第17話 西へ
バックパックに携行食と水のボトルを詰められるだけ詰め、隙間に電磁手榴弾と小型通信機と救急パックを捩じ込む。どうにかチャックを閉めて、横に予備の旧式ライフルを括り付ければ荷物の完成だ。
装備はいつものジャービル型九七式アサルトライフル一丁と、腰の左右にピストル二丁、太腿に多用途ナイフ。
昔の兵士はここに銃の予備弾倉をいくつも持たなければならなかったことを考えると、第五精髄を発見してアイテール電磁鉱という無限に近い汎用エネルギー体を開発したジャービル博士への賞賛を禁じ得ない。
「やけに荷物が多いな」
支度を終えた俺を見て、ベルが不思議そうに呟いた。
「何人生きてて、どういう状況かわからないからな。水と食料は持って行けるだけ持ってった方がいい」
「その悪魔学者とやらと行動を共にしている人間は十人だったか」
「ああ」
「装備は? そんなにあれこれつけていては、戦う時に邪魔だろう」
「これくらいで動きが鈍くなったりしない」
「いいや、私を抱える隙間がないという意味だ」
「? 普通に、こう持てばいいだろ」
「それでは君に私の乳が当たらんではないか」
ベルが当然の主張の如く言い放ち、タクティカルグローブをつけようとしていた俺は当然それを落とした。
「……だったら、何だよ」
考えなしに問いを発して、それが悪手だったと気づいたのはベルのニヤケ顔を見てから。俺は彼女の主張を無視して会話を終わらせるべきだった。
「君は私の乳の感触が好きだろう?」
「何だよ。またお前の妄想の中の俺の話か?」
「事実だ。以前、私が抱きついてやった時、あんなに喜んでいたではないか」
「『抱きついてやった』じゃなくて、お前が戦闘の『お荷物』になった時な」
俺が皮肉混じりに言うと、ベルは「なっ!」と一瞬絶句して、
「耳の先まで真っ赤になっていて、実に初で可愛らしい反応をしていたなぁ」悠然とした風を装って言い、「その見た目で」と付け足す。——こいつはいちいち俺の外見に言及しないと気が済まないのか。
「お前の見間違いだ」
俺はバックパックを背負って部屋を出ようとしたが、
「ギデオン、君は自らの欲望を自覚するべきだ」
ベルが腕に抱きついてきた。俺は構わず歩き出す。自覚も何も、彼女が想定しているような欲望はそもそも存在しない。
「人間の魂が最も輝く時を知っているか?」
また魂の話。
「人間は目標に至るまでの過程だの、願いが叶う瞬間だの、その後の幸福の日々ばかりに価値を見るがな、魂が欲しているのはそこではない」
静まり返った廊下に二人分の足音が響く。
「魂が最も輝くのは、願いが叶う直前だ。長く求め続けたものがようやく手に入る。その確信をもって手を伸ばした瞬間の魂が最も美しい」
「それとお前の乳の話とどう繋がるんだよ」
「私と契約した瞬間の君の魂は実に美味だった。しかし、だ。最上級とは言い難い」
ベルが何故か俺の胸元を人差し指の先でぐりぐり撫でてくる。軽く払いのけると、彼女は体を離し、
「君はお行儀がいい」
テラコッタの瞳に、廊下を照らす青白い光が反射する。
「君は正しくあるためにそうしているのだろう。しかしな、ギデオン。お行儀の良さが美徳とされたのは過去の話だ。文明の崩壊と共に旧来の価値基準は失われた」
「……正しいことは、いつの時代も正しいもんだろ」
「違う」
「?」
「思い出してみろ」そう言って片方の口角を上げる彼女の表情は、実に悪魔らしい。「君のお行儀の良さを讃える者がこの九年で一人でもいたか?」
これは悪魔の囁きか。それとも、変わり果てた古い神の啓示か。
「安寧の中に語られた生ぬるい正義など、今は何の役にも立たない。考えてもみろ。英雄とは最も多くの敵を打ち倒した者のこと。つまり、大量殺戮者の称号だ」
広く平和が行き届いている世界において、非暴力への讃歌は美しい正義の音色だ。しかし、英雄を必要とする世界では、非現実的な夢想家の妄言に翻る。
ベルはそのことを言いたいのだろう。
「……やっぱり、お前の乳は関係ないな」
俺は軽口に偽装した逃げ口上を吐いて歩調を早めた。彼女の言説に否定の余地はなく、むしろ同意だが、同意したくなくて。
それを察したのか、それともただの気まぐれか、ベルは基地の出口に着くまで何も言わなかった。
* * *
重い金属ドアを開けたところで、背後から「あ、あの」と声が掛かった。サラが両手を揉みながら所在なげに立っている。
「どうした?」
尋ねると、「ええっと……」と言いながら視線を斜め上に彷徨わせた。まるで俺が困らせているような状況だ。知らないうちに何かしたのかと考えていたら、
「き、気をつけて……」
サラが消え入りそうな声で言った。俺は自分が何を言うべきか考え、ふと頬に視線を感じて隣を見て、ニヤニヤしながらこちらを見るベルに嘆息し、
「その……何かあったら俺がベルの力で帰ってくるってやつ……上手くできる確証はないから、もしもダメだった時は、頼む」
言うと、サラは一瞬ポカンとした顔をして、それから「私に、できると思うの?」と尋ねた。
「アスモデウスが『優しい』って言うのはね、私には他者を傷つける想像ができないって意味なの。私の想像の中で、戦いの中の自分はいつも怪我人の救護ばかりしてるわ」
そういえば、〈契約者〉になる前の彼女は、管理部の医療班に属していた。
「あなたのように戦う自分を想像できない。強い攻撃の形も、それで天使を殺すビジョンも……自分にそんなことは出来っこないって思って、そんなことを思ってるからできないんだってわかってても、でも、自分を信じられない」
〈契約者〉となった人間は、魂をすり減らしていつか死ぬ運命にある。だから戦闘能力が高い人間は選ばれず、役立たずが選ばれる。せめてその魂をもって戦え、と。
その判断に適材適所の概念はない。
「でも、アスモデウスはお前との契約に応じた」
俺は悪魔当人がこの場にいないから言える気休めを吐く。
「悪魔は想像力の高い人間の魂を好む。だからお前には、悪魔が認めるほどの何かがあるはずだ。でなきゃ、そもそも契約できない」
サラはこれをただの気休めと取ったか、それとも俺の本意と受け取っただろうか。困ったように微笑んで「そうかもね」と言った彼女から、答えを察することはできなかった。
それから第五支部を後にして、西へ向かって夜を歩くこと七時間と少し。そろそろ日中の隠れ家を探そうかと廃墟の景色に足を止めたところで、
「יאם נמצא עם הרמן」
いつからそこにいたのか。リヴァイアサンが当たり前のような顔で俺の上着の裾を引いた。




