第5話 捨て駒、あるいは消耗品
十月二十五日、午前五時五十六分、打ち砕かれた文明の地平線に太陽が顔を覗かせた。
ヒビだらけのコンクリートの道、倒壊したビルの壁、折り重なる瓦礫の隙間に張り付いていた〈罰の魚〉の影が浮き上がり、鈍色の体表に透明な朝日が反射する。
ピラニア級の個体が集まり、巨大な群れを形成した。向こうで地面に伏して重機関銃を構えていたチャーリーが引き金を引く。
黄緑色の光を放つ無数の銃弾が飛び出し、ピラニア級の群れへ。鈍色の魚影が弾けてネジや歯車や金属片が辺りに散らばる。
幾度も焼かれたコンクリートの表面から、影になっていた天使が白い頭をぬるっと擡げた。
その近くに配置されているのは、基地の整備等の日常業務を担う管理部に属する非戦闘員の生き残り、約三十人。天使を基地から遠ざけるための逃げ惑い要員であり、支部長が削っておきたい足手纏い人員。
それから——
「サラ、ここにいては、お前は確実に死にますが」
非武装で脚をガクガク震わせながら立つサラと、その隣でため息をつくアスモデウス。サラを危険に晒すことでアスモデウスに力を使わせようという算段だろう。
これは悪手だ。無意味と言っていい。悪魔には死への恐怖や自己保存欲求がないとはよく言われていることだし、培養槽の中の悪魔が培養槽に入ったまま今を迎えたことからも明らかだ。
(いや、戦わせようってわけじゃないかもな)
悪魔の蘇生に必要な遺伝子様物質は、化石の一部から採取できる微量で足る。従って、材料と成果物の関係で言えば同じ悪魔を複数作れることになるが、同時に存在できるのは一人だけと決まっている。
あのアスモデウスは、ヤムが発掘した右腕の上腕を使って蘇生したもの。五本の指を含む前腕はまだ残っている。
サラもろともあのアスモデウスを消して次に蘇らせた個体は、力を使うかもしれない。——と、俺が考えつくのだから、当然支部長も気づいているだろう。
「でも……」サラが震える唇を開く「もう、ここにいるしかないから」
なぜ、アスモデウスは力を使わないのか。人間と契約を交わしても、力を使わなければ魂を得られない。仮にサラの魂が要らないとして、ではなぜ契約に応じたのか。
その答えは当のサラも知らず、アスモデウスだけが知っている。
「ここにいても何にもなりませんよ」
アスモデウスの真っ黒な瞳が天使を見上げる。その表情はいつも飄々としていて、何を思っているのかよくわからない。
「あれの火球の一つでも当たれば、お前は一瞬で蒸発して終わりです」
「じゃあ私の想像を叶えてよ」
「拒否します」
「どうして!?」
サラがアスモデウスの胸ぐらを掴む。
「あなたと契約して、これでやっと役立たずの自分から卒業できると思ったのに……だったらどうして契約したの? 私が糠喜びするのを見て笑うため!?」
サラは元々管理部の人間だった。戦闘センス皆無の非戦闘員。後方雑用係。天使の攻撃が続く、力がものを言う今の時代において、彼らのような人間は〈偽英雄〉まではいかないが蔑視の対象だ。
役立たずからの卒業——それを期待した彼女は今、役立たずたちと同じ場所に立っている。
基地近くの配備されているのは、普段から〈罰の魚〉や天使と戦っている戦闘部の連中。マモンは基地最奥の司令室にいる。
俺はこちら側。天使が吐き出す〈罰の魚〉をひたすら狩り続けて基地を——お偉いさんと蘇生中のアザゼルを守れということだ。
(やってられっか)
当然、俺は駆け出した。チャーリーの制止の声が背中にかかるが無視。ライフルの先のナイフを手探りで確認しつつ、天使が出てくる廃ビルの方へ。
天使が宙に浮かび、虹色の一対翅を広げた。胴体の大きさに対してやけに細い脚を折り曲げ、やけに長い両腕をだらりと垂らす。
白くのっぺりした顔がぐるりと動いてこちらを向いた。虹色の瞳が俺を捉え、顎が外れた様にガバッと口を開く。
俺は瓦礫を踏んで斜め前へ跳躍した。背後にキインと耳鳴りのような音が響き、捨て置かれた車が粉々に爆散する。
虹色の翅が細かな羽ばたきを繰り返し、天使の上に無数の火球が現れた。真っ赤な球が轟音を上げて落ちてくる。
これは〈神の鉄槌〉。九年前の〈終末審判〉の折、地上に展開した天使の軍勢はこれで文明を焼き、俺たちは地下と夜に身を潜めることとなった。
火球が倒壊したビルを打ち砕き、そこにいる連中が断末魔の叫びを上げる。俺は赤い光の下を掻い潜って天使の方へ。
高く跳躍してライフルを振り上げる。下方にアスモデウスの声がした。
「お前の『空想』は優しすぎる」
サラの問いに対する返答。せせら笑うような声色の意図はわからない。
俺は天使の背中に飛び乗ると同時に、その首の付け根にライフルを振り下ろした。無機質な外装の隙間にナイフが突き刺さる。天使が体を震わせ、俺はナイフを押し込む。
「쬼㑗竘ᖳᰄ참舕℃!」
天使が何か言った。音になりきらない、しかし確かに声と認識できるそれは、どこかリヴァイアサンの声と似ている。
ナイフが折れて、刃が外装の隙間に落ちる。俺は手近な出っ張りを掴んで、ライフルの銃口を隙間に押し付け、相手方の手で引き金を引く。
ジャービル型九七式アサルトライフルに弾切れの概念はない。従来のライフルの弾倉容量は三十発程度が限界だが、第五精髄を加工したアイテール電磁鉱を用いたこれは実質無限の装弾数を有する。
要するに、銃身か使用者が壊れるまでは打ち続けられるということだ。
俺は繰り返し引き金を引く。何度も、何度も、何度も。
塵も積もればなんとやら。核兵器でも退けられなかった天使をライフルの銃弾で穿つには、いくつ繰り返せばいいのだろう。
〈終末審判〉の後に始まった、『罪人』を狩り尽くすための掃討戦。その過程で死んでいった者と打ち倒した天使の数を考える。それだけの死体を積み上げれば、地上を俺たちの手に取り戻せるのか。
文明の再出発は。昼の陽光の下を何にも怯えずに歩ける日は。『捨て駒』に生きる権利が与えられるのは——
考えていたら声がした。それから轟音。俺は引き金を引きながら振り返る。
地面に大穴が開いているのが見えた。正確には、〈神の鉄槌〉を受けて地上に露出した地下施設。
無数の〈罰の魚〉が泳ぐ向こう、鮮やかな赤がそこかしこに。見知った顔がある。瓦礫に押し潰されたチャーリーの虚ろな双眸、下半身がどこかにいったデルタ、エコーの頭、ホエール級の〈罰の魚〉の口の端にサムがぶら下がっている。
〈反抗者〉が天使の撃滅を掲げて戦いを始めたのは三年半ほど前。以来、いくつかの天使を倒してきたが、どれも一対翅の名無しだ。三対翅には遠く届かない。
この死屍累々の山はありふれた光景。これまで数えきれないほど地上に展開されてきて、俺も何度も目にした。
人間はその辺の地面から生えてくるのではないかと錯覚しそうになる。
(やってられっか)
内心で悪態をひとつ。瞬間、俺は瓦礫の中へ吹っ飛ばされた。




