旦那様の過去
「そんなに目を見開いて。こぼれ落ちてしまいそうですよ?」
「えっと……それはこの状況なんで致し方ないかと思うのですが」
だってこんな風になるなんて想像もしなかったんですってば! まさか旦那様に押し倒される日が来るなんて。
私の右肩に添えるよう置かれた旦那様の手。
ごつごつと骨張っているし、私のとは違い大きい。
今までなんとも思わなかったけれども、男の人なんだなぁって身をもって感じている。
「小動物というのは、驚くと一瞬動きを止めますよね。そして機敏な動きで森へと逃げてしまう。それと同じようにヒスイさんも、僕の元から逃げてしまいそうです」
「あの……先ほどから完全に私の事を小動物扱いしていますよね? そもそも小動物と人間では、生態が違いますよ。それに私は逃げませんってば」
「わかりませんよ? 口では何とも言えますからね。あの人も僕の元から居なくなってしまいました。ずっと傍にいると言っていたのに……」
あの人? 誰だろうと首を傾げながら凝視していると、旦那様の顔に影が差した。
なんとも寂しそう。思わず手を伸ばしてしまうぐらいに。
だがそれも何の前触れもなく豹変。
今度は目を細めて器用に口角を片側だけ上げ、卑屈な笑いを浮かべている。
「……あぁ、でも逃げられないよう檻へと入れてしまえばいいのですね」
危ない。その発言は危ない。
さすがにそんな物騒な事をあんな表情で言われ、私は慌てふためく。
――なんで檻っ!? いやそれよりも前に、監禁は犯罪ですからっ!
あたふたと視線を泳がせれば、それがおもしろかったようで今度はクスクスと笑われてしまった。
しかもなんだか、愉快そう。
酔っぱらっているせいか、旦那様はころころと表情が変わっていく。
「あー、可愛い。考えている事がだだ漏れですよ」
彼はそう口にすると、自分の右手を私の肩からそっと離し、それを少し斜め上へとずらす。
そうして辿り着いた頬へと触れ、ゆっくりと輪郭をなぞるように滑らせていく。しかもうっとりとした表情で。
「しませんよ。ヒスイさんを檻に入れるなんて。第一、小動物用檻に入らないじゃないですか。あぁ、でも人間用の檻を特注すれば問題ないですね」
「えっ!?」
「冗談です。窮屈な生活はさせられませんよ。前世と違ってヒスイさんは、今生では人間に生まれたのですから」
「前世……? 旦那様、そういうのが視えるんですか?」
「視えるわけありませんよ。イレイザ兄さん達のように特殊な能力なんて持っていませんので。でも僕にはわかります。ヒスイさんの前世はリスです」
きっぱりとはっきりとそう告げられた。
でも何となく理解出来る。どうせこの酔っ払いのことだ。見た目で言っているんだろう。
「言い切らないで下さいっ! どうせ小さいからとかそういう理由でしょ。わかりませんよ? 私の前世は狂暴なツキノワグマかもしれないじゃないですかっ!」
「えー。絶対にそうですよー。リスからどんぐり貰ったのが証拠です。僕とニクスは貰えなかったんですよ? でも僕はヒスイさんが人間で良かったです。だってこうして可愛い奥さんになってくれましたからね」
そう言ってはにかんだ旦那様。その笑顔が可愛い。
つい見惚れてしまうぐらいに。
旦那様って、ただそこに凛と佇んでいれば格好いいからなー。
女々しい時もあるけれども、ちゃんと肝心な時は守ってくれるし……
前半はアレだけれども、さっきの台詞も後半は胸に響いたわ。
そんな事を思いながらじっと旦那様を見ていたら、首を傾げられてしまった。かと思ったら、突如として旦那様の瞳が熱を帯びていく。
「あの……?」
「ヒスイさん」
甘い声音。まるで恋人を呼ぶかのように呼ばれてしまったので、焦ってしまった。
――何故急に!? 今まで小動物扱いだったのにっ!
そのため私の心臓が激しく走り始めてしまう。
それに……自分の名前をそんな風に呼ばれるなんて、思いもしなかった。
何ともない名前なのに、特別な気分になってしまう。不思議な感じだ。
「どっ、どうなさったのですか?」
彼はその手を私の唇へと滑らせる。
ゆっくりと曲線をなぞるように――
色気を溢れさせている彼は、ゆっくりと屈み込む。
その結果、端正な顔立ちと距離が近づいてきてしまった。
それにはさすがに「えっ!」と声が漏れたのは言うまでもない。
しかも何故か私の視線は旦那様の唇へと向かってしまう。
綺麗な人は唇も綺麗なんですね。
……って、違うーっ!
「なんですかっ!? この状況。そういうシチュエーションなんですかっ!?」
慌てて自由になる腕を伸ばし、旦那様の肩を押し留める。
だがそれも無駄な抵抗とばかりに、捕らわれ絡め取られてしまう。
そしてあっという間に寝具へと縫い付けられてしまった。
「だ、駄目です! 駄目ですからねっ! 素面じゃなければしませんからねっ!」
そう大声で叫ぶ。こんな事で止むわけなんてないと分かっていながら。
でも意外な事にそれは成功してしまった。
旦那様の動きが、ぴたりと止まったのだ。
「どうして? 僕達夫婦なのに」
「ですから、素面で同じ事が言えるならばいいですよ。言えませんよね? メサイアさんの事があるのに……」
そう言ったら旦那様は口をぽかんと開けた。どうやら呆気に取られたらしい。
そして目をぱちぱちと瞬きをすると、小首を傾げる。
「何故そこでメアの事が出てくるのでしょうか?」
「だって愛しているって、寝言で言っていましたよ」
「僕が?」
「他に誰がいるんですか」
「ありえません。そりゃあ、好きですよ。嫌いで別れてませんから。でも過去です。過去。第一、相手は結婚して子供がいるんですよ」
「でも……」
ちゃんと寝言で言った件、私はしっかりと耳に入れている。
「それ、本当に愛しているって言いました? 最後までちゃんと聞いていましたか? 愛していたとかの過去形ではなく?」
まくし立てるように早口で言われ、私は言葉に詰まった。
そんな事を急に言われても……そう言われれば、最後まで聞いていないような……
「僕ね、あの家が大嫌いだったんですよ。苦痛で仕方がなかった。だからもういっその事、跡形もなく壊して更地にし売却しようと思っていたんです」
「は?」
突然のカミングアウトに、今度は私が呆気に取られる始末。
冗談か? と思ったけれども、旦那様の表情が消えてしまっている。
それは今まで共に暮らしてきて、一度も見た事がない冷たい顔。
そのため、酔っぱらっているのが嘘のようだ。
どうやらこれから話される事は、酔っ払いの戯れ言で片付ける事はできない事らしい。そんな事を肌で感じる。
「旦那様……?」
触れていた手が離されたので、私は体を起こし姿勢を正した。
「あの家は、元々メアと住むために建てたんです。メアは貴族の娘でしたが家が没落し、幼き頃から庶民と同じ暮らしをしていました。ですから城で暮らすには恐れおおい、新たに郊外に家を建てましょうと言われ建設したのがあの家なんです」
「そうなんですか?」
「えぇ。間取りもメアと共に考え、将来結婚した時のために子供部屋も作ってあったんですよ。あぁ。その部屋もヒスイさんのお部屋も、ちゃんと一部分は改装してありますので」
気づかなかった。
それも仕方ないのかもしれない。屋敷は常に綺麗なので、あまり月日を感じる事ができないのだ。
「プロポーズを引き受けてくれたのに、ある日突然メアは失踪。僕は王子としての職務放棄し、探しました。でも見つからなかったんです」
旦那様の口から語られる過去。
それを私が聞いてもいいのか、少しだけ躊躇した。
もしかしたら、素面だったら口にしない事だと思ったからだ。
「でもある日突然彼女から手紙が届き、やっと安否確認が出来ました。ただ、結婚して妊娠していましたが」
「えっ……」
ちょっと旦那様。それじゃあ、ますます女性不信になるじゃないですか。それは納得出来ますよ。
「そこからは悲惨でした。王位継承権を放棄し、臣下に下ろうとし父上や兄上達と衝突したのです。母上には嘆き悲しまれましたが、僕も心がボロボロでしたので手を差し伸べる事が出来なかった……」
「どうして? 旦那様が悪いわけじゃありませんよ?」
「だって王子としての職務を放棄してたんですよ? 今更そんな資格なんてありません。それに人間辞めたかったですし。話し合いのすえ、王位継承権を残したまま、僕は国立研究所で働く事になりました。
幸い留学していた経験があり、その分野で空きがあったので」
「もしかしてメサイアさんの事を思い出すから、あの家が嫌いなんですか?」
「はい。でも今は違います。家に帰るとヒスイさんが居てくれますから。花壇に季節の花を植えたり、アイリス達と怪談話をして騒いでいたり……家が賑やかで生きているように感じるのです。貴方があの家を温かく染め上げてくれているからでしょうか」
そう言って旦那様は笑うと、私を抱き寄せた。
「だから僕は帰るのが楽しいんですよ。ついお土産を買って帰りたくなるぐらいに。本当は毎日買って帰りたいのですけれども、ヒスイさんきっと気にするから」
「ライト様……」
私は旦那様の背に手を回し、抱きしめ返した。
するとぐっと重みが自分へと押し寄せ、私はそのまま「えっ」と言う言葉と共に、寝具の上へと転がるように倒れ込んでしまう。
「旦那様っ! ちょっと待って下さい! ……って、寝てるし」
またもや肉食モードか? って思ったけれども、どうやら違ったらしい。
すやすやと寝息をたて眠っている。しかもなんだか幸せそうだ。
私はそんな旦那様に対し、これからは平穏な生活を送れますようにと願った。




