第36話 人質
ヤムに促されて廃墟の地下へ入ってから、サラはずっと考えていた。ひび割れたコンクリートの床に座り、膝を抱え、部屋の隅に溜まる埃と影を見つめて、ずっと。
横目に右側を見る。少し離れたところの瓦礫の上にヤムが腰掛けていて、微かな鼻歌を歌いながら、研究資料と思しき紙束に目を通している。
「あなたは怖くないの?」
尋ねると、ヤムは紙を捲る手を止めて、「怖がっていても仕方がないからね」とこちらを向いた。
「人類の繁栄の歴史が終わったのも、天使がいるのも、空に楽園の島が浮かんでいるのも、事実だから」
「『死ぬかもしれない』ってことは、まだ確定してない未来よ」
「でも、ほぼ確定だろう。ベルは強い悪魔だけれど、正義は悪に勝つという世界の前提がある」
「人を殺し回る天使が正義だってこと?」
「まあ、その殺している相手は『罪人』だからね」
「私たちは罪なんか犯してない。ただ生きているだけ」
「あるいは、それが罪なのかも」
飄々と語るヤムは、傍目には何を考えているのかよくわからない。この評価は、第九支部にいた人間の総意だった。
根本的な話として、ヤムはその存在自体が謎に包まれている。彼は『第九支部の近くに新しい悪魔の化石があるから』という理由で本部から派遣されて来たが、そもそも、悪魔の化石をどうやって見つけるのか、その委細は支部の人間には伝わっていない。
さらに謎なのが、この大陸のどこかにある本部から、彼が一人でやって来たということ。夜を歩いて来たとして、昼にどこに隠れようと、完全に安全な場所は地上のどこにも存在しないのに。
このことについて、彼は「運が良かったみたいだ」と言った。それ以外に彼が第九支部への道を踏破したことの説明はつかないが、貴重な悪魔学者に、本部は運任せの移動を命じるものだろうか。
(ヤムの本当の目的は……)
サラは無意識に考え込み、ふと気づくと、ヤムは紙束に視線を戻していた。最近、あれこれ考えていると瞬く間に時が過ぎてしまって、時間感覚が曖昧になっている。
つい鼻歌が気になって話しかけてしまったが、ヤムを見ようとした訳ではない。本命は、彼の足元に置かれたライフル。厳密に言うと、用があるのはその銃口につけられた銃剣。
ヤムが食い入るように紙束を捲るのを確認し、向こうの壁際に立つアスモデウスを視界の端に捉え、しばらく。どこかから地響きのような音がして、アスモデウスが斜め上へ視線を動かした。
瞬間、サラは駆け出し、ヤムの足元のライフルを拾う。
「サラ?」
疑問符と察知を同時に浮かべたアスモデウスがこちらに駆け出すより早く、サラは後ろに下がりながら銃剣を自分の首筋に当てがった。勢いで刃が皮膚を薄く裂き、ピリッとした痛み。
ヤムが「ほえ?」と間の抜けた声を出してこちらを向いた。アスモデウスが立ち止まり、眉間に皺を寄せる。
「……サラ、それは何のつもりですか?」
予想通りの問い。サラは予定通り、満面の笑みを浮かべて「死のうと思って」と答える。
「役立たずの自分はもううんざり。どうせ死ぬなら、こんな惨めな自分、さっさと終わらせたい」
「それはつまり、ギデオン・ロスは敗北すると?」
「だってそうでしょう? 大天使相手に、支援部隊も無しの〈契約者〉一人で叶うはずないじゃない」
「正論です」
「それでもあなたは力を使ってくれないんでしょう? だったら、私は大天使に殺されるってこと。ここに隠れて今を生きたって、何にもならない」
サラの主張は明白だ。『今すぐ力を使わないなら、私は死ぬ』——しかし、アスモデウスはそれに呆れたような笑みを返した。
「いいえ。お前は死にません」
断言の上に、つらつらと裏付けを語っていく。
「純粋な力比べにおいて、悪魔は天使に勝てない。それは事実。しかし、防衛となると話は別です。ギデオンは敗北しますが、それなりにレミエルの機動力を削ぐでしょう。そうしたら私は、お前を守りながらここを脱出します」
「そんなことをしたって、逃げ切れないでしょ。天使は一度捕捉した人間を殺すまで追い続ける」
「では、逃げ続けます」
「アスモデウス、私は真面目に話してるの」
「私も真面目ですよ。逃げていれば、そのうち人間の集落に出くわすでしょう。あるいは〈反抗者〉の他の支部に行き当たるかもしれない。そうなれば、天使はその人間たちを殺し始めます」
「あなた、それ……他の人を囮にして逃げるってこと?」
「ええ。それなりの足止めになるでしょう。あるいは〈反抗者〉なら、あれを倒せるかもしれない」
人の命をなんだと思っているのか。——そんな糾弾の言葉はサラの中から出てこない。そもそも悪魔とはそういうもので、しかし、気になることが一つ。
(私のことは、守ってくれるんだ)
サラはライフルを掴む手に力を込める。
「私はもう、自分の生き死になんかどうでもいいの」
言いながら、しかし足が震える。死への恐怖に打ち勝てる人間は少ない。どれだけ大口を叩こうが、自らの死を目前にしたら恐怖を叫ばずにいられない。それは本能に刻まれたものだから。
ギデオンは、どうだろう。
「あなたが力を使わないなら……私の願いを叶えないなら、私は今、ここで死ぬ」
首に当てた刃を少し進める。脳を直接叩くような痛み。首筋に生温かい感触が流れる。痛い。泣きそう。でも、泣いてはならない。
アスモデウスがぴくりと目元を動かした。
「……魂が擦り減れば、いつかミシュナーのようになりますよ」
「構わない」
「私はマモンのように、お前の体を譲渡されるつもりはありません。使い物にならなくなったお前は、その辺の荒野に捨て置かれるかもしれない」
「それでいい」
「サラ……」
「私はギデオンを守りたい!」
サラが叫ぶと、アスモデウスは心底うんざりした様子で顔を顰めた。
「あの男のために、私にその醜い姿になれと?」
唸るような問いに、サラは反射的に引き下がりそうになる。しかし踏み留まり、アスモデウスの真っ黒な瞳を真っ直ぐ見据える。
「醜くないわ」
「醜いですよ。お前が想像する悪魔は、かつて人間が蔑んだ強欲で卑しい怪物の形をしています」
「仕方がないでしょう? 私はゼロから悪魔の姿を空想できるほど創造性がない。それに、昔読んだ本に引っ張られて——」
サラの言葉を遮って、アスモデウスが「だからお前は」と話し出す。その言動にサラは自分が蔑ろにされた気分になって、苛立ち、
「でも、これが一番かっこいい悪魔の姿なの!」
叫ぶと、アスモデウスがぴたりと動きを止めた。真っ黒な瞳がじっとこちらを見つめ、囁くような声が「かっこいい?」と疑問符を形作る。
「お前は……美的センスが死んでいるのですか?」
「そんなのどうでもいいでしょ! 私はこれが好きなの!」
「……本当に?」
「もうっ、何なの!? 今は私のセンスなんてどうでもいいで——」
馬鹿にされた気がして声を荒げたサラは、しかし、アスモデウスの表情を見て言葉を切った。
「かっこいい……」
確かめるように独りごちる彼女は、これまで見たことのない、怪しげな笑みを浮かべている。
「アスモデウス?」
モゴモゴと口を動かし、「かっこいい、かっこいい」とボソボソした声で繰り返す。困惑するサラに、ヤムが「当たりを引いたみたいだね」と言って笑った。




