第12話 壊れた世界の歩き方 -3
ギデオン・ロスが私の培養槽を初めて訪れた時。彼は自らの事情を語るでも、こちらの状況を尋ねるでもなく、
『俺と契約しろ』
開口一番にこう言い放った。私がその言動に欲に塗れた簒奪者を思ったのは、ボサボサの錆色の髪の隙間から覗く同色の瞳がギラギラ輝いていたからだろう。
それと、彼から漂う〈英雄〉の残滓が、彼奴を思い出させたということもある。
あれは愚かな男だった。
欺瞞と策略の中に生み落とされ、身に余る力を与えられた。内に狂気を飼いながら正しくあろうと生き続け、ある時は自らが就くはずだった玉座に傅き、最期は炎に身を投げて死んだ。
くだらない。彼奴もギデオンも、視界に入れるにも値しない瑣末な存在だ。〈英雄〉とは誰かにとっての何者かの呼称であり、物語の途中時点の仮の名だ。
存在自体が苛立たしい。しかしどうして、ギデオンは私を簒奪せんとあの場所に足を運び続け、
(……欲が出た)
神の怒りに蹂躙された地上で、人間たちは何もかもを失い、死んでいないから生きている。その一人である彼は持たざる者でありながら自らに差し出せるものを健気に並べ、懇願した。
その見窄らしい姿に、私は遠い昔の記憶を思った。まだ、この地上に私の祭壇があった頃のこと。
そこで私は、自らが欲を律していたことにようやく気づいた。あり得ない話だ。あるべきではない話だ。
今の私は『蝿の王』《ベルゼブブ》。悪魔の王に次いで罪深い、悪魔の中の悪魔なのだから。
* * *
そこかしこに魚の影が張り付く廃墟の景色をしばらく歩いて、夜明け前。ギデオンが「お前はここで待ってろ」と言って半壊した家屋を指した。
「何故だ?」
私は特に何も考えず尋ね、
「俺は魚狩りに慣れてるが、流石にお前を守りながら戦うのは難しい」
返ってきた言葉にカッと頭に血が昇る感覚を覚えた。(悪魔に血流などないが)
「私を守る、だと……? その辺の虫ケラと大差ない脆弱な人間である君が?」
ギデオンが錆色の目をグッと細めて「虫ケラ?」と独りごちる間にも、存在しない血が昇り続ける。これは怒りだ。
「不敬だ!」
私は思考をそのまま怒声に乗せる。その思考の片隅で、自らのおかしさを自覚しながら。
彼と契約してから、どうにも感情のコントロールが上手くいかない。子供のように騒ぎ立ててしまう。私は美しく崇高なものでありたいのに。
契約が原因だろうか。俗物的な彼に引っ張られてしまっている、とか。
「君が私を守るなど千年早い!」
私はギデオンの顔をビシッと指差した。本当はこのようなことをするつもりはないし、自らの言動を幼いと思いつつ、しかし何故か止められない。
全て彼のせいということにしておこう。
「千年って、お前……」
ギデオンがため息をついた。ただのため息ではない。まるで駄々を捏ねる子供を見ているような呆れ顔で、だ。おのれギデオンの分際で。
「悪魔単体の力は見た目相応だろ。お前はその手で〈罰の魚〉と戦えない」
「足手纏いのように言うな。私は他の有象無象とは違う。炎が使える!」
「でも、運動能力は見た目レベルだろ? 囲まれたらどうするんだ」
「君が私の力を使えばいいだろう!」
「だから、お前の力はここぞって時に——」
「それもこれも、君が契約を行使しないのが悪い!」
「いや……というか、お前、何でついて来たんだよ」
「戦うとなれば私の力が必要だと思ったからに決まっているだろう!」
「たかが魚狩りに使わないって」
「だったらそれを先に言え! 君がそれを隠していたせいで、私は無駄に君と歩く羽目になったんだ! それなのに『守る』とは何様のつもりだ!」
「言ってること無茶苦茶過ぎ——」
呆れ顔で話していたギデオンがフッと表情を引き締めた。瞬間、私の体はふわりと浮く。
実際は彼に担ぎ上げられた形だ。戦闘用ブーツが強く地面を踏みつける音がして、視界が一気に上昇する。
跳躍——次の瞬間、向こうの地平線に透明な陽光が差した。
朝だ。
「チッ!」
直近に彼の舌打ちを聞く。私は何故か胸の奥がギュッと締まるような心地がした。——罪悪感? 私が駄々を捏ねたから備え無しに朝を迎えることに——いや、そんなはずはない。
ギデオンが肩に掛けていたライフルを片手で外し、ガチャっと音を立ててグリップを握った。撃つにしても、先の銃剣を振るにしても、片手で扱うのは至難の業だろう。
跳躍が降下に転じる。下方に広がる廃墟の景色に、鉛色の魚が泳ぎ出す。私は彼の首に両腕を回してしがみつき、両脚で彼の腹部を挟んだ。
「これでいいだろう。手を離して構わんぞ」
言うと同時に着地。その振動でずり落ちそうになった私は慌てて両腕に力を込めた。再び跳躍。
錆色の瞳が眼下の〈罰の魚〉を見下ろし、それから呆れた様子でこちらを向いた。
「『これでいいだろう』って、お前……」
「何だ。何か問題でもあるのか?」
「子供の姿ならともかく、今のお前は——」
「重いとでも言う気か! 全く君は見た目通りデリカシーのかけらも——」
ギデオンがハッとした顔で斜め下を向き、私の言葉を連続する銃声が遮った。バラバラと金属片が舞い散る音。こちらに向かっていた〈罰の魚〉が落ちていく。
再び着地、からの跳躍。どうやらギデオンは〈罰の魚〉が少ない方へ向かっているらしい。私たちを無数の魚影が追ってくる。
「……振り落とされんなよ」
ギデオンはどこか不服げに、何かを諦めた様子で言うと、私の背中越しに両手でライフルを握った。
「言われるまでもない」
私が答えると同時に着地。彼はその勢いのまま踵を返した。〈罰の魚〉の群れへ一直線。
ふとこちらを一瞥し、
「今のお前、絶対尻丸出しだぞ」
これ以上ない不敬かつ不必要なことを呟き、ライフルを前へ構えた。銃声の連打。銃口から黄緑色の光の球が飛び出し、次々に〈罰の魚〉が砕けて落ちる。
群れが散り散りになった向こうから、一際大きな個体が現れた。体長はギデオンの背丈の二倍ほど。彼は速力を緩めず向かい、接敵と同時に銃剣を勢いよく横に薙いだ。
淡い黄緑色の光を纏う刃が〈罰の魚〉の頭を横真っ二つにする。頭部から落ちゆくその胴体がバラバラと砕けていくのを横目に、ギデオンが大きく跳躍して倒れたビルの上に立つ。
眼下には小型の〈罰の魚〉が無数に集まる巨大な塊。彼がそれに銃口を向けると同時に、私は後ろから近づく大型の魚影に気づいた。
(やはり『ギデオンの分際』だな)
私はそちらへ右手を翳し、勢いよく炎を打ちつけた。ギデオンの肩がビクッと跳ね、錆色の瞳がこちらを向く。
「なっ!? ……」
それから背後を向き、
「あー……」
溶けた〈罰の魚〉がビルの壁に張り付く様を目の当たりにして、実に彼の見てくれに相応しい馬鹿丸出しの声を漏らした。
それからハッとした顔をして群れの方へ視線を戻すが、彼がライフルの照準を定めるより私が右手を翳す方が早い。
炎の濁流が〈罰の魚〉の群れを押し流し、地面にぶち当たり、沈黙する。
「さて、ギデオン。先ほどの『戦えない』を撤回してもらおうか?」
私が手を引っ込めて言うと、彼はよろよろと視線を動かした後、「あ、ああ」とだけ答えた。
* * *
夜が来て、〈罰の魚〉が影になって沈黙した。ギデオンが瓦礫の上から飛び降りる。
「私が炎を出せるのは右手のみで、出力には制限があるからな」
私は彼の首にしがみついたまま語り始めた。
「単独で〈罰の魚〉の大群を相手取るには些か火力不足と言える。本当に些か。僅か。ほんの少しだが、これについては認めよう」
「…………」
「しかし戦えないわけではない。実際、私は何度も君が気づかなかった魚を退けた」
「…………」
「故に足手纏い扱いは不当なものだ。以後、気をつけるように」
「…………」
「……ギデオン、聞いているのか」
何故か彼は外方を向いていて、私の側からは耳の裏と顔の後ろの方しか見えない。「ギデオン」と再度呼びかけると、ようやく「ああ」と彼は答え、
「とりあえず、早く降りてくれ」
そう言う彼のボソボソした口調と耳がやや赤くなっていることを認め、美しく聡明な私は気づいた。なるほど、と。腕に力を入れて体を擦り寄せてみる。
「おい、降りろって」
ギデオンの耳が赤みを増した。
「なるほどなぁ」
耳元で囁いてやると、逞しい肩がビクッと跳ねる。彼の弱点が耳であることは、彼と契約した数時間後に判明したことだ。
「君は紳士のフリをしていたということか」
私の鋭い洞察に、彼はうんざりするほどの沈黙を置いてから、深く長く万里を越えるようなため息を返した。
おのれギデオンの分際で。




