第34話 英雄の誤算 -3
レミエルの白い手が赤黒いドアをこじ開け、隙間に体を捩じ込んだ状態から這い出そうとしている。大きな頭と胴体に対して、六本の腕は虫のそれのように細く長い。ガサガサと地を掻く様子は、トイレの隅で見かける黒い虫のよう。
一見するとレミエルの行動は無意味に見える。一向に頭より後ろが出て来ない。しかし何故か、ドアの亀裂が増していく。
ドアの下の方が崩れて大きく傾いた。上の部分に座るハーマンが「わあ!」と驚いた声を出し、俺の傍らから翼の音が遠ざかる。
またドアが崩れ、その衝撃で宙に放り出されたハーマンを、ベルがサッとキャッチした。そのまま高度を上げる。
「ベルさん、どうしたのその羽!」
「ギデオンが空想した。戦いのお荷物になるなと。……この儚く美しい私に対して、あの男はまるで慈悲がない。いや、甲斐性なしと言った方が正しいかもしれないな。あれは絶対に妻を顎で使うタイプだ」
ベルはつらつらと俺の悪口(しかも完全なでっち上げ)を並べておきながら、
「この羽、綺麗だねぇ」
ハーマンが瞳を輝かせて言うと、
「だろう? 美しい私にぴったりだ」
何故か得意げに笑った。——翼が気に入ったのか、気に食わないのか、どっちだ。
(いや、何考えてんだ、俺。こんなこと気にしてる場合じゃないだろ)
最近、ベルの空気の読めない思考がうつってきた気がする。悪魔との契約にはそういうところがあるのだろうか。しっかりしなければ。
俺はレミエルの直上に飛び上がり、ウォーハンマーを両手で振りかぶった。まず狙うは、ドアから出てきたところの翅の付け根。
(力を削いで、それから首を——)
瞬間、白いのっぺりした頭がぐるりと動いてこちらを向いた。見開かれた虹色の瞳と目が合う。その下の口が、顎が外れたようにガバッと開き、
(マズいっ)
俺はリヴァイアサンを蹴って、レミエルの口の直線上から脱する。同時に超音波のような空気の振動が起こって、赤黒いドアがミシミシと音を立て始めた。
「ꃅ蔗! ꃅ蔗! ꃅ蔗!」
レミエルが何かを言いながら脚をわさわさと動かし、ドアの亀裂が広がる。
「汆沈襈す! 汆沈襈す!」
六本の手がドアの端を掴んだ。葉脈に流れる水のように、あるいは何かが感染するように、虹色の光が細く複雑に広がっていく。
「תעזוב אותי!」
リヴァイアサンが何かを言った。閉まろうとするドアがレミエルの腹をギシギシと締め付ける。
「㼜ፐ龛 ʛꕇ她嵐䌸!」
「המלאך המכוער!」
「悥눊栎㺞佈맥ꕍ▖!」
「למרות שכבר שכחתי איך זה נראה במקור!」
「읟䰌Ӎ☯䅁ஜ裾ᄯ眪掝!」
言葉の意味はさっぱりだが、レミエルとリヴァイアサンは何かを言い合っているようで、見る限り力は拮抗しているよう。
今のうちにレミエルの翅を落としてしまおう、と俺は廃ビルに着地して再び跳躍するべく脚に力を込めたが、
「ギデオン、近づくな!」
飛んできたベルの声に動きを止めた。リヴァイアサンの直上を飛ぶ彼女が、その腕の中のハーマンを見下ろす。
「ハーマン、リヴァイアサンを下がらせろ」
上空へレミエルから距離を取りつつ話すベルは、珍しく切羽詰まった様子だ。
「流石に今、あれがいなくなるのは厳しい。レミエルが——」
彼女が状況を説明する最中。ハーマンは碌に話を聞いていない様子で「はーい」と言うと、あろうことかベルの腕から飛び降りた。
「ハーマン!?」
俺は思わず声を上げた。多分、ベルも同じ。彼女は険しい顔でハーマンを追いかけようと動き、一瞬の停止の後に上昇へ転じる。
「ベル、お前っ——」
俺が咄嗟に駆け出そうとするのに対し、
「近づくなと言っている!」
ベルが悲鳴に似た声で叫ぶ。ハーマンが「リヴァイアサーン」と間の抜けた声を上げながら落下し、赤黒いドアの上の部分が流体のごとく盛り上がる。それは人型のリヴァイアサンを模ると、にっこりと笑ってハーマンへ両手を伸ばした。
「あのねー、なんかよくわかんないんだけどー」
まるで映画の再会シーンのような二人の下方。ドアの隙間から背中の半分まで這い出したレミエルが、二対の翅をカサカサと動かし始めた。
「リヴァイアサン! 退避しろ!」
ベルの焦った声。
「הרמן, מה קרה?」
リヴァイアサンの、何を言っているかわからないが優しく柔らかな声。
「ベルが、下がった方がい——」
ハーマンが言いながら落ちて、二人が抱き合う直前。
彼の声が途切れるのと、パシャッと音を立ててその体が弾けるのはほとんど同時だった。慣性で飛んだ鮮血が、リヴァイアサンを真っ赤に染める。
「ꡞꏇ、캉ず、캉ず!」
レミエルはやはり何を言っているのかわからないが、何となく、彼らを嘲笑っているよう。
「א」
リヴァイアサンの声。
「א א」
血塗れで、空へ両手を伸ばしたまま。
「א א א」
譫言のようだった声が勢いを増し、
「א א א א א א א א!!!!!!!」
ナイフのような悲鳴が轟き、赤黒いドアが砂のように崩れた。粉塵が辺りに広がり、死体のような、亡者のような無数の人影が立ち上がる。
「אני אהרוג אותך! אני אהרוג אותך! אני אהרוג אותך!」
低くぼやけて地を這うような、呪詛さながらのリヴァイアサンの声は、どこから響いているのかよくわからない。赤黒い亡者たちがレミエルに群がり、白い体にしがみつく。
今、何が起きていて、何がどうなっていて、これからどうなるのか。その一切がわからず、地獄の再現のような光景を傍観する俺の中に、一つの問い。
ハーマンは死んだ。それなのに何故、リヴァイアサンは存在を続けているのか。




