# 第11話 触れずに、隣に、いる
# 第11話 触れずに、隣に、いる
朝。
セレスティアの自室の、朝食卓。
白い、刺繍の入った卓布のうえに、——二客の、ティーカップが、並んで、いた。
ひとつは、温かい、湯気を立てている——セレスティアのカップ。
もうひとつは——
空、だった。
***
空のカップの脇には、端正に、畳まれた、白い、麻のナフキン。
その隣に、銀のスプーンが、きちんと、添えられて、いた。
誰かが、今朝、そこに座る、つもりで——用意されていた、席。
そして、それが、空席で、あること。
セレスティアは、——その空席を、長く、見つめて、いた。
「アンナさん。——これは?」
「——陛下のお席に、ござります」
アンナの皺の手が、静かに、朝食を、卓に、並べていく。
「陛下は——『お時間が、合えば——お朝食を、お嬢様と、ご一緒、したい』、と——仰せに、なられて、おります」
「ですが——本日は、早朝より、公務、に、お出に、ござりまして」
「お席だけは——お嬢様に、お見せ、して、おくように、と」
***
セレスティアの胸の奥に——
温かいもの、と、同時に——細い、寂しさ、が、混じった。
——陛下も、お会いしたい、と、思って、くださっている、の、です、ね。
——でも——
彼女は——空のカップを、見つめながら——気づいて、しまった。
あの席に、今日——陛下は、座らなかった。
それは——公務、でも、あるけれど、それだけで、は、ない。
あの方は——私と、同じ卓に、座る、勇気が——まだ、お持ちで、ないのだ。
空のカップは——あの方の、『一緒にいたい』、という願い、と。
それと、同時に——『まだ、隣に座る、勇気が、出ない』、という、臆病さ、を——
二重に、示して、いた。
***
セレスティアは——空のカップに、そっと、指先を、添えた。
ファルネーゼで、十二年——毎朝、空席の食卓を、ひとりで、食べてきた、彼女。
空席、という、もの、の、意味、を——彼女ほど、深く、知る、者は——いない、だろう。
あの空席は——『見捨てられた席』、だった。
でも、この、空席は——
『待っている、席』、だった。
その違いを——セレスティアの胸は——静かに、噛みしめた。
そして、決めた。
——今夜は——私から、お声がけ、致します。
***
朝食のあと——
ジークが、軽い、軽い、足取りで、現れた。
「セレスティア様。——今日から、本格的な、魔力指導、始めましょ?」
「は、はい……」
「庭に、出ましょ。——薔薇園で、稽古、するわ」
***
帝城の中庭、白薔薇の畝。
まだ、蕾は、固い。
春の到来を、待ち侘びて——つぼみの先だけが、わずかに、白く、綻び始めている。
「セレスティア様。魔力ってね——身体能力の、延長、なのよ」
ジークは、赤毛を、風に、揺らしながら——穏やかに、教える。
「だから——最初の稽古は、『力を、出す』、じゃなくて——」
「——『力を、抜く』、ことから、始めるの」
「目を、閉じて」
「——身体の中の、温かい流れ、を、感じてみて」
***
セレスティアは——戸惑いながら、目を、閉じた。
最初は——何も、感じなかった。
ただ——庭の朝の冷気と、遠くの、侍女たちのささやかな足音、だけが、世界を、満たしている。
が——
ジークが、彼女の、細い背中に、そっと、温かい手を、添えた。
——あ。
身体の、奥のほうで——
何かが——温かく、脈動している、感覚。
ずっと——
ずっと、前から、そこに、あったような、でも、気づいたことの、なかった——微かな、温い、うねり。
——これが。
——私の、魔力——なの、だろうか。
まだ、信じきれない。
けれど——初めて、感じた、その温かさ、を——彼女は、否定、できなかった。
***
「セレスティア様」
ジークが、穏やかな声で、促した。
「ためしに——目の前の、白薔薇の蕾を、見つめて、ごらん?」
「『咲け』、なんて、思わなくて、いいの。——ただ、『きれいだなあ』、って——思うだけ」
セレスティアは、目を、開けた。
目の前の、まだ固い、白薔薇の蕾。
彼女は——静かに、見つめた。
——きれいな、蕾。
——ファルネーゼでも、こっそり、私が、大切に、育てて、いた、お花。
——あなたたちは、お母様の、あとに、残された、私の、たったひとつの、お友達、でした。
——もし、もし、蕾の、あなたが——いま、咲きたい、と、お思いに、なるのなら。
——どうか、安心して、咲いて、くださいね。
——あなたを、傷つける者は——もう、ここには、お、り、ま、せ、ん、か、ら。
***
ふっ、と——
目の前の、固かった、蕾、が——
一輪、静かに——完全に、開いた。
まっしろい、完全な、薔薇の花。
春の蕾だったはずのものが——まるで、彼女の祈りに応えるかのように——花びらを、ひとひら、ひとひら、広げて、いった。
セレスティアは——嬉しそうに、微笑んだ。
「——あら」
「——咲き、ましたね」
***
ジークが——呆然と、彼女を、見つめた。
そして、片手で、目元を、覆って——呟いた。
「……あなた、いま」
「……本気で——『あら、咲きましたね』、って、言ったわよ、ね?」
「あなたが、今——蕾を、咲かせたんだから、ね?」
セレスティアは——きょとんと、首を、傾げた。
「えっ……?」
「——私が、ですか?」
***
ジークは——長く、目を、閉じて、呼吸を、整えた。
そして——呟いた。
「……神話級の出力、を——」
「あなたって人は——『お花が、安心して、咲けるように』、の、たったそれだけのために——使い切る、の、ね」
「武器、じゃ、ないんだわ。あなたにとって、魔力は——」
「——世界を、やさしくするための、道具、なの、ね」
セレスティアは——まだ、きょとんと、していた。
武器、などと、いう、単語、が、——彼女の、頭の、どこにも、存在しなかった、から。
***
ジークは——笑った。
寂しくも、温かくも、笑った。
そして——呟いた。
「だから——あなたなのね」
「——あの方を、お助けできるのは、あなたしか、いないのね」
その、呟きを——セレスティアは——聞き取れなかった。
ただ——風が、そっと、頬を、撫でて、過ぎた、だけ、だった。
***
夕刻。
ヴォルフラムが——公務から、帰城した。
セレスティアは——庭園を、散歩中に、偶然、彼を、お迎えする、ことになった。
ヴォルフラムは——
杖をついた、まだ、わずかに、不安定な足取りで——静かに、歩いて、きた。
彼女に、気づくと——わずかに、目を、細めた。
それは——微笑み、というには、あまりに、控えめな、表情。
まるで——微笑むことすら、まだ、自分には、許されていない、と、信じているかのような、表情、だった。
「——お出迎え、恐縮にござります」
「いいえ。——たまたま、お庭を、歩いて、おりましたら——」
***
ヴォルフラムは——何かを、言いかけて——やめた。
そして——
懐から、そっと、何かを、取り出した。
地味だが——装幀の美しい、一冊の、古い、本。
「これは——公務先で、たまたま、お見かけ、致しました」
「——貴女様が、昨日、図書館で——植物図鑑を、お読みに、なっていた、気が、致しまして」
「もし、よろしければ——」
本を、そっと、差し出した。
***
セレスティアは——両手で、本を、受け取ろうと、した。
ふたりの指が——本のうえで——すれすれ——に、なった。
ヴォルフラムの指は——彼女の指に、触れないように——細心の注意で——本を、差し出して、いた。
ぎりぎりで——触れない。
その距離は——物理的な距離、では、なかった。
彼の、自制心という名の、檻——そのもの、だった。
***
セレスティアは——気づいた。
これは、拒絶では、ない。
これは——あまりにも、深い、慈しみ、だ。
あの方は、私を、汚したくない、の、だ。
あの方は、私を、傷つけたくない、の、だ。
だから——あの方は、ご自分の指、を、自分自身で、閉じ込めて、いらっしゃる。
——それを、理解、してしまった、彼女の胸、が——
きゅう、と、締めつけられた。
寂しい、では、なかった。
もどかしい、では、なかった。
ただ、——愛おしい、に、似た、何か、が——彼女の、胸に、広がった。
***
本を、胸に、抱きしめた。
そして——セレスティアは——顔を、上げた。
「ありがとうございます」
「あの、——陛下」
自分から——名を、呼んだ。
「もし、お時間が、お許しに、なれば——」
「——今夜の、お夕餉を、ご一緒、させて、いただけ、ま、せ、ん、か」
***
ヴォルフラムの、夜空の瞳が——大きく、見開かれた。
ファルネーゼで、十二年——常に「呼ばれる側」、常に「招かれる側」、であった少女、が——生まれて初めて、自分から、他者を、お誘いした。
その奇跡を——ヴォルフラムは——敏感に、察知、した。
わずかな間のあと——彼は、静かに、頷いた。
「——もちろん、でござります」
***
夕餉の卓には——今度こそ、二人ぶんのカップが、温かい湯気を立てて、並んでいた。
朝の、空のカップとの、対比、が——彼女の胸に、静かな、喜び、を、宿した。
食後、ふたりは、サロンの暖炉の前で、並んで座った。
ただし——わずかな、わずかな、間隔、を、空けて。
セレスティアは、それに、気づいて、いた。
けれど、何も、言わなかった。
空けられている、わずかな間隔、そのもの、が——彼の、誠意、であることを——
彼女は、もう、知って、いた、から。
***
ヴォルフラムが贈った本を、セレスティアが、声に出して、読んでいく。
「『白薔薇の、花言葉は——沈黙の中の、誠実』」
ヴォルフラムは——わずかに、微笑んだ。
その、微笑みは——まだ、不器用で——どこか、罪悪感を、湛えていた。
「——貴女様に、よく、似合いますね」
セレスティアの頬が——ほのかに、染まった。
ページをめくる、彼女の、指先。
彼のページを支える、指先。
ただ、二寸ほど、離れただけの、その距離、が——
世界中の、何よりも、遠く——
そして、世界中の、何よりも、近く、感じられた。
***
読み終わって——ふたりは——窓辺で、夜の、庭園を、見つめた。
月が、半分、欠けて、空に、懸かって、いる。
ヴォルフラムは——長い沈黙の、あと——低く、呟いた。
「——貴女様には——お話し、致しません、と、申し上げ、ましたが——」
「ひとつだけ——お伝えしておきたい、ことが、ござります」
「——血の月の、夜、まで、は」
「——あと、二十一日」
「その夜まで——私は——貴女様に、過度に、お近づき、致しません」
***
セレスティアは——静かに、彼を、見上げた。
ヴォルフラムの声には——
騎士道精神、の、響きが、あった。
けれど、それと、同時に——
その奥に——彼自身が、彼自身を、信じきれていない、脆さ、が、透けて、い、た。
——まだ、私は——貴女様に、触れる、に、値する、男では、ない。
——まだ、私は——貴女様の、清らかな輝きを、汚さない、保証を——自分自身に、与え、られない。
その自己不信を——セレスティアは——敏感に、察知、してしまった。
***
胸が、きゅう、と、痛んだ。
——護りかた——と、仰る、の、です、ね。
——あなたは——もう、十分に——十分すぎるほどに——私を、護って、くださって、おりますのに。
彼女は——何も、言わなかった。
ただ、胸に抱いていた、彼の贈ってくれた本を——もう一度、そっと、抱きしめた。
その仕草、が——
彼女の、無言の、答え、だった。
——あなたが、私から、距離を、お取りに、なるのなら。
——私は、私の方から——あなたに、歩み寄り、ます。
***
同じ、時刻——
帝都ヴァルガルディアの、郊外、宿場町。
灰色の落ち窪んだ目の男——ヘルムート——は、宿屋の女中に、短く、尋ねた。
「——帝城の薔薇園で、花が、咲いたとか」
「あら、よくご存じ! その通りよ、お客さん」
「蕾だったはずなのに、今朝、一輪だけ、咲いて、いたんですって。それを、皇帝陛下が——そっと、お見つめに、なって、いらしたんだとか」
ヘルムートの目に——温度は、戻らなかった。
ただ、軽く、頬の筋肉が、引き締まる。
それで、十分、だった。
***
部下に、短く、目で、合図、した。
「——明朝」
「——帝都に、入る」
「——手筈は、整っているな」
部下は、無言で、頷いた。
温かい帝城の話、と、冷たい侵入者の指示、が——
同じ夜の、同じ空気の中で——並んで、存在、していた。
***
夜——
城の、別々の寝室で——二人は、それぞれ、同じ月を、見つめて、いた。
セレスティアは、彼の贈ってくれた本を、胸に、抱いて、寝台に、入っている。
心の中で、呟く。
——陛下。
——あなたが、私から、距離を、お取りに、なるのなら——私は、私の方から、歩み寄ります。
——まだ、どうやって、歩み寄ったらいいのか、わかりませんけれど——
——それでも、私は——あなたから、目を、そらしません。
***
一方——
ヴォルフラムは、自分の私室の窓辺で——半月を、見つめて、いた。
夜空の瞳には——静かな、苦悩、が、沈んで、いた。
——彼女に、触れたい。
——だが、まだ、触れる、資格が、私には、ない。
——血の月の夜、を、超えるまでは——私は、彼女に——触れずに、隣に、いる、ことしか、できない。
***
同じ屋根の下で——
同じ月を、見つめている、二人の祈り、が——
まだ、交わらないままに——静かに、並んで、いた。
血の月まで——あ、と、二十一日。




