第31話 古代戦争について
古代戦争の敗因については、私たち悪魔の間でも諸説ある。
それは視点の問題だろう。神でさえ世界の全てを見渡すことができない世界で、悪魔の視界はほとんど人間と同じだ。つまり、有限の『既知』を思考して得られる解は、『既知』の内訳に依存する。
ルシファーは『人類の怠惰』が敗北の理由だと語った。悪魔が他社の『怠惰』を責めるとはまた趣深い話ではあるが、多くの悪魔がそれに同意し、私も概ね同意した。つまり、共闘相手の戦線放棄によって戦線を維持できなくなった、と。
これは現象の説明として正しい。しかし、大枠を語るに留まっている。
私は、彼が語った『怠惰』を『理解』と解く。加えて、理解は『知る』と『考える』に分解できる。
* * *
リヴァイアサンが具現化したものは地獄の門に似ている。つまりハーマンにとっては『死』こそが救いであり、希望なのだろう。
レミエルに接近したリヴァイアサンが大きく扉を開き、赤黒い亡者たちに包まれたレミエルを飲み込んだ。視認できる双方の厚みを考えれば、レミエルは反対側から顔を覗かせそうなものだが、そういえば、昔人間が空想した物語に別地点へ繋がる『なんたらドア』というものがあったか。
子供の無垢な信心と、老いさらばえた者の乾いた諦念。それがハーマンの内訳だろう。
レミエルを飲み込んだ扉が地面に立ち、その上に座るハーマンがご機嫌に両足を揺らしている。私はそれを遠巻きに眺め、次に傍らを見上げた。
「あれはそう長く保たないぞ」
古代戦争において、二対翅の天使は悪魔一体と英雄一人で当たってギリギリ倒せるくらいの戦力差だった。合理的かつ従順に空想を具現化する機械化された悪魔と、偶然少しだけ神の側に傾いて生まれた人間である英雄が組んで、どうにかそれなりの勝負になった。
取りこぼしと無駄が多い悪魔と退屈な人間では、できることなど高が知れている。じきにレミエルは扉を破って出てくる。
「私と君で、あれを迎撃するんじゃなかったか?」
尋ねると、ギデオンはどこか呆けたような顔で「あ、ああ」と応えた。ハーマンを見て、己が願望の実態と不可能性に気付いてしまったのだろう。
彼は元の世界を取り戻したかった。人殺しが絶対的な悪と認められ、あらゆる弱者の生存も是としていた世界。しかし、変質した世界において、人間もまた変わってしまった。そしてそれは、地上から天使を一掃したからと、スイッチを切り替えるように元へ戻るものではない。
ギデオンは理解したということだ。
(思ったより早かったな)
常識なんかクソくらえとでも言うような、野心や憤怒に似た渇望。私は彼にそれを見て、『理解』とは程遠い人間だと思ったのだが——そういえば、これまでの彼は見た目に反することばかりだった。
人間の空想が現実を凌駕していたのは過去の話。彼らは、田畑を押し流す川の氾濫が、降雨と地形によるものであると『理解』した。川の神の空想が入る余地は失われ、人間の手で雨を止めることはできない。
潮時か。
「いやー、まさかハーマンがあんなことをするなんて、驚いたよ」
ヤムが呑気な顔で近づいてきた。まいった、とでも言いたげに片手を頭に置いて「あれはどういう状況だろうね」と向こうに鎮座する赤黒い扉を見る。彼もまた正常性を欠いているのだろう。何を考えているのかよくわからない。
「今のうちに隠れたら、やり過ごしたりできないかな」
悪魔学者だという彼が何を知っていて、何を知らないのかさえ。とは言え、私はため息をひとつ。これはギデオンでさえ知っているだろう、と内心で。
「天使が一度捕捉した断罪対象を見失うことはない」
それは私がギデオンを見失わないことと同じ。
「神の鉄槌は無限の火矢だ。どれだけ地中深く逃げたところで、いつか天井を割る」
「まあ、そうだよね」
「……君はこんな時に、当たり前のことを聞いて遊んでいるのか?」
「おや、驚いた。悪魔の君にも、『こんな時』などと思う感性があるのかい?」
「…………」
飄々と言うヤムに、私は思わず閉口する。隣でギデオンが「とにかく、戦わないと……」と柄にもなくヨレヨレの声で言った。
私は思考する。この、水をかけられた焚き火のような男をこのまま戦わせて、さっさと契約を終了するべきか。それとも、真っ黒な燃え滓の奥にまだ何かが燻っていることに賭けるか。
内心で「君ならどうする?」と語りかけるのは、もうどこにもいないかつての戦友に向けて。
「君たちの頭が良くなったせいで、かつて私たちは神の尖兵に敗北した」
言うと、錆色の瞳が所在なげにこちらを見下ろす。情けない顔だ。彼らしくない。
「未来を空想する思考能力を有する君たちは、世界を知るごとに空想の幅を狭め、空想を現実と錯覚するようになった。確かに実測値を元にした予測は、ほとんど未来の実測と言えるが……君たちは生存手段の一つとして知性を発達させてきたが、君たちが自ら命を絶つようになったのも、ちょうどその頃からだ」
いつからか人類は『絶望』の機能を得た。無限の可能性が存在する未来を、ひとつの可能性に収束させて捉えるようになった。未来がわかってしまったら——行き着く先が破滅だと知ってしまったら、至る道程に意味を見出せなくなる。所謂、『生きていたって仕方がない』というやつだ。
「私は、君の馬鹿面が気に入っている」
頭のいい人間は無駄骨を避ける。強大な敵を前に未来を諦め、苦痛に塗れた死を迎えるくらいならと自らの心臓に短剣を突き立てる。
頭の悪い人間はそもそも無駄骨がわからない。だから抗う。食いちぎられても、噛み砕かれても、その手が成せる最後の振動ひとつまで。
ギデオン・ロスは野蛮を絵に描いたような造形をしている。だから私は彼に可能性を見たわけだが、如何せん、今の私の視点から観測できる範囲の『既知』において、彼の内面には知性が存在するかのよう。
さて、真実はどうか。
「だがまあ、これは私の片思いだったようだ。レミエルを殺す自分を想像できないなら……君の旅路はここで終わるのなら、潔く私が殺してやろうか?」
尋ねると、呆けた顔のギデオンが、馬鹿のように僅かに目を見開いた。この脳筋らしい造形は私の好みなのだが、
「……俺が死んだら、お前は消えるだろ」
なかなかどうして、まるで思考能力があるかのような戯言を口走る。
「そうだな。ここでは、急いで培養槽に戻るわけにもいかない」
「俺が死にたいって言ったら一緒に死ぬってことか?」
「ギデオン、君は物覚えが悪いな。この体が消えることと君が言う『死』は違うと、前に何度も言っただろう」
「だが……」
「『私』は終わらない。君が死んでも、またどこかの誰かが化石から私を蘇らせるだろう。そこには今日の続きの私がある」
私は「だがまぁ」と続ける。
「ここに至るまでも何度か蘇ったが、そこにいる人間はどいつもこいつも利口でな。だから契約には応じなかった。私は獣と見分けがつかないくらいの馬鹿が好きだから」
ニヤリと笑って見せると、深刻な顔をしていたギデオンがフッと顔の力を抜いた。それから盛大なため息をつき、「誰が馬鹿だって?」と片眉を上げる。
「なんだ君、その見た目で自惚れ屋なのか。私は君が好きなどと一言も言っていないというのに」
「今、お前は俺と契約してるだろ」
「それがどうした?」
「だから——」勢いよく言いかけたギデオンが、はたと何かに気づいた様子で言葉を切る。私はそこに旨みを見出し、
「なるほど。君は無い知能を総動員して言葉の端をつついてまで、自分が私に好かれていることにしたいと」
「違うぞ」
「いやはや、美女は引く手数多で困るな」
「どこが引く手数多だ……」
ギデオンは顰めっ面で言い、本当にまるで私の美しさに気付いていないかのようにガシガシと後ろ頭を掻く。実に素晴らしい。この神がデザインした崇高な美しさを理解しないとは、まさに知性のかけらもあったものではない。
「それで、お前は大天使相手に勝算があるのか?」
そして続いた馬鹿のような問いに、私はすかさず「ない」と答える。
「無謀な空想は、人間である君の両分だ」
果たして私たちはどこまで進むことができるのか。この男の愚かさに期待したいところだ。




