第35話 英雄の誤算 -4
赤黒い粉塵が地を這うように広がり、こちらへ近づいてくる。粉塵が覆った地面から、白骨死体と腐敗死体の中間のようなものがボコボコと這い出る。
状況がわからず、ひとまずそれを見ていると、頭上から「ギデオン!」とベルの怒ったような、焦っているような声が響いた。
「どうし——」
俺が顔を上げるのと、彼女が胸に飛び込んで来たのはほとんど同時。黒い三対の翼が羽ばたき、俺たちは上昇する。
「何をボサッとしている!」
ベルが咎めるように言う。背中に回された細腕の腕力は弱く、俺はずり落ちそうになって、慌てて彼女の肩に腕を回した。高度はとっくにレミエルを見下ろす位置。
「いや……これは、どういう状況だ?」
俺の問いに、ベルが忌々しげな表情で眼下を望む。
地面に這いつくばるような体勢のレミエルに、赤黒い無数の亡者が群がっている。レミエルは空を仰いで超音波のような声を上げているが、何を言っているのかさっぱり。翅を動かそうとしているらしい。張り付いた亡者がそれを阻んでいる。
まるで、地に落ちた羽虫に蟻の大群が群がっているかのよう。
「ハーマンが死んで、リヴァイアサンが完全にコントロールを失った」
「なんで契約相手が死んだのに、あいつは存在し続けてんだ?」
「サムの魂が残っているからだ。あれを使い切るまで、奴は周囲のものを見境なく喰らう」
「それは……あいつの意思か?」
ベルが顔を顰めて少しだけ高度を下げた。テラコッタの瞳が、亡者の群れを睨め付ける。
「その判断は難しい」
「?」
「改造を重ねた結果、私たちはどの層が自らの意思かわからなくなった」
「改造って?」
ベルは何かを諦めたようにフッと笑い、
「天使は純白の翼を持つ美しい人間の姿をしている……君たちが〈終末審判〉以前に信じていた天使の形は、正しい」
テラコッタの瞳に、虫の翅のようなレミエルの翅の虹色が反射する。
「天使と悪魔は、元々同じ存在だった。そして、神の手による改造に私たちは異を唱えて楽園を追放された。楽園に残った天使は……まあ、あのザマというわけだ」
悪魔の化石の造形が、天使のそれと似通っているのは。化石から抽出された遺伝子様物質に、人の姿の悪魔が記述されているのは、つまり——
「いかんな、流石に、昔話をしている場合ではない」
ベルがため息を一つ。
「今のリヴァイアサンは、言うなれば『怒りで我を忘れている』という状態だ。対話は不可能。手が届く範囲の全てを攻撃する。あれがレミエルの力を削るのを待って——」
不意に言葉を切ったベルが、「うっ」と小さく呻いた。同時に俺は、足に何か重量感を覚えて見下ろす。
「なっ……!」
俺の左足とベルの右足に抱きつく形で、亡者が一人ぶら下がっている。何をどうしてこうなったのか。おそらく、レミエルの上で山になっている内の一人が飛びついてきた。
「このっ!」
俺は右足でそれを蹴落とした、ら——
「えっ……」
亡者と一緒に、ちぎれたベルの右足も落ちていった。
「なっ、ベ、ベル!?」
驚愕に彼女を見ると、俺の胸に抱きついた形でベルが「騒ぐな」と顔を上げる。
「たかが足の一本を失っただけだ。歩行には支障が出るが、飛んでいる分には問題ない」
「いや、でもっ、俺っ……」
「見ればわかるが一応言うと、君があれを蹴ったからちぎれた訳ではない。触れられた時点で腐食していた」
「じゃあ、なんで俺は……」
言いかけて、しかし、そんなことはわかり切っている。俺の足には英雄の鎧があって、ベルの足にはない。
半分こ——馬鹿なことをしたものだ。無知なガキじゃあるまいし。
そもそも、これではまるで、彼女が戦友であるかのようではないか。俺は『ベルが背中にくっついていたら戦いづらいな』と思っただけだ。一緒に戦って欲しいとも、ましてや、危険なことをして欲しいとも思っていない。
サラの件で懲りたはずなのに、俺は。
「ベル、降ろしてくれ」
言うと、彼女は「はあ?」と顔を顰め、それから俺をじっと見つめ、呆れたようにため息をついた。
「足の一本や二本で、人間は大袈裟だ。君が理由ではないと言っているだろう」
「別に、それは関係ない」
「そうか? イタズラが主人にバレた飼い犬のような顔をしているぞ?」
「いいから、離せ」
「断る」
ベルが俺に抱きつく腕に一層力を込める。
「今行ったところで、無闇に危険に飛び込むことと同じだ。リヴァイアサンにレミエルの力を削がせてから事に当たった方がいい」
「リヴァイアサンがレミエルを地上に繋いでる間に翅を落とした方がいい。飛ばれたら、できることが絞られる」
「そう言ってもな、今行けば共食いになるぞ」
「『共』じゃないし、俺は鎧があるから、足元から来られても平気だ」
ベルが「いやに食い下がるな」と独りごち、「だが却下だ」と続ける。俺は、彼女の腕力が、俺の体重を抱えるのに足りないことを知っている。
彼女の肩から手を離すと、ベルが「わっ!」と声を上げ、細い指が俺の服の背中を掴んだ。
「おい、ギデオン!」
「お前はもっと高いところに行け。絶対にあれが届かないくらい」
「却下だ! 掴まれ!」
「そもそも、首輪はないんだから、お前がついてくる必要はない」
俺の体がずり落ちて、落下に移行した瞬間に右の手首をベルが両手で掴んできた。
「ではなぜ、君は私に、鎧と槍を?」
ベルが手首を掴む手に力を込め、爪の先がプツッと皮膚を裂く。必死に俺を落とさまいとする彼女の姿に、俺は自分の愚かさを知る。
誰も彼もが死んでいった。俺が守ろうとした者も、俺と一緒に戦った者も。もしかしたら自分は死神なのではないかと錯覚するほど。
だから一人で戦うようにしてきた。分隊から離脱して、一番強い敵へ向かって。そうすれば誰も追いかけて来ない。生きるのも死ぬのも俺一人。
ずっとそうしてきて、そうしたくて、そうあるべき。だから、手首を掴むこの手は悪魔の囁きだ。
「手違いだ」
俺はベルの手を振り払い、
「俺は仲間なんか求めてない」
赤と白が蠢く砂塵の中へ。




