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『獣の皇帝陛下に溺愛されています ~無能と捨てられた元王女ですが、隣国で最強でした~』  作者: てん
第2章銀狼の檻と、神話の覚醒

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# 第10話 測れぬ娘

# 第10話 測れぬ娘


 朝。


 セレスティアは、自室の窓辺で、ぼんやり、していた。


 紅茶のカップを、両手で、抱えている。

 湯気は、もう、立っていない。

 冷めてしまった紅茶を、彼女は、まだ、口に運んでいなかった。


 ——私には、お話し、されないのですね。


 ——私に、できることが、あるのかも、しれないのに——


 昨夜、ヴォルフラムが告げた「お話し致しません」の細い、細い、寂しさが、まだ、心の奥に、微かに、生きている。


***


「セレスティア様」


 どん、と——

 扉が、ノックも、なしに、勢いよく、開いた。


 飛び込んできたのは——ジークリンデ。


 燃えるような赤毛を、今朝は、無造作に、後ろで束ねている。

 深紫の魔導士外套の襟元から、白い喉が、無防備に、覗いて、いた。


「お約束、覚えてる?」


「お、お約束……ですか?」


「あなたの『魔力指導』。アタシが、初日に、最初の課題、にする、って言ったやつ」


 ジークが、にやり、と、片頬で、笑う。


「『私には、魔力など、ござりません』を——証明、もしくは、反証する課題」


「——本日、執行」


 セレスティアの胸が——どきり、と、跳ねた。


***


 ジークに連れられて、彼女は、城の地下深くへと、降りていった。


 螺旋階段を、何階層も、何階層も、下りる。

 空気が、すこしずつ、ひんやりと、冷たくなって、いく。


 やがて、分厚い、黒い、鋼の扉。

 ジークが、魔導の鍵で、開けた、その向こうには——


 円形の、静謐せいひつな、部屋。


 壁は、すべて、黒水晶こくすいしょう

 光は、まだ、ない。ただ、黒水晶のいたるところで、青白い燐光が、静かに、脈動している。


 部屋の中央に——

 床から胸ほどの高さの、白い、円柱の台座。


 その上に。


 拳大の、青く、燐光する球体、が——静かに、浮いて、いた。


「これ——なんですか」


 ジーク:「帝国筆頭魔導士団が、百年かけて、改良し続けてきた——魔力測定器。ファルネーゼの宝珠の、百倍は、精度がある、の」


***


 宝珠。


 その、たった、二文字、を、聞いた瞬間——

 セレスティアの身体が、無意識に、硬くなった。


 十二年前、五歳の春。

 国宝の宝珠を、手のひらに載せられた、あの時の、姿勢——

 身体が、それを、忘れて、いなかった。


 脳の奥で——父王の、冷たい声が、フラッシュした。


 ——期待を、裏切ったな、セレスティア。


 ——お前は、もう、私の娘では、ない。


 継母ベアトリスの、猫撫で声。


 ——あら。無能でしたか。


 ——それなら、王女に、相応しい暮らしは——諦めて、頂きましょう、ね。


 異母妹アンジェリカの、くすくす笑い。


 ——お姉様は、何の役にも、立たないのね、可哀想に。


 そういう、呪詛じゅそのような声、が——

 いま、彼女の身体を、内側から、凍らせて、いた。


***


 ジークが——そのことに、気づいた。


 セレスティアの、わずかに、蒼ざめた頬を、見て。


 ジークは、台座のそばで、一度、足を、止めた。


 そして、振り向いて——静かに、告げた。


「セレスティア様」


「——先に、言っておくね」


「これは——あなたに『無能』のレッテルを、もう一度、貼るためのもの、じゃ、な、い、の」


 セレスティアの、息が、止まった。


「あなたが、何の力も、持っていないとしても」


「——アタシも、陛下も、アンナも、クロウも、城のだれひとり——あなたへの態度を、変えない」


「だから——測定を、失敗しても、あなたは、何も、失わない」


「——安心して、やってみて」


***


 セレスティアの、目の縁から——ひとつぶ、涙が、落ちた。


 それは——

 ファルネーゼで、十二年——誰一人、彼女に言ってくれなかった、台詞、だった。


 失敗しても、あなたは、何も、失わない。


 その、たった、ひと言で——

 ファルネーゼで彼女を凍らせていた、父王の声、継母の声、異母妹の声、の、すべてが——

 すっ、と、溶けて、いった。


 涙を、そっと、拭って。

 セレスティアは——頷いた。


「——はい」


「——やって、みます」


***


 彼女が、震える指先で——

 白い台座の、青白い球体に、そっと、触れた。


 最初の、一瞬は——何も、起こらなかった。


 ——あ。

 ——やっぱり、何も。


 彼女の心臓が、すっと、沈みかける。


 しかし。


 ジークが——目を、細めた。


「——来た、わ」


***


 次の、瞬間。


 球体の、内部が——爆ぜた。


 青白い、青白い、あおい光が——

 球体の、閉じた殻、の、内側で——渦のように、荒れくるって、いた。


 部屋全体の、黒水晶の、壁が——

 低く、低く、うなりはじめた。


 うううう——、と。

 百年かけて、帝国の魔導士たちが積み上げてきた、黒水晶、そのもの、が——彼女の魔力に、共鳴して、震えている。


 球体の、青白い、燐光する表面に——無数の、細い、細い、蜘蛛の巣状の、ひびが、入っていく。


 ぴしり、ぴしり、ぴしり、と。


***


 その、ひびの、割れる音、を——


 セレスティアは——どこかで、聞いたこと、が、あった。


 ——あ。


 ——これは。


 ——十二年前、五歳の春の、あの瞬間。


 ——私が、宝珠を、手のひらに、載せた、あのとき、誰にも、聞こえなかった——ぱきり、と、宝珠が、焼き切れた、あの音、の——残響。


 十二年。


 十二年、彼女の身体に、巻きついて、彼女を、くびり続けてきた——『無能』、と、い、う、名、の、呪鎖じゅさ——


 その、鎖が、いま——

 青白い光のなかで——ぴ、し、り、と——砕けていった。


***


 ジークが、片手で、目元を、覆って、呟いた。


「……まあ」


「——やっぱり、ね」


「——これ、あの夜、陛下の呪いを、半分、解いた力——その、もの、だわ」


 それから、業務的な口調で、淡々と、付け加えた。


「セレスティア様。——手を、離して、いただける?」


「このままだと——帝国筆頭の魔導士団が、百年かけて作った、測定器が、割れちゃうから」


「正確には——今の世界に、あなたを、収めきれる器が——一つも、存在しない、の、よ」


「あなたは——世界のことわり、そのもの、を——外側から、塗り替えて、きてしまった、の、だわ」


***


 セレスティアは——慌てて、手を、離した。


 球体は、すぐに、静まる。

 黒水晶の唸りも——すっ、と、止まった。


 残ったのは——蜘蛛の巣状のひび、だけ。


 ジークが、大きく、ため息を、ついた。


「……はあ」


「アタシ、百年生きたって、こんな数値、二度と、見ない、わ」


 そして、まっすぐに、彼女に、向き直って——告げた。


「セレスティア様。あなた、——神話級、です」


「世界に——十人、いるかどうか、の、ランク」


「ファルネーゼの宝珠が、あなたに反応しなかった、本当の理由は——あなたの魔力が、あの古い宝珠の測定限界を、焼き切って、い、た、から」


***


 第1話の、地獄の真実、が——

 十二年越しに、公式に、告げられた、瞬間、だった。


 しかし。


 セレスティアは——信じきれなかった。


 信じない、というよりは——信じる、準備が、できていない、の、だった。


「私が……ですか?」


「私が、——そんな、すごい力を……?」


「ですが、——私には、何も、感じ、られませんが」


 ジークは、優しく、微笑んだ。


「そうね。あなたは、空気を吸うことを、意識しないでしょ?」


「あなたにとって——魔力を流すのは、呼吸と、同じ、くらい、自然なこと——だから、自覚、できない、それだけ」


***


 セレスティアは——

 目を、伏せた。


 まだ、信じきれなかった。


 わたくしには、魔力など、ござりません。

 わたくしは、無能で、ござります。


 十二年、身体に、染みついた、自己認識、が——そう、簡単に、塗り替えられる、もの、では、なかった。


 けれど——


***


 彼女の心の、奥のほうで——

 ひとつ、だけ——静かに、形を変えていく、思いが、あった。


 ——私には、魔力など、無いはず、です。


 ——でも。


 ——もし、本当に、私に、そのような力が——あるのなら。


 ——それは、——あの方を、お救いするために、使えるのでは、ないでしょうか。


 ——私の自覚は、ど、う、でも、い、い。


 ——あの方が、もう、お傷つきにならずに済むのなら——私は、それで、い、い。


 自己否定、を——彼女の、あの方への、静かな祈り、が——そっと、上書き、して、いった。


***


 測定の間、を、出た。


 長い、地下からの、階段。

 ジークが、無言で、先導している。

 セレスティアは、ふらつく足取りを、懸命に、整えながら、登って、いく。


 地上の階に、戻った、廊下の、角に——


 ヴォルフラム、が、立って、いた。


***


 ジークが——気を、利かせて、すっ、と、姿を、消した。


 ヴォルフラムは、まっすぐに、セレスティアを、見つめている。


 夜空の瞳が、わずかに、揺れていた。


「……測定の結果は——ジークから、聞きました」


「——貴女様は、本物、でいらっしゃった」


 セレスティアは——複雑そうに、目を、伏せる。


 信じきれない、気持ちと——

 それでも、あの方の役に立てるのなら、という祈り、が——入り混じったまま、顔を、上げられなかった。


 ヴォルフラムは——わずかに、歩み寄った。


 そして、ためらった、あと——

 彼女の銀混じりの白金の髪に、そっと、手を、添えた。


***


 その、瞬間。


 彼の指のあたりで——

 セレスティアの白金の髪に、混じって——


 ひとすじ、銀色の毛、が——淡く、光った。


 あの夜、雪の森で、銀の獣の頭を、撫でていた時に——

 彼女の白金の髪に、混じり込んだ、彼の——名残。


 半分しか解けていない、呪い、の——あかし


 ヴォルフラムは——それを、見て、しまった。


 夜空の瞳の奥で——

 罪悪感、が——波のように、広がる。


 ——私が。

 ——私こそが——彼女の、清らかな輝きを——汚しているのではないか。


 その思いが——

 彼の指、を——すっ、と、引かせた。


***


 触れたか、触れないか、の、一瞬、だった。


 ヴォルフラムの手は——彼女の頬の輪郭を、一度、なぞる、こと、すら——

 許せずに——離れていった。


「——失礼、致しました」


 ヴォルフラムの声は——低く、沈んでいた。


「——無理を、なさらず。今日は、どうぞ、お休みに、なって、ください」


 杖を、つき、ながら——彼は、去って、いった。


 セレスティアは——遠ざかる、その背中を、長く、長く、見つめていた。


 二人のあいだに——何かが、流れた、わけではない。

 ただ、二人のあいだに——流れずに、止まったままの、何か、が——残った、だけ。


***


 ——同じ刻。


 境街さかいまちリエヴァ、大通りの宿屋。


 商人風に身を変えた、三人の男のうち——一人が、宿の女将に、何気なく、尋ねていた。


 長身で、痩せた男。

 眉の上に、古い、細い、刀傷。

 灰色の、落ち窪んだ目——その目には、感情らしい、温度が、存在しなかった。


 名は、ヘルムート。

 元、ファルネーゼ宮廷の、王妃ベアトリス、お抱えの——影の男。


「最近、——なにか、変わったこと、なかったかい」


 ヘルムートの問いは——忠誠心からの動機、ではなかった。


 彼にとって、王妃ベアトリスは——もはや、死者。

 しかし、死人の意志は——完遂されねば、ならない。


 生きているなら、殺す。

 死んでいるなら、死体を、確認する。

 それだけ、だった。


 彼に感情は——もう、残って、いなかった。


***


 宿の女将は——興奮気味に、身を乗り出した。


「あったわよ! ——お客さん、聞いてないの?」


「つい先日、——うちの教会に、聖女様が、お通りに、なられた、の、よ!」


「ろうそくが、ぜんぶ、ひとりでに、灯って——枯れていた百合が、満開に、蘇って——」


「いまでは、あの教会は——奇跡の聖地、ってんで、毎日、信徒が、押し寄せてるんだから!」


 ヘルムートの、灰色の目、が——わずかに、細まった。


「——どんなお姿だった、その聖女様、は」


「顔は、誰も、見て、いない、そうだけど——」


「噂じゃあ——銀混じりの、白金の、髪の、お若い、お嬢さん——だった、そう、よ」


***


 ヘルムートの、顔色が——変わった。


 とはいえ、それは、表情の変化ですらない——

 微かな、頬の筋肉の引き締まり、だけ。


 女将は、気づかなかった。


 ヘルムートは、背後の二人に——目で、短く、合図した。


 ——生きている、な。


 ——ファルネーゼに、まず、早馬を、出せ。


 ——第二班は、帝都へ、直行、させろ。


 女将には、聞こえない、低さで、交わされた、その指示、を——

 誰一人——止める者は、なかった。


***


 ——同じ夕方。


 帝都ヴァルガルディアの——城下の、名もなき、小さな酒場。


 商人たちが、低い声で、噂しあって、いた。


「——なあ、聞いたか。あの呪われた帝城が——なぜか、最近、風が、清らかに、なったんだ、ろ」


「うちの末娘の、あの長患いの咳が、——ぴたりと、止まったのよ」


「町の井戸の水も、甘くなった、って言うじゃないか」


「——皇帝陛下が、新しい、聖女様を、お迎えに、なられた、らしい」


 噂は——帝都から、地方へ、広がり、始めて、いた。


 そして——国境を、越えはじめて、いた。


***


 血の月、新月、を、過ぎて——あ、と、二十二日。


 ふたつの国の、シーソー、が——

 もう一度——静かに、傾く。

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