第33話 英雄の誤算 -2
亀裂が入った赤黒いドアが傾き、その上に座るハーマンが「あれ?」と間の抜けた声を出す。俺は咄嗟に踏み出しかけ、すぐに足を止めてベルを振り返った。
「やるぞ」
右手を差し出すと、彼女は薄く笑ってそれを見下ろす。
「幼女化は勘弁してもらいたいものだ」
「あれは『チビのベル』を思い出したからだ」
「では、今回は思い出さないでもらおうか」
「言われなくても、」テラコッタの瞳がこちらを向く。「俺にとっての『ベル』はもうお前だ」
鮮やかな赤を帯びる土の色。太古から用いられてきた赤土焼きの色彩。古い遺跡の長い眠りを彷彿とさせる瞳が、少しだけ驚くように見開かれ、それから何かを考えるように細められる。
「首輪も御免被りたいのだが?」
「それは……なんで着くのかわからないから、保証できない」
「なるほど。君は深層意識のレベルから、ああいうのを付ける破廉恥なプレイを求めていると」
「なんでそうなるんだよ。言い掛かりはよせ」
「まあ、そのような変態と契約したのが、私の運の尽きか」
言葉選びに反して、彼女はどこか満足げ。
「想像しろ。崇め、讃えよ」
細い指が俺の手を握る。
「私は蝿の王。かつて『気高き主』と讃えられた豊穣神の成れの果て。書き換えられた神。私は君に、私を書き換える誉を授けよう」
光。燦々と輝く夏の太陽のような光が、合わせた手の中から溢れ出す。よく考えてみると、この輝きは悪魔のイメージには不釣り合いだ。
一説に、悪魔はかつて天使だったと言われている。
神は自らに似せて天使と人間を作った。しかし人間は楽園を追放され、神の元には天使だけが残った。
天使は神に似ていて、同時に人間にも似ている。天使の中に神に仇なす者が現れ、彼らは翼を奪われ、地に堕ちた。神に反旗を翻し、あるいは教えに背いて堕落したからだという。
それは本当なのだろうか。
(気高い、ベル……)
繋いだ手が離れ、視界を満たす光が弱まっていく。最初に見えたのは翻る金色。獅子の毛皮ではない。秋に揺れる麦畑の色。
次に白銀。嵐の夜の稲妻の色。嵐が去った後の空は青く澄み渡り、水を得た大地は実りを育む。
光が去り、バサリと羽音。ベルが「ん?」と見下ろす彼女の手には、雷を集めて固めたような揺れる光を放つ槍が一振り。
「この私に手ずから戦えと!?」
今回は幼女化も首輪も避けられたというのに、彼女は新たな不満を得たよう。流石に構っていられない状況のため、俺は彼女の叫びを無視して自分の装備を確認する。
以前名無しと戦った時のマントはない。鎧は両腕と両脚だけで胴体はガラ空き。武器はいつの間にか右手に握っているウォーハンマー。これは前と同じだ。
「ギデオン! 説明しろ!」
騒ぐベルの肩には金色のマント。胴体に俺のものと同じスレートグレイの鎧をつけている。
(マントは一番強い防具。それをベルに……で、あとは、半分こ?)
俺は自分の深層心理にため息をついた。
「ギデオン! 申し開きをし——」
こちらにずいっと一歩踏み出したベルの背中で、真っ黒な翼がバサリと音を立てた。彼女が疑問符を浮かべて振り向き、三対の翼がまた揺れる。
「…………」
ベルはそれをじっと見つめて、翼をバタバタ動かし、「ハハッ」と少し笑ってこちらを向いた。
「自分の翼でついて来いということか?」
俺はその問いを共闘の同意と取る。
「行くぞ」
踵を返して駆け出すと、背後に翼の羽ばたく音がついて来た。
「とりあえず、試し撃ちでもしてみるか」
俺の斜め上を飛ぶベルが、飛行速度を落とさないまま槍を投擲に構えた。その視線の先には赤黒いドア。厳密に言うと、そこから這い出したレミエルの頭。
「それっ!」
いやに間の抜けた掛け声と共に投げられた槍が、バチバチと稲妻が爆ぜる音を立てながら真っ直ぐレミエルへ飛んでいく。それは見事に機械仕掛けの頭を射抜き、
「삙兎늎ࣷん뿗ᖆ,ሓ적!!!!」
ガバッと口を開いたレミエルが、叫びとも呪詛ともつかない叫びを上げた。
「おい、一振りしかない武器投げちまってこれから——」
俺はため息混じりに隣を見上げる。ニヤリと笑うベルの手には、さっき投げたはずの白銀の槍。
「…………」
「君の空想は実に面白いが、本人がその委細を理解していないのが玉に瑕だな」
「……うるせえ」
「まあ、それ故に自由とも捉えられるが」
ふと、ベルが笑みを消す。それから「ギデオン」と彼女らしからぬ神妙な声で、
「君は馬鹿で無知な夢想家でいろ。……知識は、君から自由を奪う」
超越者の天啓のように。恐らく、この言葉の裏には、彼女がこれまで見てきた地上の長い歴史がある。
(それなら、俺たちは出会うのが遅すぎたな)
ただ天使を恐れるだけだった子供の頃の俺だったら、三対翅の天使をも一撃で粉砕する『何か』を空想することができただろう。一抹の疑念も持たず、純粋な信心をもって。
今の俺は知っている。〈罰の魚〉の大きさごとの強さも、破壊するのに必要な装備も。天使の攻撃を知っている。それに穿たれる悪魔を何度も見た。
二対翅の天使を悪魔一体では殺せないことを知っている俺は、今、これから何をするべきか。
「俺がレミエルを攻撃する。お前はハーマンを回収しろ」
俺が話題を逸らしたことに、当然ベルは気づいただろう。少しの間を置いてから、「私に指図をするな」と言って外方を向いた。




