第20話 神が治める太陽の下
〈方舟〉は共通理念を持つ人間の集団名で、ざっくり言うと〈反抗者〉の正反対に位置する組織だ。
彼らは、罪を洗い流せば楽園の島に行けると信じている。天使と敵対せず、神が自分たちを『罪人』と認めた理由を探してこれを拭い去り、正しく生きていればいつか罰から掬い上げてもらえると。
楽園を望む者。その思想は夢見がちな現実逃避に思えるが、彼らはこれを真に信じている。
〈終末審判〉からしばらく。家族も帰る家も失った俺は混乱の最中を彷徨い歩き、〈方舟〉の前身組織に拾われた。
彼らは〈偽英雄〉の存在を、神からの『慈悲』と信じていた。険しい懺悔の旅路を踏破するために与えられた『道具』と。
今になって振り返ってみると、あの場所にいた頃の俺は、彼らが自らの手を汚さないための代理人であり、防壁だったように思う。
どうしようもない、クソのような話。それでも俺が守るべきものを守れなかったことと、『チビのベル』が業火に焼かれて死んだことは事実だ。
* * *
地上に出ると、鮮烈な昼の陽光に一瞬だけ目が眩んだ。それから周囲を視認して、地下道に〈罰の魚〉が迷い込んだ理由を知る。
かつて商業都市を形成していた瓦礫が散らばり、積み重なる、黒く焼かれた鋭角の景色。その至る所を、大小様々な〈罰の魚〉が所狭しと泳いでいる。
狩られることなく増え続けた魚が、泳ぐ場所がなくて弾かれた先が地下道だったということだ。
「くそっ……」
俺はライフルを構え、
「ベル、お前は地下道に戻って——」隠れていろ、と言おうとした瞬間。地を割るような轟音が響き、砂埃を纏う風が体に打ち付けられた。
「まさに、水を得た魚だな」
向こうを望むベルのテラコッタの瞳に、巨大な何かが反射する。
「なんだ、あれ……」
その視線の先にあるものを適切に表現する語彙を、俺は持たない。強いて言うなら『怪物』か。
一番大きく見えるのは吸盤が並んだ八本の脚。それから硬そうな鱗の皮膚と、縦長の瞳孔の瞳と、鋭い牙が並ぶ大口。細長い部分と四肢をもつ部分が捻れて結合された胴体。海底に忘れ去られた沈没船のような突起物。
それが脚らしき部分を振り回し、口から青い炎を吐き、氷と砂つぶをはらむ風が吹き荒れる。〈罰の魚〉がその巨体に群がり、怪物の牙がそれを擦り潰す。
状況とベルの言葉から、あれがリヴァイアサンであることは確か。
俺は無意識にライフルの銃口を下ろした。この混沌と化した状況に、ライフルのチンケな銃弾など何の役にも立ちやしない。
「無駄が多いな」
リヴァイアサンの動きを見つめてベルが独りごちる。
「まあ、あれの知能ではこれが限界か」
怪物の巨体の有り様は、混乱する海上戦線に投入された巨大戦艦のそれに近似している。小回りの効く小型の駆逐艦や何かに囲まれれば良い的だ。
「早く助けないと——」
俺は言いながら踏み出し、後ろから腕を掴まれて振り返る。
「何故?」
こちらを真っ直ぐに見据えるテラコッタの瞳と目が合った。
「何故って、そりゃあ——」
反射的に言いかけて、言葉を切る。ベルの視線は俺の内側を覗き込むよう。
今、リヴァイアサンが力を使えているのは、その契約者が魂の使用を認めているから。当事者間の合意に異を唱える権利など俺にはない。
見たところ、リヴァイアサンは数に圧されて劣勢だ。損傷が限界値を超えたら彼女は消える。だが、それは人間の『死』とは少し違う。
悪魔の化石——古代戦争時代の亡骸から蘇生された彼らは端から死んでいる。残っている化石から遺伝子様物質を抽出・培養すれば、ここまでの記憶を有する自我がまた生まれる。
再生可能な対象を助ける意味はあるのか。そもそも彼女は悪魔で、悪魔の側の消失は契約相手に影響せず、ついでに言えば彼女の契約相手は魂の使用を——自らが死へ向かうことを容認している。
ベルの問いは即ち、『その必要はない』の暗喩。あるいは、『それなのに何故お前は行くのか』と。
「……俺は神が嫌いだ」
腕を掴む手を振り払い、こちらから掴む。
「天使も、〈罰の魚〉も……全部まとめてぶっ殺したい。そうするべきで、そうしなきゃならないと思う。だから……それができない自分は嫌いだ」
黙って聞いていたベルが、何かを察したように短く嘆息した。
「君は見た目通り、自分本位な男だな」
それから向こうのリヴァイアサンを望み、周囲を泳ぐ〈罰の魚〉を見渡す。
「で、どう対処するつもりだ? 私の力を使うとして、戦鎚で一匹ずつ倒していてはキリがない有り様だが」
ため息混じりの彼女の言葉に、俺は間髪入れずに答える。
「大丈夫だ」論拠はないと自覚しながら、「お前、言っただろ。俺の妄想力は強力だって」論拠にならない悪魔のセリフを。
テラコッタの瞳がにんまりと細められる。
「良いだろう」
ベルが手を握り返した。
俺は過去を振り返る。
平穏な日常に突如として終止符が打たれた日。空を流れた無数の火球と、文明が打ち砕かれる轟音。両親の、あるいは見知った顔ぶれの、それから名も知らぬ人々の死体と血の赤。
〈方舟〉にいた頃。救いを求めて天を仰ぐ人々の横顔と、それを踏み躙る天使の造形。肉を噛みちぎる〈罰の魚〉の牙の色と、『チビのベル』の最期の言葉。
「助けて」
抗いようのない破壊。守れなかったものの亡骸。そういうものを目の当たりにするたび、いつも、ずっと、考えていた。
もしもここにあれがあったら。俺にこの力があれば。あの時これをしていれば、今目の前にある死体は死体にならずに済んだだろうか。
いつもここには無力な自分がいて、叶えたかった理想を見ていた。
(俺の、目的……)
それは多分、神をも殺す『罪人』になること。
繋いだ手の中から透明な光が溢れ出す。ベルが「ほう」と呟いて手を離した。代わりとばかりに、手の中に何かの感触。俺はそれを掴む。
光が細長く纏まり、剣のような形を成す。俺がそれを持ち上げると、ベルが「ハハッ」と笑った。
「これは実に愉快。ここ数日の君の凡庸いい子ちゃんぶりには、契約したことを後悔させられたが……なかなかどうして、これは皮肉が効いていて実に私好みだ」
真っ直ぐ長い刀身と垂直の鍔。柄頭は丸みを帯びている。
「救世主の脇腹を刺した聖槍、そのかけらを宿す喜びの剣か。ハハッ、面白い。神に仇成す罪人が、今一度その死を——」
透明な光が弾け、俺の手に一振りの長剣が現れた。テラコッタの瞳がその刃の黒を映し、ベルは変なところで言葉を切る。
顔を顰め、少しの沈黙。
「……何だこれは」
彼女が困惑を言葉にすると同時に俺は瞬きを一つ。
「えっ……」
今度は俺が困惑する羽目になった。俺より少し年上の女の姿をしていたベルが、また七歳くらいの子供のそれに変わったから。
もちろん首には赤い首輪が付いていて、そこから伸びる紐の先は俺の首元へ続いている。
「何なんだッ! これはッ!」
ベルが地団駄を踏み、俺が持つ長剣をビシッと指差した。剣身は黒い両刃で、鍔と柄頭はくすんだ銀色。
「『何だ』って、何が?」
「私が知っているジュワユーズの刃はシルバーグレイで、こことここは金でここは白銀だ!」
子供らしい短い指が柄の辺りをビシビシ指し、
「このような厨二病丸出しの剣ではない!」
この世の終わりのような顔で頭を抱えた。
「何だ、『チュウニビョウ』って」
「君はそんなことも知らないのか!」
「何で俺がやらかしたみたいな感じになってんだよ。これで合ってるぞ」
「何が!?」
「俺が空想した最強の剣」
「やはり厨二病ではないか!」
ベルが「恥ずかしい……」と呟いて両手で顔を覆う。『チュウニビョウ』が指すものは不明だが、何となく俺を小馬鹿にする言葉であることは理解できた。
「クッソ……じゃあ見てろ」
俺は数多の〈罰の魚〉が泳ぐ景色を振り返る。腰を落とし、剣を横に構えた。




