第30話 無垢と罪
驚くべきことに、サムはまだ意識があった。しかもどうやら、ここまでの会話を聞いていたらしい。彼は口の中をゴボゴボと何度も鳴らして血を吐き出し、空になった口で言った。
「殺して、く、れ……」
どういうわけかこのタイミングになって正気を取り戻した彼は、もっと早くそうなっていれば、下半身を失わずに済んだだろう。
「どうせ、死ぬ……なら……」
その言葉に、サラは異を唱えない。グッと口を引き結んで押し黙る。ようやく目の前の死を理解したのか、それともサムの意を汲んでのことか。
やはりサムは、腐っても戦闘部の一員。今日まで生き残ってきた彼は、命の使い方を理解している。打ち捨てられた地上の歩き方を知っている。
最期の願いは尊重してやるべきだ。そしてそれは、戦い慣れていないサラには荷が重い。
俺が彼らの方へ歩き出すと、ベルが「ついに君から供物を捧げられる時が来たか」と弾んだ声を出した。空気の読めない奴だ。実に悪魔らしい。
俺はサラの向かい、サムの傍らに立ち、ライフルの先から多用途ナイフを外す。虚ろな目でそれを見ていたサラが俺の顔を向き、何かを言おうと口を開いた、その時。
「えっ……」
呆けた声を出したのは俺かサラか。多分両方だ。突然現れた小さな手が俺の手からナイフを奪い、両手で振り上げ、サムの胸の真ん中に突き立てた。
「ハーマン!?」
アイテール電磁鉱の加工が施された黄緑色の淡い光を纏う刃は、子供の力でも生き物の血肉を切り裂くに容易い。恐らく心臓に刺さったのだろう。鮮血がびゅっと吹き出し、ハーマンが振り返る。
血塗れの子供の顔には満面の笑み。
「リヴァイアサン、この魂使って!」
サムが目を剥き、ハクハクと口を動かし、「サン、キュ」と言って呼吸を止めた。
「おまっ——」
俺が口を開くと同時に、パンっと皮膚を打つ音。
「なんてことするのっ!?」
ハーマンの頬を叩いたサラが叫ぶ。ハーマンが「えっ」とキョトンとした顔で頬を押さえ、向こうでリヴァイアサンがモゴモゴと動き出す。
「הרמן……」
どこから響いているのかよくわからない、地を這うような低い声。俺はその発音に、これがリヴァイアサンの声と認める。
「הכית את הרמן, נכון!?」
ハーマンがハッとした顔で「違うよ!」と言って立ち上がった。両手を広げてリヴァイアサンの方を向く。サラめがけて伸びてきた吸盤の脚の一本が、彼の鼻先スレスレのところで止まった。
「הכיתי את הרמן. אני אהרוג אותו.」
「僕は平気だよ」
「אני שונא את הבחור הזה. שונא.」
「びっくりしたけど、平気だよ。これくらい慣れてるから」
「זוז הצידה, הרמן. אני הולך להרוג אותו.」
「大丈夫だってば。それより、僕はあの天使を殺してほしい」
「אבל, זה כואב בפנים, נכון?」
「天使が死んだら痛くなくなるよ」
その言葉はリヴァイアサンを納得させるための嘘か、それとも本気か。ハーマンはカラッとした声で言うと、向こうに浮かぶ大天使——レミエルを指差した。
「僕の願いを叶えて、救世主様」
にっこり笑う彼に、「הבנתי.」とリヴァイアサンの声が応える。瞬間、怪物の巨体がドロッと溶けて、赤黒い球体になって宙に浮かんだ。
「ほう」というのはベルの声。「君ほどではないが、ハーマンもなかなか」感心したふうに顎をさする。
「科学の発展で、人類は過去のような想像力を失ったものと思っていたが」
球体の表面がグネグネと動いて、複数の槍のようなものを射出した。こちらに近づくレミエルの頭部を打ち抜き、レミエルの動きが停止する。
球体がなおも動き続け、何かの形を成していく。それを見上げるハーマンが、「やった!」と言って満面の笑みを浮かべた。
俺はその心境を理解できない。
「ハーマン」
呼ぶと、無垢な喜びを湛えるエメラルドグリーンの瞳がこちらを見上げる。
「どうして、サムを殺した?」
コテっと首を傾げる様は、自らの成したことを理解していないかのよう。
「〈方舟〉ではいつもこうしてたよ?」
その声も、また。
「役に立たない人間は生きててもしょうがないから、殺してあげるの。僕がいたところには悪魔がいなかったから、その人たちはただ死ぬだけだったんだけど、この人はよかったね。最後までちゃんと役に立てた」
当たり前のことのように語る。幼い子供の声が、つらつらと。そこには命を奪うことへの罪悪感も、命が失われることへの悲壮感も、命が軽んじられることへの絶望感もない。
彼にとっては、確かにこれが当たり前なのだろう。年齢的に、物心がついたのは〈終末審判〉後だ。
(なんだよ、これ)
赤黒い球体が、巨大で平らな長方形に変わった。両開きの重厚なドア。枠にはもがき苦しむ人間の造形がいくつも押し込められていて、ドアノブは涙を流す赤子の頭。
ドアが開き、中から赤黒い波が溢れ出した。無数の呻き声を放ちながら、嵐の海の荒波のようにレミエルの方へ流れていく。よく見るとそれは不自然に折れ曲がった人間だったり、獣の体の断片だったり、壊れた船だったり、死と終わりを彷彿とさせる造形の集合体。
(こんな子供が想像する『救世主』が、これ?)
波が発する呻き声は、天使と戦った後の夜の始まりに似ている。
「行っけー! リヴァイアサーン!」
ハーマンが片手を上げてぴょんぴょん跳ねる。レミエルの真下まで到達した波が渦になって持ち上がり、白い天使の姿を覆っていく。リヴァイアサンの無駄が多い造形に、俺は魂の消費を思う。
「ハーマン、リヴァイアサンを止めろ。あんな戦い方じゃ、魂がいくつあっても足りないぞ」
しかしハーマンはキョトンとした顔でこちらを見て、
「二つあるから大丈夫だよ」
「お前っ……サムの魂を使い尽くしたら、次はお前の魂が食われるんだぞ」
「うん」
「いや、『うん』じゃなくて……」
「それの何がいけないの?」
その問いに、俺はてっきり彼が悪魔の力を使う意味を理解していないのかと思ったが、
「僕はね、僕たちはね、ずっと信じてたんだよ」
どうやら俺の理解は間違っていたらしい。ハーマンが『無垢』という解釈も。
「神様を信じてれば、天使と戦わずに正しく生きてれば、きっと方舟が迎えに来てくれて、楽園の島に行けるって」
昼の陽光を反射してツヤツヤと輝く、エメラルドグリーンの大きな瞳。そこに満ちているのは喜びでも無邪気でもない。
「でも、みんな死んじゃった。天使に燃やされて死んじゃった。それでね、僕、どうして天使はこんなことをするんだろうって思って、もしかしたら寝ぼけて間違えちゃったのかと思って、夢に入ってみたんだ」
ハーマンは〈偽英雄〉。夢渡りの力を持ち、リヴァイアサンとは夢の中で出会って契約をした。
「そしたらね、ふふっ、そしたらね! わかったんだ!」
幼い指がレミエルを指す。赤黒い無数の『死』がまとわりつく機械仕掛けの天使。
「あれは僕たちと同じものだったんだよ。天使も悪魔も人間も英雄も、全部最初は同じだった。僕たちはああならないと楽園に行けない。つまり、無理ってことだよねぇ!」
ハーマンはそこまで言うと、奇声を上げて波の方へ駆け出した。ゆっくりと動き出したドアに向かって「リヴァイアサン、僕も行くー!」と言って手を上げる彼を、赤黒い波が飲み込む。
「何、あれ……」とサラが独りごちた。彼女には理解不能な怪物に見えているのだろうが、俺には何となくハーマンがわかる。
あれは純粋無垢ではない。純粋な狂気だ。彼は最初から壊れていた。傷が傷とわからないくらい、隙間なく、境なく傷で満たされていた。
(あいつが特別にああなったわけじゃない。これは世界の必然だ。……生まれた人間がああなる世界が、この世界)
どれだけ長い道程も、歩き続ければいつか終わる。途方もない数の天使も、端から一体ずつ殺していけばいつかいなくなる。そう思って戦い続けてきた。
しかし、どうだろう。そうしていつか取り戻す世界は、取り戻すに値する世界のままなのだろうか。




