# 第9話 銀色の、爪
# 第9話 銀色の、爪
紅茶の、二杯目。
朝食の間の、長い、長い、窓辺の卓。
ヴォルフラムが、もう一度、不器用に、ティーポットを、傾けて——
セレスティアのカップを、今度は、完璧に、満たした。
「——ありがとう、ございます」
「——どうぞ」
ふたりの会話は、まだ、どこか、ぎこちなかった。
セレスティアは、紅茶を、そっと、啜った。
紅茶のカップの縁から——
ふと、目を、上げる。
そこで、ヴォルフラムが——まっすぐに、彼女を、見つめていた、ことに、気づいた。
ふたりの視線が、絡む。
どちらも、すぐには、逸らせなかった。
セレスティアの頬が、すっ、と、赤く、染まる。
ヴォルフラムも——気まずそうに、わずかに、目を、伏せた。
千年。
千年、彼は、誰かと、目を、合わせる、ということを——知らずに、来た。
「あの——」
ヴォルフラムが、わずかに、咳払いを、して、続けた。
「——お時間が、許せば——これから、城の中を、ご案内、してよろしいでしょうか」
「もちろん、です」
セレスティアは、目元だけで、微笑んだ。
***
ヴォルフラムが、椅子から、立ち上がろうと——杖を、手に、取った。
しかし、その足元が、わずかに、よろめいた。
セレスティアの身体が、考える前に、動いた。
細い、彼女の手が、すっと——ヴォルフラムの腕に、添えられて、いた。
ふたりの手が、二度目の、接触。
ヴォルフラムが、わずかに、息を、呑んだ。
「——失礼。まだ——足元が、思うように」
「——いいえ。どうか、お気遣い、なく」
セレスティアの頬は——温かかった。
***
ヴォルフラムが、まず、彼女を案内したのは——城の図書館、だった。
巨大な、何階層にも、わたる、本の壁。
高い、高い、アーチ型の天井。
ガラスの天窓から、降り注ぐ、朝の白い光。
無数の——背表紙、背表紙、背表紙。
セレスティアは——息を、呑んだ。
「——素敵」
「どれも、——初めて見る、本ばかり、です」
ヴォルフラムは、ふと、遠い目を、して——呟いた。
「——ここは。私の、逃げ場——で、ござりました」
「千年——ここで、本を読むことしか、できなかった」
セレスティアは、彼の横顔を、見上げた。
夜空の瞳には——過ぎ去った千年の、静かな、諦念、が、沈んで、いた。
「お気に召された本があれば——いつでも、お読み、ください」
「ここは——貴女様の、お場所、でも、ござります」
セレスティアの胸に、温かい何かが——じわり、と、広がった。
***
次に、案内されたのは——城の中庭の、薔薇園、だった。
まだ蕾の、固い、白薔薇の、畝。
セレスティアの表情が、ぱあっ、と、和らいだ。
「——綺麗」
「ファルネーゼでも、——私、こっそり——白薔薇を、育てて、おりました」
「あら、——わたくし、お姉様の薔薇園、ぜんぶ、抜いて、肥料に、させたわよ?」
心の中で、遠い、遠い、異母妹の声が、蘇りかけて——セレスティアは、それを、そっと、呑み込んだ。
いま、彼女の前にあるのは——
肥料に、されたりしない、白薔薇の畝、だった。
***
ヴォルフラムが、そっと、彼女の隣に、立った。
二人ぶんの影が、薔薇園の白い砂利のうえに、落ちる。
その、ヴォルフラムの影が——
ほんの、一瞬だけ——
人の輪郭、ではなく——獣の輪郭、に——揺らいだ。
すぐに、人の影に、戻った。
ほんの、まばたき、ひとつ、分、の、揺らぎ。
セレスティアは——それを、見て、い、なかった。
白薔薇の蕾を、見つめて、いたから。
けれど——
ヴォルフラム、本人は——気づいた。
彼の表情が、すっ、と、曇った。
——まだ。
——まだ、終わって、いない。
——これは、半分しか、解けて、いない、呪い、の——残滓。
***
案内の途中——長い、磨かれた回廊に、戻った、その時、だった。
パアン——!
乾いた、破砕の音が、回廊を、貫いた。
曲がり角の、向こうから——
若い侍女の、短い、悲鳴。
重い銀のティーセットを、つまずいて——床に、落として、割ってしまった、らしい。
その、瞬間。
***
ヴォルフラムの、右手、が——
一瞬で——
銀色の、湾曲した、獣の爪——に、変じた。
左手が、握りしめていた杖を——ぐしゃり、と、圧し、折った。
ヴォルフラムの、——顔、から。
血の気、が——引いた。
「——下がれ——!!」
地の底からのような、叫び、だった。
「危ない——! セレスティア、——離れろ——!」
声に、滲んでいたのは——
怒り、でも、なかった。
威嚇、でも、なかった。
絶望的な、自己不信、だった。
***
——今の自分には——彼女を、傷つけない保証が、どこにもない。
昨夜、あれほど、優しく、自分を救ってくれた、彼女を——
自分のこの手が、引き裂いてしまうかもしれない。
その、絶望的な恐怖——
彼の夜空の瞳の、奥のほうに、どす黒く——滲んで、いた。
「下がれ——! お願いだ、——セレスティア——!!」
皇帝の、杖、が、折れている、手で——
衝動的に、彼は——自分の身を、彼女から、引きはがそうと、した。
***
しかし。
——セレスティアは。
下がらなかった。
それどころか——
すっ、と。
彼に、近づいた。
細い、寝衣、では、もう、ない、白銀のドレスのままの、彼女が——
銀の獣の爪の、ままの、彼の、右手を——
自分の、細い、両手で——そっと、包み込んだ。
***
ヴォルフラムが、息を、呑んだ。
「——お痛い、ですよね」
セレスティアの声は、静かだった。
「また——ご自分のことを、お傷つけに、なって、いらっしゃるのでしょう」
彼女の指、か、ら——
本人だけが、知らない、淡い、乳白色の光、が——
彼の手のなかに、静かに、流れ込んで、いった。
派手な光では、なかった。
ただ——触れた場所から、すっと、熱が、引いていく、そんな、静かな、静かな鎮静、だった。
銀色の獣の爪が——
すう、と——
人の、形の、い、い、長い指、に——戻って、いく。
***
ヴォルフラムは——呆然と、彼女を、見つめていた。
そして、信じられない、という顔で——絞り出すように、呟いた。
「——貴女様、は」
「——私が、怖くないのですか」
***
セレスティアは——静かに、首を、横に、振った。
そして、答えた。
「——あなたが、怖い、のではなく」
「——あなたが、また、ご自分のことを、傷つけて、しまわれるのが——怖い、の、です」
***
一言、一句、違わなかった。
雪の森で——血まみれの、銀の獣の頭を、撫でながら、呟いた、あの、台詞、と。
相手が、狼であろうと、皇帝であろうと——
彼女が、見ているもの、は——変わら、なかった。
ただ、痛みに、震えている、ひとつの、魂。
それだけ、だった。
千年。
皇帝ヴォルフラム・ヴァルガルドが——ただの、一度も、受け取ることの、できなかった、救い、そのもの、だった。
***
ヴォルフラムは——長く、沈黙、した。
廊下の遠くで、侍女たちが、無言で——割れた銀の食器を、片付け始めた、音、だけ、が、響いている。
やがて、ヴォルフラムは、——低く、告げた。
「——お話しが、ございます」
「——静かな場所で、聞いて、いただけ、ますか」
***
彼に促されて、ふたりは、別棟の、誰もいない、静かな窓辺に、移った。
窓の外には、雪のあとの、清らかな白い庭が、広がって、いた。
ヴォルフラムは、彼女に背を向けて、窓の外を、見つめながら、告げた。
「——貴女様には、お伝えして、おかねば、ならぬ、ことが、ござります」
彼の、背中、が——わずかに、張りつめていることが、セレスティアにも、わかった。
「私の——呪いは」
「——半分しか、解けて、い、ない、の、です」
***
セレスティアの息が、止まった。
ヴォルフラムは、振り向かないまま、続けた。
「老侍医長が——あの夜、発見、致しました」
「呪いの、核心の魔法陣——その、半分が、物理的に、消えていた、と」
「これは、——貴女様の、お力、では、ないか、と——」
「——でも」
セレスティアは、思わず、呟いた。
「——私には、魔力など、無いはず、なのに——」
ヴォルフラムは、寂しく、微笑んだ。
「ご自覚は——なくて、構いません」
「ただ、お伝え、したかったのは——ここから、の、ことに、ござります」
「——次の血の満月は。あと、二十数日後、に、迫って、おります」
「そのとき——私は、また、完全な、銀の獣に、戻ります」
***
ヴォルフラムは——そこで、ようやく、振り向いた。
夜空の瞳は——どす黒く、沈んで、いた。
「——完全に、解呪する、方法、は」
「——わかって、おります」
「けれども——それを、私が、貴女様に、お話し、すれば」
「——貴女様を、危険な、代償に、お巻き込み、することに——な、り、ま、す」
「ですから、私は——お話し、致しません」
「——次の血の満月の、夜は」
「私は——城の最奥、地下の——鎖、に、繋がれて、過ごします」
「貴女様は——どうか、お部屋から、決して、お出にならないで、ください」
***
セレスティアの胸が——ずきり、と、痛んだ。
嬉しかった、わけ、では、ない。
彼の、誠実さ、を、疑った、わけ、でも、ない。
ただ——
ぽつり、と、心の、奥のほうで——細い、細い、小さな、寂しさ、の、芽、が、顔を、出した。
——私には、お話し、されない、の、です、ね。
——私に、できることが、あるのかも、しれないのに——
彼女は——それを、口には、出さなかった。
ただ、目を、伏せて——静かに、頷いた。
「——お、わかりに、なって、おります」
その、短い返事の、細い、細い、震えを——
ヴォルフラムは——気づいて、いた。
しかし、——それでも。
彼は、彼女を、護るために——敢えて、寂しい思いを、させる、道を、選んだ。
***
——同じ朝。
遠い、遠い、西の地——
ファルネーゼ王国、王宮。
ベアトリス王妃の、葬儀の片付けが、まだ、続いている、寒々しい、大広間。
喪服の、アンジェリカが——
血色の悪い、王太子ライナルト、に、詰め寄って、いた。
「——ライナルト様!」
「お姉様を——お姉様を、連れ戻して、くださいませ!」
その目には——姉を、愛するような、光は、微塵も、なかった。
あったのは——追い詰められた者の、乾いた、焦り、だけ。
「あの女の聖女の力——あ、れ、さ、え、あ、れ、ば!」
「お母様の呪いが、わたくしどもに、戻ってきている、ことが——わ、か、る、の、おわかり?」
「お母様の死、侍女頭の急死、王宮の薔薇園が、全部、枯れ、始めて、い、る、の、よ!」
「あの女の、聖女の力で——わたくしの王国を、わたくしの未来を、わたくしの、聖女の地位を——護らせなければ、な、り、ま、せ、ん、の!」
***
ライナルトは——冷ややかに、笑った。
「使者なら——もう、出した」
「偵察隊、として、な」
「身代わりの王女が、本当に、死んだのか、どうかを——確認しに、国境を、越えさせる」
「もし——まだ、生きていれば——それは、それで、興味深い、報告に、なるだろう」
アンジェリカの目が——ぎらり、と、光った。
「——生きているに、決まって、い、る、わ」
「あの女が、そう、簡単に、死ぬわけ、ない」
「だって——わたくしから、聖女の名誉を、奪うために——あの女は、生まれてきた、の、ですもの」
***
ライナルトが、ふと、声を、低めた。
「アンジェリカ——お前」
「——最近、何か、聞こえるか」
「お母様の——お、声、が」
アンジェリカの、喪服の指、が——わずかに、震えた。
不安げに、ゆっくりと、頷いた。
「——時々」
「——お母様の、うわごとが、耳の、奥で——聞こえます」
「——なぜ、あの娘は、まだ、生きているのよ、と」
「——繰り返し、繰り返し」
「眠っていても——耳の奥で——お母様の、声、が、止まらない、の、です」
***
ライナルトの、頬、が——すっ、と、青ざめた。
「——俺、もだ」
「——夜、寝台に、入る、たびに——あの女の、声が、聞こえる」
「『なぜ、あの娘は、まだ、生きているのよ』、と——繰り返している、気がして、な、ら、な、い」
***
二人は——
長い、長い、沈黙の、あと。
どちらからとも、なく——互いに、背を、向けた。
誰も、二人を、抱きしめる者は——もう、い、なかった。
毒親の死後も——
毒は、残された子供たちの、精神を——侵食し続けて、いる。
ふたつの、滅び、の、加速。
***
——セレスティアは、知らない。
自分が、帝国内では「皇妃候補」と、呼ばれていながら——
世界の、大半では、まだ、『贄として死んだ』ことに、なって、いる、こと。
そして——
彼女の安息は、まだ——始まったばかりで。
誰にも、保証されては、いない、ということ、を——
***
同じ刻——
ファルネーゼと、ヴァルガルドの、国境。
三騎の、黒い、騎影、が——
静かに、静かに——帝国の、国境を、越えて、いた。
***
血の月、新月、を、過ぎて——あ、と、二十数日。




