第32話 英雄の誤算 -1
英雄を欲した。僅かに残る伝承と悪魔の嘲笑に語られる〈英雄〉ではなく、どうにもならない世界をその力の一撃でひっくり返すような、運命を変える英雄を。
英雄になりたいと思った。誰もやらないなら、誰も頼れないなら、自分を救う者は自分をおいて他にない、と。
俺が思い描いた英雄。世界の変革者。神を討ち倒す者。それはたった一人の輝きとして存在している。
「お前たちはどこかに隠れてろ」
言うと、ヤムが「ともすると、あっちかな」と比較的建物が残っている廃墟の方を向き、サラが険しい表情でサムの死体を見下ろした。
「弔いは全部終わってからだ」
俺はさっさと歩き出すヤムを見ながらサラの背中を押す。
「でも……相手は大天使よ。あなた一人で倒せるの?」
「倒す以外に選択肢がない」
「それは、そうだけど……」
「だから倒す」
俺の断言に、サラは何かを言いたげに口を開きかけたが、気まずそうに視線を伏せてノロノロと歩き出した。大方、自分が戦えないことに罪悪感を抱いているというところだろう。
気持ちはわからなくもないが、アスモデウスと契約したのが運の尽き。考えたところで仕方がない。
「さて、どうす——」
俺はレミエルの方を向きかけて、アスモデウスがこちらを見ていることに気がついた。いつもサラにベッタリくっついているというのに、離れていく彼女を追いかけることなく。
「なんだよ」
尋ねると、深淵のような黒い瞳がサムの死体を一瞥した。
「彼は死ぬタイミングを間違えたと思いまして」
それからベルを見て、俺を見る。
「供物による底上げがあれば、あるいは」
「俺は生贄なんかやらないぞ」
「そうなのですか? 目的のためならどれほど残虐な行いも厭わないような見た目をしているのに」
「お前らはなんでそう人の見た目ばっかり……」
「お前が契約している悪魔は、本領を発揮すれば、あの程度の使徒相手に負けることなどありません」
「本領?」
俺は疑問符を浮かべつつ傍らのベルを見下ろす。テラコッタの瞳は、真っ直ぐアスモデウスを捉えている。
「私たちにとって、人間の魂はエンジンの燃料のようなものだ」
彼女の横顔が語る。
「燃料を多く燃やせば、それだけ多くのエネルギーを得られる。ただし、その上限は個々のエンジンの性能に依存する」
つまり、彼女は馬鹿デカいエンジンということか。俺の手持ちの魂をちまちま燃やす程度では、その真価を発揮できないくらいの。
(じゃあ、一気に燃やしたら……)
俺が考えるのと、テラコッタの瞳が横目にこちらを一瞥するのはほとんど同時だった。ベルは盛大なため息をつき、「そして君たちの空想はエンジンの開発設計図だ」と続ける。
「私たちは不変の装置ではない。パフォーマンスは接続対象によって変化する。大量の燃料を焚べようと契約相手がカスならカスしか出力できないし、少量の燃料でも有能な操縦士がいればどこまでも走ることができる」
つらつらと話すベルを見ていたアスモデウスが、「意外ですね」と半ば独り言のように言った。
「なぜ、たかが人間相手にそこまで懇切丁寧な説明を?」
その問いはベルへ。心底理解不能とでも言いたげな顔をしている。対するベルは「ふんっ」と鼻を鳴らして腕組みをし、
「君が余計なことを言うからだ。ギデオンは馬鹿のくせにあれこれ考えて空回る」
俺の「馬鹿とはなんだ」というツッコミは華麗にスルー。
「馬鹿はそれらしく、何も考えずに馬鹿丸出しで暴れ回るのが適している」
悠然と、世界の真理でも語るように言い切った彼女に、しかしアスモデウスは顔を顰める。
「馬鹿が馬鹿のままでいられないのが、今のこの世界ですよ」
「だからどうした?」
「今の彼がどれほどの馬鹿でも、いつか馬鹿でなくなる時が来ます。……繰り返すことになる」
彼らは短い会話の中に何度『馬鹿』を入れれば気が済むのか——というツッコミは野暮だろう。
何となく察していたこと。ベルが〈英雄〉を語る時、その裏側には一般論の『英雄』ではなく、かつて共に過ごした一人の誰かがいる。『繰り返す』とは、そのことだろうか。
考えていたら、ベルがまたチラリとこちらを見た。呆れ顔で「ほら、見ろ」と俺を親指で指しながらアスモデウスに言う。
「また君のせいで、馬鹿が無い頭を使っている」
それから「シッ、シッ」とでも言うように手を振り、
「アスモデウス、そう言う君は繰り返したくないのだろう? ならばさっさと行け。そして使いたくない魂と共に瓦礫に埋まっていればいい」
最後の棘のある口振りは、飄々とした様を装っている彼女の本音だろうか。アスモデウスが気まずそうに視線を俯け、「お好きにどうぞ」と踵を返した。
「アスモデウスは比較的口数が少ない割りに、余計な一言の打率が高いな」
ベルはその後ろ姿を眺めながら腰に手を当てて、したり顔でこちらを向いた。
「で、ギデオン。君は女の過去の交友関係にいちいち目くじらを立てるほど矮小な男なのか?」
「……なんだよ、それ」
「まさか君が、私の昔の男にあれこれ不満を抱くような性格だったとはな。驚いた」
「俺、何も言ってないぞ」
「顔に書いてある」
「お前が書いてないもん読んでるだけだ」
正直なところ、ベルのこの空気を読まない言動にイラつかないと言えば嘘になる。こんな窮地にこんな馬鹿のようなことを言う彼女の方こそ馬鹿で、緊張感が無くて、やはり悪魔の感性は理解できない。
しかし、それに救われている部分があるというのもまた、正直なところだ。認めたくないし、絶対に彼女には言えないけれど。
「ではまあ、とりあえず、行けるところまで行ってみようではないか」
そう言って笑う彼女の向こう。赤黒いドアにビシッと亀裂が入った。




