第40話 その輝きの名は
アスモデウスが「うえっ」とえずき、肉食獣の顔が口を閉じた。炎が途切れる。
「魂の残量云々以前に、ずっと炎を吐き続けていると、こう……吐き気が」
吐いている最中にさらに吐き気を催すとはどういうことか。——と、考えてしまう俺は、ベルや他の悪魔たちの影響をもろに受けている。
地面を流れていた炎の全てがレミエルに収束し、その体表で流動する。
「そう長く足止めはできないでしょう」
アスモデウスが言って、自身の背中に跨るサラを振り返る。人間の頭が、人間の首の可動域を超えて。
「サラ、お前はどこかに隠れていてください。……と、言いたいところですが、どうせ聞きませんよね」
「ええ。それ以前に隠れる場所がないし、隠れても、あなたが負けたら一緒にいるのと同じことになる」
「……やはり、今からでも逃げ——」
「一心同体、一蓮托生みたいなことね」
サラがニコッと笑い、それを見たアスモデウスがハッとした顔をする。少しの沈黙を置いて長いため息をついた。
「……泥舟ですよ」
それからレミエルを仰ぎ見る。
白い体表を覆う炎が徐々に薄くなり、勢いよく開かれた翅が陽光を虹色に反射する。カサカサと擦り合わせるように四枚の翅が細かく動き、青空に無数の光。
「振り落とされないようにしっかり掴まって……できます?」
アスモデウスの問いに、サラが「ええ」と答えて、怪物の背中の濃い緑の毛を掴む。
「握力には自信があるから」
怪物の四肢が地面を強く蹴り、俺もまた走り出す。レミエルの状態を確認しつつ、降り注ぐ火球を避けていく。
「アスモデウス! お前はあの炎以外に何ができる?」
尋ねると、アスモデウスの人間の頭が「どうですかね」と独りごちてサラを振り返った。彼女が空想する己の姿を知らないような言動だが、なんとなく、彼女の口から聞きたくてとぼけている気がする。
「ええっと……」
サラが思考に視線を動かす。
「優しい怪物がひと吠えすると、敵はその声に圧倒されて動けなくなるの。もう一回吠えると敵にヒビが入って、さらにもう一回吠えると崩れる。それから怪物は炎を吐いて全てを焼き尽くして、お姫様の敵を一掃する」
「な、なんの話だ?」
「昔、母が読んでくれた絵本の怪物! とっても素敵でしょう?」
サラの言葉に、アスモデウスが得意げに鼻を鳴らす。内容はともかく、彼女はその空想の自分が気に入っているらしい。
つまり、今のアスモデウスを形作っているのは絵本の怪物の空想。武器は炎と咆哮。炎がレミエルを焼き尽くさなかったことを考えると、空想より威力を幾らか差し引いて考える必要がある。
翅を落とすくらいはできるだろうか。それとも、俺がレミエルの翅を落として、本体を炎で焼くべきか。それにしても、あの高さにいられては、流石に手の出しようがない。
「ギデオン、私は?」
考えていたら、不意にベルが頬に触れて尋ねた。
「何が?」
「私の麗しき姿は如何様かと聞いている」
「自分を見ろ。答えはそこにある。今はお前の機嫌を取ってる暇は——」
「いいや。今、私を喜ばせろ」
やけに落ち着いた、諭すような声色。
「言葉は、朧げな空想に輪郭を与える。言葉を選択するための思考は、本人さえ気づいていなかった渇望を詳らかにする」
レミエルがガクッと首を動かしてこちらを向いた。白くのっぺりとした口が開く。俺は強く地面を蹴って跳躍。ついさっきいた場所に大穴が開き、轟音が響く。
「君にとって、私はなんだ?」
悪魔は人間の空想を具現化する。〈反抗者〉はその力を利用する術を持ちながら、何故、未だ全ての天使を討伐するに至らないのか。ちまちまと〈罰の魚〉を狩り、名無し相手に苦戦を強いられるのか。
何故、『全ての天使を圧倒する最強の悪魔』を作れないのか。それは世界を知ってしまったから。
祈ったところで救いなど訪れない。自分は自分で救うしかない。使える手段は武器、それから、命。ずっと信じてきた神はフィクションだった。
(そうだ。その通り。でも……)
本当に人間は、救いが欲しくて祈っていたのだろうか。何もかもを解決してくれる何者かを求めていたのだろうか。この問いの答えは概ねイエスだが、その根底には違う渇望がある気がする。
例えば、苦難の道を一緒に歩いてくれる誰か。何をするでもなく、しかしずっとそばで見守っていてくれる視線。立ち止まりそうな時に、手を繋ぎ、少し前をそっと歩いてくれる存在。
例えば、今、俺を見ている彼女のような。
「……神」
無意識に呟き、はたと気づく。俺は慌てて訂正しようと口を開きかけるも、ベルが「なんだ?」と尋ねたのでやめた。よかった。聞こえていなかったらしい。
「なんでもない」
「? いや、今何か言っただろう」
「アスモデウス! ちょっとレミエルに吠えてみてくれ!」
向こうのアスモデウスに言うと、「何故私がお前に指示されなければならないのです?」と捻くれた声が返ってきた。それから、「おい、ギデオン!」とベルに肩を揺すられる。
「私に隠し事とは何事だ! 不敬だぞ!」
「お前、気に入らないこと全部『不敬』でまとめるのやめろよ」
「不敬は不敬だ!」
「もう、なんだってこう——」
ぼやいたところで、ふと、視界の端に眩い光。発生源はベルの胸元。
「どうしたんだ、これ」
言うと、キョトンとした顔で光を見下ろしていたベルが「ハハッ!」と笑って羽ばたいた。ふわっと浮かんで俺の手を離れる。
「君は天邪鬼だな」
俺は彼女を仰ぎ、瞬きをした。一回だけ。眼球の乾燥を防ぐ反射的なもの。そこに流れた時間は『一瞬』の文字通り。視界の変貌は目を疑うほど。
「なっ……なんだ、それ」
陽光を固めたような純白の三対の翼。ヒラヒラした白い服の裾が揺れている。そこから伸びる細くすらっとした脚は左右が揃っていて、金より少し彩度の低い、僅かに赤みかかった金属で覆われている。——いや、覆うというか、多分、金属でできている。
ベルが純白の翼を羽ばたかせ、
「ふむ、真鍮の脚か……天空神の雷霆を作った名工の作かな?」
半ば独り言のように言うと、満足そうな顔で腕組みをした。
「ギデオン、君が隠している私への敬愛についてはよく理解した。いじらしい臣下のウブな憧れに応えてやろう」
——多分、いや、間違いなく。彼女は何かを誤解している。




