りつめていた。
町を夕日が包んでくれている。
それを見る度に新婚旅行で旦那様と一緒に見たあの綺麗な景色を思い出しては、
一人で顔を緩めていたのに。今はそれがずっと遠い過去の様に感じた。
「あの……何かお話があったのでは?」
さっさと帰りたい。
だから話だけ先に訊いて、理由を付けてお先に失礼するため思惑で私は口を開いた。
まぁ、大体理解出来ている。彼女が言いたい事を。
それに対しメサイアさんは真っ直ぐに向けていた視線をこちらへと向け優雅に微笑んだ。
「察しがいいのね…では、単刀直入にお願いするわ。ライト様と別れて欲しいの」
言うと思った。そう喉まで出かかったのを呑み込んだ。
「すみませんが、旦那様に伺って下さい」
「ライト様には勿論お伝えしたわ。貴方がいるからそれは出来ないとはっきり言われたの」
「なら――」
「リヴァンが可愛そうだと思わない? 父親と離れて暮らしているなんて……子供には両親が必要よ。
貴方ならば理解して頂けるわよね。孤児院育ちで両親が居なくて寂しい想いをしたでしょう?」
「……っ」
無意識に唇を噛みしめたのか、口内が苦い鉄の味が広がっていく。
「ライト様は優しいから貴方と別れられない。本心では子供……リヴァンと共に暮らしたいはずよ。
自分の子供なんだもの。だからヒスイさんから言ってくれないかしら?」
「……あの子は本当に旦那様の子なのですか? 瞳の色が違いますよね?」
ヴァン王国の王族は綺麗なエメラルドグリーンの瞳をしているはず。
過去の言い伝えより、それは代々受け継がれている。
「えぇ、そうよ。あの子は六歳。ライト様とお付き合いしていた時期と重なるわ。でも瞳の色なんて、ニクス様もエメラルドグリーンではないでしょう?」
「あ……」
そうだ。それはニクスの傷になっていたのに……
なんで私は瞳の色だけで違うなんて判断してしまったのだろうか。
ごめん、ニクス……
「ねぇ、離縁してあげて。リヴァンは父親と共に一緒に暮らせるし、ライト様も自分の子供と生活できる。貴方が別れてくれれば、みんな幸せになるの。貴方に親子を引き裂く資格なんてないでしょ? ねぇ、お願い。あの子から父親を奪わないで」
その懇願が呪詛のように何度も私へと降り注ぐ。
そしてそれがこの身を縛り付ける。底なしの闇の中へと――




