第7話 夜明けの約束 -2
壁と天井が崩れた第六蘇生室の有様は、他の損壊具合と比べるといくらかマシに見える。ここに至るまでに見た第一から第五蘇生室はその境界も曖昧になっていて、第二蘇生室で蘇生中だったアザゼルはとっくに消えていた。
つまり、夜明けから現在までに流れた血の全ては無駄だったということだ。支部長も呆気なくくたばったことだし。
倒れた培養槽の下の方から、トクトクと培養液が漏れ出している。広がった水面に反射する朝日が、空間に青白い光を灯す。
俺は培養液が三分の一ほどに減った培養槽を見下ろし、その中に横たわる女に声をかけた。
「おい、生きてるか?」
長いまつ毛がゆっくりと動き、気怠げなテラコッタの瞳が横目にこちらを向く。
「悪魔はそもそも生きていない」
それから俺の右脚を見て嘲笑を浮かべた。
「無様なものだ」
俺は一歩前へ出ようとしたところで体勢を崩し、培養槽に片手をつく。
「俺と契約しろ」
培養槽の水かさが減り、水面から出た悪魔の足先が蜃気楼のように消える。
「君は英雄になりたいのか?」
ついさっき聞いたばかりの問いが薄笑いを浮かべる女の唇から語られ、俺は内心でため息をつく。
ずっと、戦うたび、言われてきた。英雄になりたいのか。英雄にでもなったつもりか、と。
その問いに対する答えは概ねイエスだ。だが、厳密に言うと彼らが言う『英雄』と俺の考えるそれとは齟齬があり、俺は英雄を必要としている。
「君があれらをどう捉えようと、敗走者であることに変わりはない。如何に美化しようと過去は変わらない。君の憧れは幻想だ」
俺がかつての英雄に憧れていると思っている彼女もまた、事を正確に理解していない。俺はただ、救いのない物語が嫌いなだけだ。
「それに、仮に悪魔の力で空想を具現化したとして、君自身が英雄になれるわけではない。君が卑しい敗走者の末裔であることは変わらない。君は自らを燃料に幻想を成すだけだ」
そう言って彼女が嘲笑うのは、俺のことが嫌いだから。〈偽英雄〉に対する嫌悪。古代戦争の折に英雄と一悶着あったのだろう。
——と、理解できる一方で、全く他の理由にも思える。自分と契約したところでお前の欲しいものは手に入らないぞ、という事実表明、あるいは予防線。
「お前は、名前を呼ばれるのが嫌で契約を拒んでるのか?」
契約の際、人と悪魔は互いの名を呼び合わなければならない。
「蝿の王」
言うと、悪魔の薄笑みが凍りついた。整った造形の横顔がみるみる怒りを浮かべ、キッとこちらを向く。
「……マモンか」
殺気を纏う刺々しい声。
「あの軽薄な守銭奴が……今一度身の程をわきまえさせ——」
苛立たしげに振り上げられた細い右腕が培養液を出て、培養槽の壁を叩く前に霧散する。
「…………」
悪魔は僅かに擡げた体を再び底に預け、ふんっと鼻を鳴らして体を丸めた。
「ベルゼブブ、俺と契約しろ」
怒りに歪んだテラコッタの瞳がこちらを向き、「私はそのような卑しい名ではない」と吐き捨てるように。
「知ってる。元は『気高き主』だろ?」
「……なぜ、知っている?」
「本に書いてあった」
俺の答えに、悪魔——ベルゼブブは眉間の皺を少し減らした。
「……君は、その見た目で読書家なのか」
「何だよ、見た目って」
「文字など読めそうにない顔をしている」
「馬鹿っぽいってことか?」
「いいや、野蛮という意味だ」
俺はため息をつき、培養槽の横のヒビが入った部分を殴って穴を開けた。そこから強化ガラスを掴んで割って、取り除く。
「ほら、野蛮だ。こんなものを素手で割って壊すなど」
「野蛮じゃなくて、単に握力が強いってだけだろ」
「人類が後生大事に育てた科学の産物も、〈偽英雄〉の野蛮性には勝てないということか」
「お前、その言い方どうにかならないか?」
俺が再びため息をつくと、ベルゼブブは不思議そうに片眉を上げ、
「なぜ君は憤らない?」
奇妙奇天烈な珍獣でも見るような目で俺を見た。
「いつもため息をつくばかりで——」それから俺の下半身に視線を移し、「そういえば、古より、男根は闘争心と共に語られているな」
テラコッタの瞳に僅かな憐憫を浮かべる彼女は盛大な勘違いをしているし、その視線は俺にとって心外も甚だしい。
「言っとくが、俺の体に不具合は存在しない」
「ではなぜ今もこうして沈黙している?」
「騒ぐ理由がないからだ」
「君の目は節穴か?」
ベルゼブブの言わんとしていることはわかる。自分のような美女が全裸で目の前にいるのに、なぜお前はぴくりとも反応しないのか、ということだ。
俺は培養槽の上の部分のガラスを取り去り、その姿を見た。
傾いた容器の青みを帯びた水の中に横たわっているのは、両脚の膝から下と右腕を欠いた女。水は今も培養槽の底部から少しずつ漏れ出していて、次に消えるのは肩と大腿部だろう。
「節穴じゃない」
彼女の首元辺りの水に指先をつける。
「普通、今のお前を見たら心配するもんで、騒ぐのはクソ野郎のすることだ」
言うと、ベルゼブブは呆気に取られた様子でポカンと口を開き、
「君は……その見た目で紳士なのか」
「紳士云々じゃない。道徳とか正義の話だ」
「その見た目で正しき道を語るとは」
「……お前、俺の見た目に恨みでもあるのか?」
いつの間にか、俺の指先をじっと見つめる彼女から、殺気や敵意の類が消えている。力を抜いた相貌はこれまでの印象より少し幼く見える。
言葉を交わすことができるなら、彼女の考えを変える余地がある。俺の仮説は正しかったらしい。
「俺は英雄になりたいわけじゃない。ただ、『英雄』が必要だ。古代戦争で敗走した過去の存在じゃなく、『成し遂げる人』になりたい」
「失われた者どもを再現するでも、賞賛を得たいがためでもなく、ただ己が空想する『英雄』になりたいと?」
「そうだ」
「で、そのために私を利用したいと?」
「そうなるが……不公平だってんなら、『気高き主』も想像する」
「……は?」
「悪魔は契約相手の空想を具現化するんだろ? だったら、俺が気高いお前を想像してお前がそれを叶えれば、お前は気高くなれるって寸法だ」
ベルゼブブがため息混じりに言う。
「その空想の実現にも君の魂が使われるということをわかっていないのか?」
俺は「わかってる」と答え、
「あと、お前が『蝿の王』って呼ばれるのが嫌なら、別の名前で呼ぶ。だから俺と契約しろ」
「何だそれは。赤字覚悟の大サービスか?」
「状況が状況だからな」
背後の空から落ちてきた火球の軌道が、変な方向に捻じ曲がる。マモンがここを守っているのか。
「そうだな……『ベル』ってのはどうだ?」
尋ねると、蝿の王——ベルは何かを考えるように視線を動かし、それからため息をついた。俺の指先をちょこんと摘む。
「君の名を聞こう」
俺が「ギデオン・ロス」と答えると僅かに目を見開き、それから「ハハッ」と乾いた笑みを漏らし、
「我が祭壇を破壊した不届き者と同じ名だ」
呆れたような、どこか何かを懐かしむような声で呟く。瞬間、視界が透明な閃光に塗り潰された。




