第29話 理想は遠く
俺は走った。左右に見える小さな魚影には目もくれず。
「天使が来た! 逃げるぞ!」
ようやくマモンの防壁が見えてきたところで声を上げると、サムの上に座っていたサラがギョッとした顔で立ち上がって東の空を仰いだ。遠くに浮かぶ逆光のシルエットを目にして顔面蒼白になる彼女の隣で、ベルが「おっ」と呑気な声を出してサムの上から飛び降りる。
「ルシファー様!」
サムがのそっと立ち上がって叫んだ。それから「いや、パンツ……」と呟いて両手で頭を押さえる。道化のような彼の言動に、今は呆れより怒りが湧く。
「捕捉されたら終わりだ。とにかく今は隠れる場所を——」
俺が歩き出そうとするサムの腕を掴んだ、その時。西に広がる廃墟が轟音を立てて崩れた。吹き飛ばされた、と言った方が合っているかもしれない。
ともあれ、その向こうから巨大な怪物が現れる。
巨大な吸盤が並ぶ八本の脚と、鱗の皮膚と鋭い牙の大口。縦長の瞳孔の瞳がギョロギョロ動き、天使の方を向いて停止した。
「リヴァイアサン!?」
驚愕した俺は無意識にサムを掴む手を緩めてしまった。それが悪かった。サムが「今行きまーす」と間延びした声を上げて、あろうことか怪物——リヴァイアサンの方へ走り出してしまう。
「くそっ……」
俺の判断は時間にしてコンマ数秒。
天使は間違いなくリヴァイアサンを捕捉した。普段呑気に空を徘徊しているあいつらは、殲滅対象を見つけたら動きが速い。すぐにここに来る。サムを回収している暇はない。
反射的に、あるいは無意識に、当たり前のように、ここにいる全員を頭の中で天秤に乗せる。片方にサムを、もう片方にサラとベルとマモンとアスモデウス。
「あいつはダメだ。諦めて——」
俺が言うより早く、視界の端に動く影。サラがサムを追いかけて駆け出している。
「サム! ダメっ、戻って!」
俺は内心で「『ダメ』はお前だ」と独りごちて走る。サラの腕を掴み、離れていくサムの背中を見送り、彼女が振り返り、
「離してよっ!」
泣き出しそうなその顔に、俺は憧憬と憎悪を同時に抱く。
天使、それから〈罰の魚〉。奴らとの戦いは常に、合理的取捨選択の繰り返しだ。みんなで戦いに出てみんなで手を繋いで帰ってくることなどできない。やがて死ぬ誰かの呻き声を踏み越えて進まなければならない。
俺はそれが嫌で力を求めた。しかし足りない。たった一人の悪魔の力では名無しを倒すので精一杯。四枚翅からは逃げるしかない。
俺がその判断をする傍らで、サラは誰も見捨てない選択をしている。自分じゃ戦えないくせに。天使はおろか、〈罰の魚〉さえ倒せないくせに。——そのまっすぐな思考が眩しくて憎らしい。
「サラ、行くぞ」
「離してってば! サムが!」
「この状況であいつのフォローは無理だ」
「じゃあ見捨てるって言うの!?」
「そうだ!」
ヤムに「見捨てない」と言った舌の根も乾かないうちに、俺はこんなことを口走っている。サラが愕然とした顔になるのはきっと、俺に失望したからだろう。
いつだってずっと、そうだった。〈偽英雄〉だから強いだろう、と期待され、結局村は天使に焼かれた。死の淵にある村人の失望と諦念に満ちた空虚な瞳は、今も鮮明に覚えている。
〈反抗者〉に入って、偽英雄を揶揄する彼らに俺は安堵していた。期待されなければ失望されることもない、と。
そして、今。そもそもの話として、居場所云々の問題ではなかったのかもしれない。失望されたくないならば、誰の目にも映らずにいるのが合理的だ。
(これが終わったら——)
サラの腕を引いて踵を返す。向こうで何やら立ち話をしている悪魔たちの姿にゲンナリして、どこか隠れられる場所はないかと周囲を見渡したところで、
「いっけー! リヴァイアサン!」
背後から子供の陽気な声がした。ハーマンだ。ガラガラと瓦礫が崩れる音。リヴァイアサンの巨体が天使へ向かって進み出す。
(マズいっ!)
咄嗟に空を仰ぐと、晴天に無数の星が瞬いている。いや、違う、星ではない。赤い。火球だ。神の鉄槌。
「マモン!」
振り返る。向こうでマモンがため息をついた。ベルとアスモデウスの姿がない。
サラの腕を掴んでいた手が離れる。見ると、アスモデウスがサラを抱き締めている。その真っ黒な瞳が空を仰ぎ、傍らからベルの能天気な声。
「なんだ、私ではないのか」
マモンが両手を宙に掲げる。
「いくらなん——相手が——」
何かを言っているが、火球が空気を裂く音に掻き消されてよく聞こえない。
「レミエ——神の雷霆——を——僕では——精一ぱ————」
火球が大地を穿ち、廃墟を吹き飛ばし、赤茶色の砂塵が視界を閉ざす。轟音——鼓膜云々のレベルを超えて、頭の中を直接叩き鳴らされるような衝撃。
俺は咄嗟にしゃがみ込み、片腕で顔を覆ってもう片方の手でベルを探す。まさかこの状況で突っ立っているわけはないと思ったが、俺の手を握った細い手は上方から。
音が止んだ。頭がグラグラする。
「サラ、大丈夫か!?」
閉ざされた視界の中で叫ぶと、近くから「ええ」とサラの声。それから「私の心配は?」とベルの呆れたような呟き。風が吹き、砂塵が流されていく。
薄い赤茶色のベールの向こうに、七色の反射光が瞬いた。天使の翅だ。俺は立ち上がって振り返る。すぐ後ろに人影が二つ。その向こうに廃墟の凹凸。それから——
俺がそれを視認するより、サラが「サムっ!」と悲鳴に近い声を上げて駆け出す方が早かった。彼女の判断が早く見えるのは、きっと、そもそも『判断』をしていないから。
どういうふうに爆発を食らったのかよくわからないが、そこに倒れているサムには下半身がない。少し離れたところの廃墟の壁に、真っ赤な血飛沫と肉片が張り付いている。
俺はサムの傍らに膝をつくサラの後ろ姿を見て、
(一目見りゃ、助からないってわかるだろ)
サムの肩にそっと触れる彼女に思う。管理部の医療班に属していたのに、と考えかけて、そういえばあのレベルの負傷者が基地に運ばれることはなかったな、と。
「アスモデウス!」
それから悲鳴のような呼び声に、はたと気づく。そうか、彼女は自分の魂を削ってサムを救おうとしている。敵を倒して他者を生かそうとする俺とは真逆の発想。俺には思いつかない。
「力をっ、ねえ、お願い!」
必死に懇願するサラに、しかし悪魔は非情だ。彼女の傍らに立つアスモデウスが、完全な無表情で「拒否します」と答える。
「どうしてっ!? 本当に、もう、いい加減にして!」
「それにはもっと有用な使い方があります」
「は!?」
「私に供物として捧げてください」
「なっ、なに、それ……」
サラが怒りとも困惑とも取れない表情を浮かべる。当然だ。俺もベルから聞くまで悪魔に供物を与えるなどという発想は無かったし、悪魔が契約者以外の魂を使用できるなど、これまで聞いたことがなかった。
ベルはそれを高位の自分に特有の特性のように語ったが、アスモデウスもできるのか。
「私の契約相手たるお前が、その男の魂を私への供物として捧げるのです」
「それっ、て……え?」
「知りませんか? 昔の人間はよくやっていましたよ。日照りで作物が育たない時は乾いた大地に若い男の血を注ぎ、荒れ狂う川を止めたい時は丸太に少女を括って流しました」
「そんな……」
「それと同じです。私への供物として、お前がその男の息の根を止めれば、私は今ここで魂一つ分の軌跡を成して見せましょう」
「そんなことっ、できるわけないでしょ!」
サラが叫び、アスモデウスが「では力は使えません」と言い、サラが「なんでよ!」と彼女の胸ぐらを掴み、アスモデウスが「無意味なので」と答える。またいつもの展開が始まった。こんな時だってのに。
俺は砂塵が去った視界にリヴァイアサンを見上げる。火球をもろに受けたのか、脚の何本かが潰れていて、胴体のところから火の手が上がっている。その傍らには「リヴァイアサン、起きて!」と吸盤を叩くハーマンと、「危ないよ、逃げよう」と彼を引っ張るヤムの姿。
控えめに言って、最悪だ。
「ベル、俺たちで天使を迎撃するぞ」
俺は立ち上がりながら言って、
「マモンにこいつらの防御を——」
振り返った先にマモンの姿はなかった。抉れた地面があるだけ。まさかと思ったところで、「奴なら死んだぞ」とベルの声。
「お前たちを守るので精一杯だったようだ。まあ、レミエルはその名に『神の雷霆』を冠するからな」
それがどうしてマモンを一撃で屠るに至るのか。その問い以前に、俺は困惑する。悪魔が身を挺して人間を守ることなどあり得るのか、と。
「奴はミシュナーを気に入っている様子だったからな」
ベルが言う。
「別段、私たちは世界の全てを嫌っているわけでも、小馬鹿にしているわけでもない。好き嫌いはある。ただ、人間より『好き』の範囲が極端に狭く、深く、君たちから見たら一風変わっているというだけだ」
つまり、マモンはミシュナーの意思を最後まで果たしたということか。
「それで、どうする?」
ベルが尋ね、俺は閉口する。瞬間、サムの口からゴボッと音を立てて血が流れた。




