第37話 敗北
レミエルがガクッと首を垂れ、地面に向かって口を開いた。
「퍏뤽奚퍏뤽奚퍏뤽奚」
何かを言っている、と俺が認識した瞬間、地面がガタガタと振動を始めた。まさかと思って瓦礫から飛び上がると地面がバキバキと割れて、そこらに散らばる瓦礫がさらに細かく崩れていく。
天使がよく使う超音波のような攻撃。それを地面に打ち込んだ形だ。広がっていた粉塵が波紋を描いて、吹き飛ばされ、赤黒い亡者が砕けていく。
俺はウォーハンマーを構えて、今まさに瓦礫と化そうとしているビルを蹴った。半ば低空を飛ぶようにレミエルと距離を詰めて、最後の一歩で上へ大きく跳躍。
何はともあれ、天使の翅を落とさないことには先へ進めない。
レミエルの背中。上の翅の付け根を狙ってウォーハンマーを振り下ろす。槌頭が右側の翅の付け根に触れた瞬間、黒い稲妻がバチバチと音を立てて爆ぜた。
(前の武器と違う?)
レミエルが暴れ出し、俺は咄嗟にウォーハンマーのピックを背中に差して振り落とされないよう耐える。翅の付け根は僅かな焦げ跡がついただけ。一枚落とすだけで何度攻撃しなければならないのか。
途方もなく長い過程にうんざりするが、やる以外に道はない。全ての翅を落とすのが早いか、俺が死ぬのが早いか。
レミエルが再び地面に向かって叫ぶ。俺はその背中で身を伏せる。いくらか残っていた赤黒い亡者が霧散して、虹色の翅がカサカサと振れ始める。
空の彼方から轟音。見上げると、蒼穹に無数の影が輝いている。火球が落ちてくる。
「ハハッ、天使は脳みそがないのか」
レミエルが激しく体を揺するのは、俺を振り落とそうとしてのことだろう。一見すると無作為に落ちてくるように見える火球は実際、決して天使の体に当たらない。
そこかしこに真っ赤な球が落ち、轟音を立てて地面を抉る。土色の砂煙が立ち、打ち砕かれた文明の亡骸の影を隠す。
レミエルが地面に伏せた。俺はその背中からピックを引き抜き、槌頭を下にしてウォーハンマーを振り上げる。一発、二発、三発。黒い稲妻が爆ぜる。
「うぐ、うぐ、うぐ」
不意に、変な音。規則正しいリズムで、それに合わせてレミエルの背中が揺れる。
「?」
見ると、地面に這いつくばったレミエルが、音に合わせて頭を揺らしている。天使がやっているのは初めて見る動きだが、俺はこれに見覚えがある。
酒を飲み過ぎたサムが、トイレで吐こうとしている時。
「いや……嘘だろ?」
まさか。
「돏黜뜥ޠ缣蜹竲偎ฟ」
聞こえないが聞こえる天使の声と、サムが嘔吐する瞬間の声とも物音ともつかない音の、中間のような空気の振動——つまり訳がわからない声をレミエルが発し、その口から〈罰の魚〉が濁流のように吐き出された。
——天使に脳みそがあるかはわからないが、それなりの知能はあるらしい。
無数の〈罰の魚〉が一つの水流のように集まり、宙を蛇行してからこちらへ向かってくる。先頭はこれまで見たどの個体より巨大なホエール級。
口の横の鯨ひげがブチブチと切れて、無数の牙が並ぶ巨大な口が開かれる。俺はウォーハンマーを振り被る。接敵、の、直前。
空から降ってきた白銀の一閃が、ホエール級の頭を撃ち抜いた。透明な光を発して巨体が炸裂し、爆発が後続の個体に伝わっていく。
「ほう、なかなかどうして」
頭上から、のんびりしたベルの声。
「君は、そこまでして私を失いたくないのか」
心底辟易としたような、それでいてどこか満足げな顔でこちらを見下ろす彼女は、何をもってその結論に至ったのか。空の青に浮かぶ逆光のシルエット。翼をもつ人影。隻脚であることを除き、その姿はまるで天使のよう。
ベルが右手を頭の横に持ち上げると、そこに白銀の槍が現れた。振りかぶり、投げる。〈罰の魚〉が爆ぜる。その様に思い出すのは、子供の頃に聞いた、遠い昔の都市の守り神。
「それとも、ギデオン。君は私に空想の神の姿を見ているのか?」
レミエルが〈罰の魚〉を吐き出し、ベルがそこへ向けて槍を投擲する。白銀の光が起こす爆発は、次々に他の魚へ連鎖する。
俺はあんなものを空想した覚えはない。——だが、どうだろう。
「まあ、それも悪くはない」
ベルが槍を投げ、ニヤリと笑う。
「君はさっさとレミエルの翅を落とせ。魚の相手は私が担うこととしよう。この私の助力に感謝し、崇め奉ることだ」
俺が知らない、俺のこと。意識の表層に現れない、思考の深い底の部分で求めるものがあれだというのか。半分ことか、まるで「一緒にいたい」とでも言うような、短い紐で繋がれた首輪も、同じ。
「〜〜っ!」
そんなもの、認めて溜まるか。——俺はそこまで弱くない。無様でもない。
「俺がやるって言ってんだろ! お前は下がってろ!」
声を上げ、虹色の翅の付け根に槌頭を打ち付ける。ベルの攻撃を逃れたシャーク級が近づいてきて、俺はウォーハンマーを薙いでそれを撃ち飛ばす。また翅を、それから魚を。
視界の端に白銀の閃きが映り込み、続く爆発音に耳を塞ぎたくなる。英雄はたった一人で世界を変える存在だ。誰を頼ることもなく、誰を犠牲にすることもなく。
もううんざりだ。弱い自分も、誰かの死体を乗り越えて進む未来も。
「˫ᢱ덟൏ᘥ?」
一心不乱にハンマーを振るい、ようやく一枚を落とせそうというところ。不意にレミエルがぐるりと首を動かしてこちらを向き、何かを言った。
「˫ᢱ덟൏ᘥ?」
やはり何を言っているのかわからないし、そもそも普通の音として聞こえもしない訳だが、何故か、何かを問われているような気がする。
「˫ᢱ덟൏ᘥ? ヽ덧롎卻碷❋퐢わ吂じ㽬壺」
眼窩の上で、虹色の眼球がギョロギョロと動く。まるで水から上がった魚のよう。それからぴたりと停止して、瞳に俺が反射して、白い切れ込みのような口がニンマリと弧を描き——
「ギデオン!」
ベルの悲鳴のような呼び声を、俺は古いテレビに映し出された白黒のノイズのように聞く。脳を直接殴られたような揺らぎ。視覚情報が何重にもブレる。体と意識が切り離されたような感覚。ハンマーを掴んでいた手が緩む。
俺は確かにここにいて、レミエルの背中に立っていて、周囲には打ち砕かれたかつての街の残骸が広がっている。そのはず。そのはず、なのに。
無数の人々の叫びが聞こえる。いや、ここには俺しかいないはず。
昼の明るい景色に、燃える街の色彩が重なる。宙を泳ぐ魚たち、逃げ惑う人々、そこかしこに転がる食い荒らされた死体。
俺は幻を見ている。
(いや、これは、レミエルの——)
何故、大天使が名無しを凌駕する脅威であるのか。それは火球や魚などの出力が名無しのそれを上回る以外に、もう一つ理由がある。
一言で言えば、固有の能力。対人間を想定して設計されたような力。
俺の失敗は、それを物理的な破壊力と想定したこと。世界がひっくり返る。——いや、俺がひっくり返る。
空。衝撃。幻と現実が交互に現れて、吐き気がする。目を閉じて遮ってしまいたいのに、体はもう俺のものではないかのように。
青、赤、両親の死体。昼の陽光を反射する天使の白い巨体。黒煙を割って現れる神の使徒。赤、青、こちらへ天使が降りてくる。
「ギデオン、しっかりしろ!」
この声は誰のものか。親父、お袋、チビのベル。叫び、憎悪、焦燥。
精神汚染——天使の攻撃なのに、なんだか悪魔みたいだ。




