第9話 空想の英雄は朝焼けの中 -2
空には早朝の遠い青。
地上には打ち砕かれた文明の残骸と、降り注ぐ火球の燃え盛る赤。それから、土埃にくすんだ鮮血と、虚ろな目をした死体と、誰かの悲鳴と、苦痛に歪む唸り声。
そこを駆け抜ける俺の左手には女の子、右手にはウォーハンマー。
(本当に俺の空想をそのまま具現化したなら、このハンマーは両手で振り下ろさないと本来の力を出せない)
考えながら走っていると、目の前にシャーク級の〈罰の魚〉が現れた。四体が横並びになって待ち構える。
俺はウォーハンマーを横に構えた。かなり重いが、ギリギリ片手でも扱える。
〈罰の魚〉に接近。あと五歩も進めばぶつかるというタイミングで四体が一気にこちらへ泳ぎ出た。俺はウォーハンマーを横に薙ぐ。〈罰の魚〉とぶつかる瞬間に火花が散って、三体が横に吹き飛んだ。
泳ぐのが少し遅かった一体が初激を免れ、こちらへ。鋭い牙が並ぶ大口を俺はギリギリで横に避け、そのまま走り、〈罰の魚〉が振り返ったところでその脳天にウォーハンマーを叩き下ろす。
ガコッと音を立てて地面に衝突。鉛色のネジやら歯車やらが散らばる。
「ギデオン、何だそれ!?」
素っ頓狂な声に振り返ると、サムが瓦礫の間からこちらを見ていた。近づいてきたピラニア級の〈罰の魚〉を拳銃で撃ち落とす。もうあれしか手持ち武器が残っていないのだろう。
「その子……えっ、まさかあの悪魔か!? 契約したのか!?」
この惨状の中をまだ五体満足で生きているとは、悪運の強い男だ。
「その姿はお前の空想か? へへっ、いい趣味してんなぁ」
——さっさと運を使い果たせ。
「俺が天使をやる。みんな集まってあと少し耐えろ」
俺は『みんな』がいるかわからないまま言い、その場を走り抜けた。
透明な朝日が景色に満ちていく。明るい場所はもっと明るく、暗い場所はより暗く。
向こうの空に天使が浮いている。もうカタがついたとばかりに〈神の鉄槌〉の影はなく、地上に泳ぐ〈罰の魚〉を傍観している。
俺は跳躍し、近くの廃ビルに飛び乗った。そのまま走り出したところでベルが首に腕を回してくる。
「何するんだ?」
「君に抱えられているのが癪だ」
「?」
子供らしい短い四肢をモゾモゾと動かして背中に回り、細い腕がギュッと首にしがみつく。
「施しを与えるのは我らの側だ。君たち無力な人間は、それらしく首を垂れていろ」
俺は若干の息苦しさを感じつつ両目に天使を捉える。
「振り落とされるなよ」
「ハッ、誰にものを言っている?」
ベルの嘲笑を聞きながら大きく跳躍。天使の直上。両手にウォーハンマーの柄を強く握り締める。
「うらぁ!」
首の根本に振り下ろすと、ハンマーヘッドから炎の渦が伸びて貫通した。
「혔ダꢐ쎾瞖枩!」
天使が何かを言った。虹色の瞳がギョロっとこちらを向く。
その鼻先にもう一発。白くのっぺりとした顔が真っ赤な炎に包まれる。
「ꊅ萤ラ肛藕ᙾꪑ! ꊅ萤ラ肛藕ᙾꪑ!」
天使の体が傾いた。俺は近くのビルに着地して、ベルが振り落とされていないか確認しようと無意識に背中へ手を伸ばし、
「どこを触っている!?」
指先に何か柔らかいものが触れて、ベルが怒号に近い声を上げ、俺は慌てて手を引っ込めた。
「……落ちてないようで、何よりだ」
「何だそれは言い訳のつもりか!? このような変態と契約を……よもや私が自らの行いを悔いる日が来ようとはな!」
「俺は変態じゃない。本当に、確認しようとしただけなんだ」
「このような状況下で幼女の尻の触り心地の確認を!?」
「お前が落ちてないかの確認だ!」
俺は両手にウォーハンマーを握り直した。『このような状況下で』などと言うのなら、彼女の方こそ戦闘中に尻を触られたくらいで騒いで——というのは、今は置いておこう。
「もう一発、行くぞ」
言うと、首に回された腕がギュッと締まった。
「光輪を狙え」
幼い声が耳元で囁く。
「一対翅相手なら、翅を落とさずとも、悪魔の力で直接狙える」
俺は力一杯ビルを蹴って跳躍した。
「悪魔の囁きにしては、随分と善良的な内容だな」
天使がぐるりとこちらを向いた。顎が外れたようにガバッと口を開く。声、あるいは超音波——人類が未だ解明できていない不可視の攻撃のモーション。
向こうか、こちらか、どちらが先か。その瀬戸際に突っ込もうとした俺はふと、背中にベルがくっついていることを思い出す。
(回避を——)
と、思いかけ、既に手遅れであることを直感が悟った。片手をウォーハンマーの柄から離して金色の毛皮へ。これは古代神話に出てくる、あらゆる攻撃を防ぐ——
「シケたことをするな」
瞬間、背中を押し出されるような感覚。振り向くとベルが背後に向けて片手を伸ばしていて、そこから真っ赤な炎が吹き出している。
ベル型ジェットエンジン——と考えかけたところでテラコッタの瞳がジトッとした視線を向けてきた。
「命知らずの大馬鹿者が」
吐き捨てるように言うのは、俺の思考を読んでのものか。そうだとしたら、俺の空想を実現すると自分がこの姿になることは前もってわかったはずだが。
「さっさと終わらせろ」
怒気はない。殺気も、憎悪も。ただ呆れているような、「仕方がないなぁ」とでも言うような声色。俺は前方の天使へ向き直る。
両手にウォーハンマーを握り、振り上げる。元より少し足りなかったらしい跳躍をベルの炎が補い、今——
振り下ろしたハンマーは歯車の光輪を打ち砕き、天使の姿が、そこらを泳ぐ〈罰の魚〉の姿が、まるでスイッチを切り替えたように消え去った。
* * *
基地の損壊率:ほぼ百%。物資保管庫の一部が焼け残っていたため、ギリギリ旅支度をすることができた。
人的被害については、死者数より生存者数を語った方が早いだろう。
司令室の損壊時に運よくトイレで離席していた幹部が一人。戦闘部は俺、サラとアスモデウス、悪運が尽きなかったサムと、マモンと、瓦礫の隙間に座っていたリヴァイアサン。管理部は早々に逃げ出した三人が生き残った。
悪魔学者のヤムを含む探査部とは未だ連絡が取れないまま。俺たちは最寄りの第五支部を目指して歩き出した。




