第16話 愛しいその名を呼ぶ
その日の夜――――――
いつもならそろそろ就寝準備を始める時刻だったのだが、
アイリスは中々寝付けないでいた
恐らく辺境伯を名前呼びすると決意した為だろう
そこで彼女は、裏庭の大きな噴水がある場所に向かう事にした
何故か隠された様にあるその噴水の庭は、人の行き来がほぼ無く噴水の水の流れる音だけが響き渡る、穴場スポットなのだ
いそいそと足を早めながら、ふとハイサムの事を考える
(今日は遅くなるとの事だったから、明日の朝、ご挨拶をしたら、ハイサム様とお呼びしてみよう)
そんな事を考えながら、アイリスは目を細める
今日はザフラーと「ハイサム様」呼びの特訓をあれほど沢山したのだから、きっと上手くいくはず――――
そんな事を考えていると、向かいから見覚えのある白黒の髪の男が現れた
デビッドだ
彼もアイリスに気付き笑顔を向ける
「これはアイリス殿。こんな夜にどちらへ?」
「デビッド様。夜風に当たりたくて裏庭の噴水へ行こうかと。水の音を聞いていると、落ち着くので」
「ほう、裏庭ですか」
デビッドは少し驚いた様な表情を見せると、次の瞬間ニヤリと笑みを見せた
「丁度いい!先ほどハイサムから鳥を介して文が送られてきましてね、怪鳥姿で帰ってくるから拭く物と身体を隠す布を置いておけと頼まれまして。そちらに行かれるなら、これを持っていってくれませんか?」
「ええ。かまいませんわ。でもこれは何処に置いたら良いのですか?」
「ああ、それは適当に噴水近くに置いて下さい!そしたら奴は気付きますから!」
そして持っていた物をアイリスに手渡すと「ではお願いします!」と言い、デビッドは足早に去っていく
アイリスは少し戸惑いながらも、裏庭へと急ぐのだった
―――――――――――――ーー―――ーーー
数分後
裏庭に続くドアをアイリスはゆっくりと開ける
僅かに灯された灯りを頼りに、噴水に続く道を通っていたその時、見覚えのある大きな黒紫の鳥が噴水付近に降り立とうとしているのを目撃した
(え!?もうお戻りになられたの!?)
ーーーーーーこのままでは辺境伯様が困ってしまう!
そう思ったアイリスは慌てて走り出す
息を切らしながら噴水に付いたアイリスは、息を大きく吸い、彼に聞こえるよう声を張り上げた
「辺境伯さ―――」
ザバァッ!!
アイリスが叫んだと同時に、人間姿に戻ったハイサムが噴水の中から姿を現した
勿論、全裸で
ハイサムは目を大きく見開き、アイリスを見つめる
2人の呼吸と時が一瞬止まる
「………これはハルシュタイ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
動じる事無く呼びかけようとしたハイサムに対し、アイリスは声にならない叫び声を上げた
「も、ももももも申し訳ありません!デビッド様から拭く物とお身体を包む布を置くように申し付けられまして、それで!ああああの!」
「ハルシュタイン嬢」
「わ、わざとでは無いのです!お許し下さい!」
「落ち着いて下さい」
ハイサムは冷静に対応するが、パニックになったアイリスは顔を真っ赤にしながら顔を隠し弁明する
「………どうかお嫌いに………ならないで下さい………」
消え入るような声で謝罪を述べるアイリスを、ハイサムは困ったように見つめる
「ハルシュタイン嬢」
落ち着いた声で呼ばれ、顔を隠しつつチラリとハイサムを見る
彼は噴水に浸かると、噴水の縁に肘を付き頬杖をしながら優しく微笑んだ
濡れた黒紫の髪や、褐色の肌に滴る水がなんとも色っぽく彼を引き立てていた
「良いのです。貴女に私のどんな姿を見られても…………ですが、このままだと格好が付かないので、持っている物を渡してもらっても?」
そう言われアイリスはハッとし、慌てて手に持っている物を渡す
そして「暫く後ろを向いて下さい」と彼に言われアイリスは背を向けた
すると水音が聞こえたかと思うと、暫くすると身体を拭く音が聞こえ始め、アイリスはどぎまぎしながら佇む
やがてハイサムは静かに話始めた
「今日は思いの外、早く終わったので、ハルシュタイン嬢とお話できるやもと、思ったのですが、些か身体が汚れていましてね。飛んで帰るついでに、水浴びしようと思いまして。それでここに飛び込んだのです」
「………いつもここで水浴びを?」
「ええ、ここは私とデビッド以外はあまり近寄らない場所なので」
「そうなのですか?」
「前にも話した通り、怪鳥には毒がありますから。怪鳥が使った水には、毒が混ざるのです。」
そこまで聞いて、アイリスは少し疑問に思う事があった
毒耐性のある者しか怪鳥には近寄れないのなら、デビッドは大丈夫なのだろうかーーー?と
確かあの拉致事件の後の時も、臆することなく怪鳥姿のハイサムに近寄っていたが、危なくは無いのかとアイリスは不思議に思い、尋ねた
「デビッド様は大丈夫なのですか?」
「ええ。デビッドはラーテルという、まあ簡単に説明すると、イタチのような動物の人外なのですが、猛毒に耐えられる特殊な種でして。万が一、怪鳥の一部に触れてもすぐ回復します。だから私が部下の中で唯一、側に置いているのです」
「まぁ。毒が効かないイタチだなんて、不思議ですね」
アイリスは思わず感嘆の声を上げる
後ろでは、身体を拭き終わったハイサムが、布を巻きつけている音が静かに聞こえる
「そうでしょう?一度私の羽根が落ちていたのを、何も知らない彼がうっかり拾ってしまい、意識を失ってしまった事がありましてね。遂にやってしまったと頭を抱えたのですが、2時間後あいつは何事も無かったかのように起き上がりましたね。いやぁ、あれには驚かされました」
「………ふふっ」
思わずクスリを笑うアイリス
すると、先ほどからずっと聞こえていた布の擦れる音がピタリと止まった
「もう後ろを向いても大丈夫ですよ」
そう言われアイリスは後ろを向く
そこには布を1枚の服のように巻き付けたハイサムの姿があった
「部屋まで送ります。行きましょうか」
ハイサムはニコリと笑みを浮かべアイリスを促した
「はい―――――」
返事をしたと同時に、アイリスは思った
ーーーーーー今が絶好の機会なのではないか、と
そう思い、勇気を出し彼の名を口にした
「―――ハ……ハイサム様……」
突然名前を呼ばれ、ハイサムは驚いた様に振り返る
目を大きく見開きアイリスを見ると、彼女は俯いて顔を真っ赤にしている
そしてぽつりぽつりと話し出した
「………あ、あの。実はハイサム様に、ずっと名前で呼んでもらいたくて………それで、私が先にハイサム様の名前を呼ぶようにすれば、呼んでくれるのではと………だから――――」
そう言ってアイリスが顔を上げると、ハイサムは何故か顔を背け、口元を手で押さえている
「…………ハイサム様?」
首を傾げ尋ねると、彼はそのままアイリスに左手をかざし制止した
「いえ、すみません。少し。少しお待ちください」
そう言われ少しの間があった後、感情を立て直したハイサムが前を向いた
「…………これは、参ってしまうな」
口元を押さえたまま、ハイサムはぽつりと呟く
「え?」
「いえ…………でもそうですね。言われてみれば、不自然でしたね」
そう言って少し間を置いた後、優しい眼差しで彼女を見つめるとーーーーー
「アイリス」
低く落ち着いた声から、その名が発せられた
アイリスは目を見開き、再び顔を赤くする
「これからはお互い、そう呼び合う事にしましょうか」
「…………はい!」
アイリスは笑顔で返事を返すと、そのまま裏庭を後にする
灯されている明かりが、まるで2人を甘く包み込むように照らしていた




