第18話 もう一人の偽英雄
リヴァイアサンは十二歳くらいの少女の姿をしていて、肩の高さで揃えられたミモザ色の癖毛はいつもボサボサだ。マリンブルーの大きな瞳はいつも眠そうな半開きで、無表情で固定された相貌からその思考を窺い知ることは難しい。
夜の静けさの中、驚愕する俺を無視して彼女は話し続ける。
「הרמן עצוב כי איבד את עיר הולדתו. הוא אמר שהוא רוצה לפגוש אותי. אז אני הולך.」
モゴモゴと水中で喋っているような言葉の意味を、当然俺は理解できない。
「היא אומרת שהיא מוכנה להשתמש בנשמתה רק כדי להגיע אל הרמן.」
「おい、リヴァイアサン、ちょっと待て」
「לכן הוא לא יהווה נטל.」
「何言ってるのかわかんねぇって」
「אני חזקה. הרבה יותר ממך.」
昼寝のためにベッドへ向かう途中ような、お気に入りのブランケットが似合う眠たげな表情。そこから発せられるモゴモゴした声は寝言のように聞こえなくもないが、何となく、何かを必死に訴えかけているよう。
「אז בוא נלך כבר.」
リヴァイアサンには謎が多い。この声のこともそうだが、一番は彼女が消えないでいる理由だ。
培養槽の中で蘇生される悪魔は、人間との契約なしに培養液を出ると蜃気楼のように消えてしまう。この現象そのものもまあ謎ではあるが、誰とも契約していないはずの彼女は、なぜ培養槽を出ても消えなかったのか。
例えば、第七支部にいた誰かが秘密裏に彼女と契約を交わしていたとして。その『誰か』はあの場所で死体になって腐り朽ちる最中にあるわけで、〈契約者〉の死をもって契約が終了した彼女は消えるはず。
「とりあえず早く戻れ。今から行けば夜明けまでに着く」
「אני אומר שאני רוצה ללכת להארמן.」
「そもそもいつから着いてきて……ほら、早く」
「אני רוצה ללכת להארמן」
「何だよ。あそこにいたくない理由でも——」
「אני הולכת לפגוש את הרמן!」
リヴァイアサンが少しだけ語気を強めて言い、俺の脛を蹴り付けた。これで彼女に蹴られるのは二度目。なんでだ。
マリンブルーの瞳がジトっとこちらを睨め付ける。どうしたものかと考えていたら、ベルがケラケラと笑い出した。
「ギデオン、君は少女に蹴り付けられることに喜びを感じるタイプなのか?」
そしてこの、不名誉極まりない理不尽かつ文脈迷子の問い。こいつは俺をどんな奴だと思ってるんだ。
「何でそうなるんだよ」
「わざわざ蹴られるようなことを言っているからだ」
「?」
「主張を全て無視されて『帰れ』ばかり言われたら、脛の一つも蹴りたくなるだろう」
「主張って……お前、リヴァイアサンが言ってることがわかるのか?」
俺の問いに、ベルは何故か不思議そうに片眉を上げ、「君もなかなか凡庸な人間なんだな」と呆れたように言う。当然の如く、「見た目によらず」と付け足して、
「リヴァイアサンの契約相手はヤムと一緒にいるそうだ」
続いた解説に、俺は一瞬思考を止める。
「えっ、と……」
「〈偽英雄〉と契約したと聞いた時は何を考えているのかと思ったものだが、まさか君に同行してまで会いに行きたいと思う相手とはな」
テラコッタの瞳がリヴァイアサンを映す。ベルがどこか揶揄うような調子で「そんなにいい男なのか?」と尋ねると、リヴァイアサンは僅かに眉間を動かし、何故かまた俺の脛を蹴った。本当になんでだ。
「הפנים שלו רגילות. הגובה שלו בערך כמו שלי.」
「ほう。それで、君は何故そのハーマンとやらに会いたいんだ?」
「העיירה והמשפחה שלו נשרפו. הוא עצוב, זה ממש עצוב.」
「君は悪魔の癖に慈悲深いな」
「יאם אמר שהרגליים שלו מסריחות.」
「それは早いこと救ってやらねば」
ベルが「ククッ」と喉の奥で笑い、こちらに「そういうことだ」と言って歩き出す。
俺は夜の廃墟を進むベルの背中を眺め、傍らのリヴァイアサンに「行くぞ」と言って歩き出した。ベルの隣に並ぶ。
「『そういうこと』ってどういうことだよ」
「ヤムの足は臭いらしい」
「? 説明してくれ。俺はリヴァイアサンの言葉がわからない」
「ああ、そうだな。君はお行儀の良さと凡庸なところをどうにかせねばならない」
「……おい、ベル。だから説明」
ベルが横目にこちらを見やる。
「それは私に乞うているのか?」
悪戯っ子のような笑みに、俺は面倒ごとを察知した。気づいたところで何ができるわけでもないが。
「ならばそれらしく頼むのだな」
「……それらしくって、どうすりゃいいんだよ」
「生贄の一人や二人を用意し、私の前に跪いて首を垂れる」
「じゃあ知らないままでいい」
俺が言うと同時に、斜め後ろから蹴りが飛んできた。勿論、リヴァイアサンだ。こいつは蹴り以外のコミュニケーションを知らないのか。
「למה חתמת על חוזה כזה?」
リヴァイアサンがベルに何か言った。語尾のイントネーションを鑑みるに、何かを尋ねたのだろう。ベルは何かを考えるように視線をスイっと動かし、
「可愛らしいだろう?」
主語も何もない、よくわからないことを言うと夜空を仰ぎ、語り始めた。
リヴァイアサンの契約相手——ハーマンはリヴァイアサンと同じくらいの背格好の少年で、夢を渡る能力をもつ〈偽英雄〉らしい。その力の詳細は不明だが、文字通り、眠りの中で見る夢を渡り歩いて他人の夢に入る力のよう。
蘇生が完了して意識を得たリヴァイアサンは、ある日の眠りの中で彼と出会った。そして言葉を交わし、彼を知り、契約するに至った。
遠く離れた場所にいる人間を契約相手に選んだ理由について俺が尋ねると、リヴァイアサンはまた脛を蹴ってきて、ベルは心底呆れた様子でため息をついた。
「君にはデリカシーというものがないのか」
人間の倫理も感情も解さない悪魔に、デリカシー云々言われる筋合いはない。
「自分以外の〈偽英雄〉に会うのは初めてだ」
話していたら夜明けが近づいてきた。予定よりだいぶ工程に遅れが出ているが、ベルとリヴァイアサンを抱えて〈罰の魚〉が泳ぐ昼を強行突破するわけにもいかない。
「〈偽英雄〉の力って、戦闘系だけじゃないんだな」
周囲に隠れられそうな場所を探しながら言うと、隣と斜め後ろから盛大なため息が聞こえた。
「בורות」
ボソッと呟いたリヴァイアサンの言葉は聞き取れないが、何となくこちらを小馬鹿にしているよう。
「君はそんなことも知らないのか」
隣を歩くベルの言葉はわかる。その意味も表情も言い方も、完全に俺を小馬鹿にしている。
「かつて地上に数多存在した神のようなものと人間の間に生まれた存在、それが〈偽英雄〉だ。多様な親から生まれた子が多様であるのは当然のことだろう」
「言われてみれば、確かに」
「君は見た目通り思考が浅いな」
ベルが口の端で笑う。俺が「お前の目に俺はどう映ってるんだよ」とツッコミを入れると、彼女はふと笑みを消した。
「…………」
何かを確かめるように俺を見つめてから、ふいっと視線を前へ戻し、
「愚かな男だ」
彼女にしては珍しい、嘲笑も侮蔑も高慢もない、平坦で淡々とした声。
「くだらない、瑣末で、見窄らしい人間」
そう言ったきり黙り込んでしまった彼女の目にはきっと、俺ではない誰かの姿が映っていた。




