第28話 油断
サムは腐っても戦闘部の一員で、今日まで生き残ってきたのにはそれなりの理由がある。運が良かったというのはもちろんだが、やはりそれはベースの身体能力があってこそのものだ。
つまり、俺が〈罰の魚〉を倒している間、サムをどうやって防壁の中に留めるか。それが問題となった。
最初、マモンにやらせようとしたが、
「防壁が揺らぐけれど、それでもいいならやるよ」
曰く、防壁の展開は集中力を要するもので、サムの理解不能な言動に思考リソースを費やすと、その分防壁の維持が疎かになるとのこと。その説明には論理的にも直感的にも納得がいくが、悪魔の言葉であるという一点だけで些か疑念が残る。
ともあれ、闇雲にリスクを取るわけにもいかない。消去法でサムの拘束はサラとベルで担うことになるが、二人の腕は細い。
「サラ、ここに乗れ」
俺はサムを地面にうつ伏せにさせ、その右腕を背中に捻り上げ、視線で彼の背中を指した。困惑顔でこちらを見ていたサラが、さらに困惑顔になる。
「でも……」
「お前の腕力じゃどうにもならない。こいつは無駄に力だけはあるから」
「でも、あなたは押さえられてる」
「俺とお前は違う。比べたって仕方がない」
アスモデウスが彼女のことを『優しい』と形容する理由を、俺はその困惑顔にひしひしと理解する。そして、彼女がこの世界に慣れていないことも。
サラは「そうだけど……」と言って黙り込んでしまう。俺は別の方法を考えようかと思ったが、それより早く、ベルがサムの背中を踏みつけた。もう片方の足で腕を踏み、うつ伏せのサムの上に器用に立つ。
「これでどうだ?」
サムが起き上がろうとした拍子にグラッとよろめき、体勢を立て直し、得意げな顔で腕組みをしてこちらを見下ろす。「ルシファー様、ルシファー様」と譫言のように呟いていたサムがギョロッと瞳を動かして、横目に彼女を見上げ、
「ふへへ、踏まれてる……ああ、いや、ルシファー様……美女に踏まれてる……ありがとーぅ」
——何故か少し嬉しそうだ。
「……サラ、こいつは踏まれて喜ぶタイプらしい。だから遠慮なく乗って大丈夫だ」
言うと、サラはさっきとは別の属性の困惑顔になり、それからそっとサムの腰のところに座った。俺が手を離すとサムが「ルシファーさまーぁ」と間延びした声を出して体を揺らし、ベルが腕を踏む足に力を込める。
「じゃあ、俺は〈罰の魚〉を狩って来るから、いいって言うまで絶対にここを出るなよ」
俺がライフルを拾いながら言うと、ベルが「良きに計らえ」とふんぞり返り、サラが「気をつけて」と心配そうな顔になる。
「……ああ」
俺は応えてライフルを構え、防壁の向こうのシャーク級を一体撃って駆け出した。防壁を囲んでいた数多の魚影がこちらを向き、追いかけてくる。
この時の俺は油断していた。何にと聞かれると対象は多岐に渡るが、敢えて一言で言うなら、世界に対して。理由はここ数日の状況か、それとも俺の中の甘えや怠慢か——多分、両方。
サラやヤムが俺をまるで仲間のように扱い、俺もまた、彼らを仲間のように思い始めていた。信頼と言うべきか、心強さと言うべきか、よくわからないがそんな感覚を覚えていた。
ここは、昼に肩を並べて戦った人間が、夜には漏れなく物言わぬ死体になっているような世界。仲間がいたところで何が変わるわけではない。だから必要なのは、自分以外の何者をも必要としない、絶対的で独立した神の敵対者であると、わかっていたはずなのに。
* * *
第七支部があったエリアより、この辺りは〈罰の魚〉の数がずっと少ない。いるのはピラニア級とシャーク級ばかりで、見渡す限りホエール級の姿はない。戦う上で別段苦戦を強いられる状況ではなく、この辺りの〈罰の魚〉を一掃しても、天使が出るほどではないだろう。
俺はベルたちがいる辺りの〈罰の魚〉を一通り破壊した後、魚を狩りながら基地へ向けて移動した。
走って、撃って、また走る。瓦礫を飛び越え、襲いかかってくる魚影へ向けてライフルを連射。降下の過程で下方の魚影を銃剣で切り裂き、着地と同時に走り出す。
弾切れのないジャービル型九七式アサルトライフルは、元々、人間同士の戦争のために作られた。主な目的は歩兵装備の削減。予備の弾倉を持たずに済むだけで随分と機動力が変わったというのは、昔の俺にとって学校の教科書の中の話だった。
刃こぼれをせず切れ味が変わらない電磁多用途ナイフは、どこかの国の小さな包丁メーカーが開発した技術を用いて作られた。生活に便利な品を求めた技術開発の行き着く先がライフルの先の刃など、誰が想像しただろう。
有史以来、地上のどこかにずっと存在し続けた戦争は、〈終末審判〉以降ことごとく消え去った。誰もが望んだ戦争のない世界。そこが過去のいつより力と武器を必要とする世界だとは、甚だ皮肉なものだ。
(俺たちに、一体何の罪があるって言うんだ)
俺は魚を狩りながら、終わった後のことを考える。
サラたちを基地へ戻したら、ヤムたちを探しに出るべきだろうか。それとも待つべきか。探すならすぐに出た方がいいか、それとも夜を待つか。
ヤムたちと合流した後はどうしよう。幹部の男が変わらず偉そうに振る舞ったから俺たちは何となく組織としてまとまっていたが、奴は〈罰の魚〉に喰われて死んだ。集団にはリーダーが必要で、年齢的にヤムが適任だが、性格的には彼が最も不適任だ。
だったらサムに、と言いたいが、ルシファーの呼び声に惑わされている限り不可能。あれはどうやって解除するものなのか。そもそも解除できるのか。落ち着いたらベルにでも聞いてみて——
——などと考えたのは、やはり俺が油断していたから。
ここは地上。罪人であることを押し付けられた者の世界。『明日』が必ず来るかのように生きていられた世界はとうの昔に終わった。
(とりあえず、こんなもん——)
俺は〈罰の魚〉を狩りながら基地の入り口に着き、狩り残しを撃ちながらベルたちの元へ戻ろうと踵を返した。西へ向かって走り出す。左右を見回し、目についた魚影を破壊していくことしばらく。
ふと、視界の端に何かを見た気がして振り返った。それは大きい気がして、どこかからホエール級が来たのかと思って、実際は違った。
仰ぎ見たのは東の空。まだ低い位置にある太陽に重なる——
「天使、だと?」
頭ばかりがやけに大きく、胴体はこぢんまりとしていて、四肢は不自然に細く長い。白くのっぺりとした体表も含めてよく知った形をしているが、俺がこれまで遭遇してきた名無しと違う点は二つ。
まず、腕が三対、六本ある。体の前にだらりと垂れる節くれだったそれは、まるで昆虫の脚のよう。
そして最も重要なのは、背中で陽光を反射している七色の翅が二対、四枚あるということ。
つまり、あれは大天使。今はまだ距離があって、個体識別はできない。
その姿に驚く俺は、やはりどうして、油断していた。〈罰の魚〉がやけに少ない理由をもっとしっかり考えるべきだった。
第五支部の人間が効率よく狩っていたということもあっただろう。もしかしたら、天使があまり通らないエリアであるのも事実かもしれない。しかし俺が最も疑うべきは、もうすぐ天使が来ることだった。




