第42話 英雄譚の始まり
廃墟に突っ込んだ衝撃によるものか。頭がグラグラして、水の中にいるような耳鳴りがする。視覚がブレる。起きあがろうと体の横に手をついて、少し上体を持ち上げたところで手が滑り、頭を瓦礫に打ち付けた。
何故か聴覚が少しだけクリアになる。
「アスモデウス! レミエルを牽制しておけ!」
遠くにベルの声。次に近くでバサリと翼の音がして、壁の間からベルが入ってくる。
「……お前、あの槍以外の攻撃手段、あるか?」
ベルが傍らに座り、「あったらなんだ?」と問いを返した。
「普通、〈契約者〉は悪魔を使って戦うものだ。ミシュナーも、エノクも、ハーマンも、自分では戦ってない」
「なんだ、君。気づいていなかったのか? 私はてっきり、それをわかった上で我が契約者は自ら戦槌を振っていると思っていたが」
「ああ。もちろん、わかってやってた」
「君は悪魔使いではなく英雄になりたいんだろう?」
「そうだ。それで、でも、俺は英雄じゃない」
ベルがため息をつく。
「まだ精神汚染が残っていたのか?」
「俺は正常だ」
「では、小賢しくなったのか」
視覚が少しマシになってきた。ベルの呆れ顔が見えて、耳鳴りが止む。
「君、さっき余計なことを考えただろう」
「余計?」
「『大天使相手に勝ち目があるのか』とか、『この手で天使を倒せるのか』とか……それから、『自分は〈偽英雄〉だ』辺りか」
「…………」
「私は言ったはずだぞ、ギデオン。君は馬鹿で無知な夢想家でいろ、と。理解は創造性を阻む。『大天使は一撃で倒せない』という思い込みは、君の力をその領域に留める」
俺は今度こそ起き上がり、自らの右手を見下ろす。よくよく考えたら——いや、考えるべきではないのか。しかし、手に残った感触は拭えない。
ウォーハンマーが呆気なく割れる振動。死に際の誰かを抱き上げた時の重量感。燃えるチビのベルを助けようと手を伸ばした時の炎の熱。
絶えず付き纏い、日々を歩むごとに積み上がっていった薄暗い影。悪魔の力を得て、これまでの自分より少しマシになって、ようやく振り払えたと思っていた。それは勘違いだった。
全ては今の俺と地続きだ。偽物に生まれて偽物として生き、偽物故に取り落としてきたものたち。
「俺は、弱い」
言うと、少しの沈黙が流れ、ベルが心底呆れた様子で深く長いため息をついた。
「君はあれか。根暗か」
「……そうかもしれない」
「今こうして君がウジウジしている間にも、君を助けにきたサラはアスモデウスの背中に必死にしがみついているわけだが?」
「ああ……そうだな。……そうだった」
そう。常に進み続ける時間の中で、立ち止まることは許されない。俺は思い出して立ちあがろうとする。片膝を立てたところで、「待て待て」とベルに腕を掴まれた。
「丸腰でレミエルに相対する気か?」
「あ……」
俺は右手を前に伸ばす。ウォーハンマーを出すつもりが、しかし何も起こらない。ベルが「君はその見た目で繊細なのか」と何かを悟ったように。
「世話が焼けるな」
立ち上がり、俺の前に立つ。彼女の後ろには青い空があって、白緑の長い髪が陽光を透かす。
「まずもって、君は偽物でもなんでもない。〈偽英雄〉などという呼び名は、無力な人間の妬み嫉みのようなものだ。忘れろ」
「いや、そんなことは——」
「今の君は何者でもない。ただ他の人間より少し運動神経が良くて、体が丈夫で、力が強いというだけだ」
俺が口を挟もうとするのを、「何かに似ていると思わないか?」と語気を強めて遮る。
「英雄譚の始まりだ。往々にして彼らの物語は、凡人と大して変わらないが何かが決定的に異なる者の、無力と焦燥のシーンから始まる。そして彼らは、凡庸な日々の逸脱をもって『英雄』として歩き始める」
ニヤリと笑う彼女を見て、俺はもう『悪魔の囁き』などと思わない。
「引き金は非日常との遭遇。出会いや声、仲間。その点、君はありふれた英雄たちより恵まれていると言えよう。何せ、天上の神がその存在を恐れて蝿の王などという下卑た名を押し付けた、強大な地上の神たる私がここにいるのだから」
意気揚々と、尊大に語る彼女の声は心地良い。
「私は強い。その私が契約相手と認めた君もまた強い。信じろ、ギデオン。物語を始める時だ」
そう言ってこちらに手を差し伸べるベルの背後に、透明な光が差している。三対の純白の翼、美しい女の自信に満ちた笑み。導き。
なるほど、これは確かに『遭遇』だ。天使——いや、神との。
「英雄に至る前日譚……幼少期のへっぽこ物語は、いい加減終えるべきだろう」
俺が細い手を掴むと、テラコッタの瞳が満足げに細められた。俺は立ち上がり、ベルを見下ろし、こんな言葉に動かされる自分を心底チョロい男だと思う。
——まあ、いいだろう。馬鹿でいろと言ったのはこいつだ。
「……俺はガキじゃない」
言いながら瓦礫の陰を出る。「君は比喩の一つもわからないのか」とベルの呆れ声がついてくる。
* * *
陽光の下に出ると、周囲を透明な青のドーム状の壁が覆っていた。その外側は無数の〈罰の魚〉に囲まれていて、西側の高い場所にレミエルが浮いている。
「なんだ、これ」
俺が思わず独りごちた直後、背後から「遅いですよ!」とアスモデウスの声。積み上がった瓦礫の上に、人間の姿のアスモデウスとサラが立っている。
「この防壁はなんだ? マモンのやつに似てるが……」
「サラの『守る』です」
アスモデウスがムッとした顔でサラの肩を抱き寄せ、「彼女は優しいですから」と続ける。
「で、私たちをこれだけ待たせたからには、とっておきの解決を見せていただけるのでしょうね?」
俺はレミエルを仰ぎ見た。防壁を突破しようとしているのか、ドームに頭突きを繰り返している。火球を使うなりなんなりすればいいものを。まるで壊れたロボットだ。
白くのっぺりとした、胎児とも老人ともつかないアンバランスな造形の顔がこちらをじっと見据えている。体のパーツのバランスといい、虫のような節のある四肢といい、センスもへったくれもない造形。子供の粘土遊びでももう少しまともなものを作る。
これが『天使』などと、馬鹿らしい。
「この防壁はマモンのやつみたいに、中から外の透過はできるか?」
振り返って尋ねると、アスモデウスが「いいえ」と答える。
「サムの件がサラのトラウマになっています。いかなる方向も、ものも、透過しません」
「じゃあ、俺が出る分だけ小さく開けるのは?」
「機能は全体のオン・オフだけです」
サラが「ごめんなさい」と申し訳なさそうに言う。俺はレミエルの首を切り落とす動きを脳内でシミュレートしながら、
「いいや、お前が謝ることは何もない。守ってくれてありがとう。助かった」
言うと、隣に立つベルが「君はその見た目で、爽やか青年路線に舵を切る気か?」と驚愕の顔をする。
「……うるせえ」
俺は周囲を見渡し、考える。
防壁を切った瞬間、無数の〈罰の魚〉が襲いかかってくるだろう。ベルが槍で対処するにも、アスモデウスが怪物の姿に戻って焼くにしても、広範囲な上に数が多すぎる。
俺が前に使った長剣で消し去ることはできるが、あれでレミエルを抑えることはできない。〈罰の魚〉の相手をしている内にレミエルに殺されて終わりだ。一帯を囲まれているから退却するわけにもいかない。
(……もう、ごちゃごちゃ考えるのは、やめにするか。レミエルを倒せば、〈罰の魚〉は退散する)
俺は内心で独りごち、右手を体の横に伸ばした。武器が要る。レミエルの首を一撃で落とすための。
「これは……」
ベルが呟き、俺の右手の中に重量感。掴み、見下ろす。
剣だ。俺の身長の半分くらいの長さの、幅広の両刃。通常の剣と違って先の方が太く、切子状。
処刑人の剣。
「ハハッ!」ベルが心底愉快そうに笑い、「確かに私は馬鹿でいろと言ったが、まさか天使の首を一太刀で落とそうとは!」高らかに言って、また笑う。
「ちなみに、その剣がナマクラだった場合はここにいる全員が死ぬことになるが、ギデオン、それについてはどう思う?」
これみよがしに尋ねるのは、俺の繊細さを試してのことだろう。
「あー……」
俺は空を仰いで考えて、
「その時は俺も死ぬから、悪いが、付き合ってくれ」
振り返って言うと、アスモデウスが舌打ちをして、サラが大きく頷き、ベルが腹を抱えてカラカラと笑い出した。
「よし、ギデオン、行くがいい!」
臣下に命令を下す主人の声。細い手に背中を押されて俺は駆け出した。青い透明の壁が消え、レミエルが大口を開けてこちらに迫り——
無謀も無謀。だが、まあ、最悪の事態は避けられたから、よしとしたい。




