第11話 壊れた世界の歩き方 -2
日の出予定時刻は午前五時五十九分。現在時刻は午前五時七分。
かつての市街地を通りかかったところで、幹部の男が「ここで寝床を探す」と言い出した。
周囲に広がるのはポッキリと折れてしまった高層ビルの羅列、潰れた商業施設、ひしゃげた信号機、打ち捨てられた車やバイク、エトセトラ。
〈終末審判〉で『正しい者』が楽園の島へ誘われた後、地上には無数の火球が降り注ぎ、ビルも民家も畑も農場も破壊された。
その時地上に放たれた天使の総数・およそ三百。『罪人』たちは戦争に備えて作った軍備を総動員して戦ったが、天使を百体ほど撃破したところで何もかもが底をついた。
文明は打ち砕かれ、国は崩壊し、散り散りになった人々は昼に怯えて暗がりの中を生きている。
幹部の男が今日の寝床と定めたのは、潰れた商業施設の地下階。元は食料品売り場だったらしい空間には、空っぽの棚が並んでいる。
俺は彼らが落ち着いたタイミングで、ジャービル型九七式アサルトライフルを肩にかけて外に出た。静まり返った夜を歩き出す。
「その棒で戦うのか?」
隣を歩くベルが黒い銃身を指差して尋ねた。
「ああ」
「あのようなガラクタ共、私の力を使えば一撃で一掃できる」
「そんなことしたら囮にならないし、天使が出て来ちまうだろ。それに、魂の量には限りがある。だからお前の力はここぞって時だけ使う」
テラコッタの瞳が疑問符に揺れる。
「そういえば、君の目的を聞いていなかったな」
「目的?」
「悪魔と契約して力を得て、文字通りの『英雄』の機能を有する。その後は?」
「決まってんだろ。天使を殺すんだ」
断言する俺に、ベルは「その後は?」と問いを重ねる。その視線に、悪魔特有の人間を小馬鹿にするような色はない。
ただ尋ねている。何かを見定めるように。
「天使を、殺して……殺し尽くす。それで地上を、俺たちの世界を取り戻す」
真っ直ぐにこちらを見つめるテラコッタの色彩に、俺は胸の裏側を暴かれるような心地を覚える。そしてまた、「その後は?」と。
『蝿の王』は、かつて『気高き主』の名を冠する神だったとも、天界最高位の熾天使だったとも言われている。〈反抗者〉本部が血眼になって探している悪魔の王・サタン(あるいはルシファー)のかつての側近だったとも。
それ故か。彼女はこれまで俺が見てきた悪魔と少し違う気がする。何がどう違うかと聞かれたら答えられないけれど。
「『その後』なんかない」
今、地上のそこかしこに眠っている悪魔の化石は、古代戦争で神に打ち砕かれた当時の悪魔の残骸だ。その時点で彼女はすでに『蝿の王』だった。
では、その前、彼女は一体どこから来たのか。もしも神だったとして、あるいは天使だったとして、悪魔になったのは何故か。
古代戦争前の記憶は彼らの頭の中だけにある。人類はその断片さえ知らない。これについて俺は気にならないと言えば嘘になるが、彼女が『蝿の王』の名を嫌っているなら、あえて尋ねることもないだろう。
「〈反抗者〉本部の試算では、今地上を徘徊してる天使はざっと百五十体ってとこだ」
今ここにいるのは『ベル』だし、俺が関わるのは『ベル』だけだから、他のことを考えたところで意味はない。
「その数を俺の魂で使えるだけの力で倒すのは、現実的に考えてどう足掻いても無理だ。だから、まあ……『殺し尽くす』と言ったが、それは気概の話で、実際に叶えられるわけじゃない」
俺が「だから『その後』はない」と続けると、ベルは何かを考えるように視線を動かし、それからふいっと前へ向き直った。
「何だ、つまらん男だな」
どこか不服そうな横顔。肌寒い夜風が吹いて、白緑の長い髪がそよそよと揺れる。
「古来、君ら人間は、悪魔を邪悪で強大な力を有するものと信じてきた。その契約は大きな代償と引き換えに、夢物語のような願いさえ叶えるものだと」
そのイメージの中の悪魔の声は悪をドロドロに煮詰めたような濁声だが、彼女のそれは春先の俄雨のように淡く澄んでいる。
「そして君は、この世全ての叡智が記されたこの世唯一の書物で排泄後の尻を拭きそうな見てくれをしている」
「おい、何だ急に。喧嘩売ってんのか」
「いいや、褒めている」
「今の発言のどこが?」
「悪魔が人間との契約に応じるのは、その身に余る力を手に入れた人間が栄光と没落の間を右往左往するのを見るのが楽しいからだ」
俺が「『自分は性格が悪い』宣言か?」と尋ねると、ベルは横目にこちらを一瞥し、
「君が私との契約を望んだのは、非現実的な願いを叶えるためだと思った」
どこか呆れた様子で肩を落とし、「実現性度外視の、馬鹿丸出しの、な」と付け加えた。
例えば、彼女がかつてバアル・ゼブルだったとして。
バアルは嵐と慈雨を司る豊穣の神だ。人々はその恵みと威光を讃え、収穫を祭壇に供えた。人々からの信仰と、神による奇跡の成就。それらは常に共にあり、豊穣神は供物に見合う施しを与えた。
契約の朝、彼女は言った。
『施しを与えるのは我らの側だ。君たち無力な人間は、それらしく首を垂れていろ』
これは悪魔の囁きととるか古い神の威光ととるかで、だいぶ意味が変わってくる。
「お前は天使を皆殺しにしたいのか?」
尋ねると、ベルは「私ではない」と顔を顰め、
「君がどうしたいか、だ。悪魔は契約相手の空想を具現化する。自らは能力の対象外だ」
「力云々は別にして、お前の意思はどうなんだ?」
「そんなもの、皆殺しにしたいに決まっているだろう。あれは私たちにとっての宿敵で、外敵で、侵略者だ」
「じゃあ、俺がそれを目指したとして、お前にそれを叶えられるのか?」
「君の想像力次第だな」
一般的に、悪魔は想像力が豊かな人間の魂を好む。ちんけな空想の実現に力を使いたがらない辺り、ある種のプライドがあるのだろう。
現在時刻は五時四十一分。ベルは僅かに白み出した東の空を望むと、「ああ、そうだ」とこちらを向き、
「言い忘れていたが、私クラスの悪魔となると、死して拡散しかけた魂を掻き集めての使用が可能だ」
よくわからないことを言い出した。
「……どういうことだ?」
「契約の繋がりを通さず、尚且つ君以外の魂も燃料として使用可能だということだ」
俺は『繋がり』の言葉にふと思う。もしかして彼女の力を使った時に現れた首輪と紐は、契約の概念——いや、待て、今考えるのはそこではなく、
「つまり、君が私への供物として人間を殺して捧げれば、君は自らの魂がすり減るのを気にせず、いくらでも私の力を使えるということだ」
これを得意げに言って「どうだ、耳寄りの情報だろう?」とイタズラっ子のような笑みを浮かべる彼女が、もしもかつて神だったとして——今は紛うことなき立派な悪魔だ。
「……言っとくが、人間の生贄なんてやらないからな」
「? では私も言っておくが、悪魔が力の代償として使えるのは人間の魂だけだぞ」
「知ってる」
「ではなぜ、生贄はやらないなどと?」
「人倫に悖るからだ」
俺の返答に、ベルは「またそれか」と言ってまた前を向いた。俺は彼女の横顔を見ながら思考する。
今、楽園の島にいる神とは別。遠い昔に地上のあちこちにいたという神々には、生贄の鮮血を求める神もあったとか。
彼女はかつてそういう存在だったのだろうか。誰かが誰かを殺して捧げ、それを受け取り、奇跡を成した。そして、そのサイクルが人倫に悖るものとなった過去のどこかで、彼女は『悪』に転じた、とか。
(こんなこと考えても無駄か)
俺は内心で独りごち、〈罰の魚〉を迎え討つに適した場所を探して周囲を一望する。今更何を考えたところで全ては過去で、そもそも彼女が神だったという仮定自体が、論理を重ねるには信憑性に欠ける。




