# 第12話 街に降りた、聖女
# 第12話 街に降りた、聖女
朝食の卓——
今朝は、二人ぶんのカップが、温かい湯気を立てて、並んでいた。
ヴォルフラムが、自分で、ティーポットを取って——セレスティアのカップに、紅茶を、注ぐ。
その手元の震えは——昨日よりも、わずかに、小さくなって、いた。
彼自身が、気づいて、いるか、どうか、は、わからない。
ただ、セレスティアには、わかった。
——あの方は——
——私のために、不器用に、練習して、くださっている、の、です、ね。
胸の奥が、温かい、何かで、満たされる。
セレスティアは——決めた。
***
「あの——陛下」
ヴォルフラムが、手を、止める。
「もし、お許しを、いただけ、れば——」
彼女は、目を、伏せて、少し、頬を、染めて——それから、顔を上げて、告げた。
「——城下街に、出てみたい、の、で、す」
***
ヴォルフラムの手が——ぴたり、と、止まった。
偵察隊が、帝都郊外に、到達した、という、クロウの報告は、聞いて、いる。
危険、では、ある。
けれど——
ヴォルフラムは——すぐに、気づいた。
私は——彼女を、城に、閉じ込めることは、出来ない。
彼女は、ファルネーゼで、十二年——閉じ込められて、生きてきた、の、だ。
私が、それを——繰り返さ、せて、は、ならない。
「——もちろん、でござります」
ヴォルフラムの声は、静かに、穏やかだった。
「ただし——お一人で、ではなく」
「私と、ジーク、クロウ、それから、護衛を、お連れ、させて、よろしいですか」
セレスティアの顔が——ぱあっ、と、綻んだ。
「——もちろん、です」
「——ありがとうございます」
***
馬車で、帝都ヴァルガルディアの城下街に、降りた。
セレスティアは、地味な、商家のお嬢様風の装い。
ヴォルフラム、ジーク、クロウも、貴族風を、抑えた装い。
ただし——見る人が、見れば、隠せていない、気配。
馬車から、降りる、セレスティアの足元が——わずかに、震えた。
城門の、外。
護衛、では、なく、散策、として、外に出る、の、は——彼女の、十七年の、人生で——初めて、の、こと、だった。
***
帝都の街は、清らかで——活気に、溢れて、いた。
春の蕾の、街路樹。
石畳に、軽やかに、跳ねていく、子供たちの足音。
大声で、焼き栗の値段を、張り上げる、商人。
通りの隅の、花屋の店先で、花束を、抱える、若い恋人たち。
セレスティアは——目を、大きく、見開いて、見回した。
「——綺麗」
「——なんて、綺麗な街、でしょう」
その、呟きは——喜びだけ、では、なかった。
***
通りの向こうから、親子連れが、歩いてきた。
四つばかりの女の子が、父親の大きな手を、両手で、握って——きゃっきゃっ、と、笑って、いる。
父親も、娘の、たわいない話に、笑顔で、相槌を、打っている。
ただ、それだけの、風景。
それだけの、風景、を、見て——
セレスティアの、胸の奥が——きゅう、と、締めつけられた。
——父王に、あんなふうに、手を、引いて、もらった、こと、は、なかった。
——あんなふうに、何でもないことで、笑い合った、こと、は、なかった。
——これは——世界に、当たり前に、存在していた、風景なのに。
——私の、世界には——なかった。
幸福と、哀愁が——彼女の胸に、同時に、広がった。
幸福は——今、目の前にあるこの景色を、お見せいただいたこと、への喜び。
哀愁は——これを、知らずに、十二年、生きてきた、自分への、静かな、憐れみ。
***
その横顔を——
ヴォルフラムは、そっと、見つめて、いた。
彼の、夜空の瞳の奥には——無音の、怒り、が、沈んで、いた。
何でもない景色を、当たり前に、見せてあげる、人間、が——彼女の、そばには、十七年、一度も、い、な、か、っ、た。
私が、もっと、早く、あなたを、見つけられていたら。
私が、もっと、早く——お迎えに、参っていたら。
ヴォルフラムは——呼吸を、整えた。
その怒りは——彼女に、向ける、べきもの、では、ない。
ただ、——セレスティアの、細い肩を、もう一度、そっと、抱きしめたい、と、思っただけ、だった。
けれど、彼は——そう、しなかった。
***
歩いて、十数歩、したところ、で——
通りの隅で、小さな、悲鳴、が、上がった。
四つばかりの、別の少女が——石畳に、つまずいて、転んで、いた。
膝を、すりむいて——血が、わずかに、滲んで、いる。
セレスティアの足は——考える前に、動いていた。
すっ、と、少女に、歩み寄って——雪のように、軽い動作で、膝を、ついた。
「——あらあら」
「——お、お痛い、ですね」
***
母を、慰めるような——
いいえ、——母に、慰めて、もらいたかった、あの優しい手つき、そのもの、で。
彼女は、少女の、擦りむいた膝を、そっと、撫でた。
ふ、と——
彼女の指先から——淡い、淡い、乳白色の、光、が——すっと、滲み出した。
すりむいた傷が——閉じて、いった。
血の、滲みも——すっ、と、消えた。
少女は——不思議そうに、自分の膝を、見つめて——それから、セレスティアを、見上げた。
「お、お姉ちゃん——お薬、もって、るの……?」
セレスティアは——きょとんと、首を、傾げる。
「いえ……?」
ジークが、遠くで——目で、静かに、頷いて、いた。
また、無自覚に、発動している、と——
姉貴分の、温かい、苦笑、そのもの、の頷きで。
***
ヴォルフラムは——少し離れた場所から、そのすべてを、見ていた。
彼の夜空の瞳に——誇らしさ、と、寂しさ、と——そして、それ以上の、何かが、宿った。
——なんと、清らかな、お力、だろう。
——世界を、やさしくするためだけに、使われる、お力。
——そんな、清らかな、お力、が。
***
——私の、血塗られた、呪いを、癒すたびに——
——あの、清らかな光、が——すり減っている、の、では、ないだろうか。
それは——
彼の、愛ゆえの——最も深い、恐れ、だった。
——私を、お救いに、なる、たびに——あの方の、なかの何かが、削れて、ゆく、の、では、ないだろうか。
ヴォルフラムの拳が、外套の中で——わずかに、握りしめられた。
***
少女に、手を、振って、別れた。
四人は、噴水のある、大きな広場に、出た。
噴水の縁では——たくさんの市民が、憩って、いた。
水音、笑い声、商人の呼び声、子供たちの歓声。
そのなかに——
商人風の装いをした、三人の男が、混じって、いた。
***
長身、痩せた男。
眉の上に、細い、古い刀傷。
灰色の、落ち窪んだ、温度のない瞳——ヘルムート。
彼の灰色の瞳が——広場の人混みのなかに、捉えた。
——銀混じりの、白金の、髪。
地味な装いで、目立たないようにしていても——あの髪色、だけは、隠せない。
ヘルムートの、瞳孔が——わずかに、収縮した。
部下に、低く、短く——呟いた。
「——あれだ」
「——生きている。確認、済み」
***
部下の、片方が——ヴォルフラムの顔を、認識した。
「ヘルムート——あの男——皇帝、本人、か?」
ヘルムートの目に——温度は、戻らなかった。
ただ——淡々と、呟いた。
「——うちにとって、皇帝は——目的では、ない」
「——あの女、だけ、だ」
「ただ——護衛が、皇帝、筆頭魔導士、影の長官、の三人、か」
「——正面からは、無理だ、な」
***
ヘルムートは——広場の人混みを、見渡した。
その目は——もはや、怯んだ目では、なかった。
冷徹な、狩人の、目。
皇帝が、そばに、いる、なら——
皇帝が、いない、場所——あるいは、心、を、突けば、い、い。
「——皇帝が、公務で、城を、離れる、時を、狙う」
「単独で、出てきた、瞬間に——終わらせる」
部下:「——手段は?」
ヘルムートの、灰色の目が、わずかに、細まる。
「——王妃様、お抱えの——あの、毒」
「触れれば——半刻で、心臓が、止まる」
「皇帝への忠義の証、として——帝国にも、献上された、歴史がある」
「——帝国の保管庫に、今でも、眠って、いる、はずだ」
「俺は、それを——盗み出す」
***
——死しても、なお。
実の娘を、呪い殺そう、と、する、毒親の意志、が——
ヘルムート、という、凶器を、通して——静かに、セレスティアに、迫って、いた。
***
そのとき——
噴水の縁で、セレスティアの首筋を——すう、と——寒気が、撫でた。
魔力的な、探知では、なかった。
ファルネーゼで、十二年——毒入りの紅茶、割られそうな鏡、計算された階段の段差、に、囲まれて、生きてきた、彼女、だけ、が——本能で、感じ取れる、種類の、悪意の、気配。
彼女の身体が——わずかに、強張った。
「——あの、陛下?」
***
ヴォルフラムの反応は——即座だった。
彼女の異変を——声色の、微細な震えだけで、察知。
彼の身体が、すっ、と、半身——セレスティアの、背後を、庇うように、位置を、変えた。
それは、考えて、そうした、の、では、ない。
彼の本能、が——彼女を、背に、庇った、の、だった。
クロウの灰色の瞳が、広場を、なめるように、走査する。
ジークも、薄く、魔導の探知の糸を、広げる。
が——
商人風の三人組は、ちょうど、噴水の反対側に、回り込んで——姿を、消した、あと、だった。
「セレスティア——お加減は」
「いえ……気のせい、かも、しれません」
けれど、彼女の心の奥で——何かが、警鐘を、鳴らし続けて、いた。
***
ヴォルフラム:「——帰りましょう」
セレスティアは——頷いた。
帰路の馬車のなか。
ヴォルフラムは——彼女の隣に、座った。
昨夜の、わずかな間隔、よりも——ほんの少し、狭まった、距離。
そして——無言のまま。
自分の、漆黒の外套を、脱いだ。
セレスティアの、細い肩に——
そっと、そっと、かけた。
「——寒気が、したと、仰った、から」
それは——
血の月の夜まで、過度にお近づき致しません、という、宣言、を、彼自身が、半歩、破った、瞬間、だった。
言葉ではなく、動作で——
護りたい、と、示した、不器用な、誠実さ。
セレスティアは——彼の外套を、そっと、肩に、引き寄せた。
まだ、温かかった。
あの方の、体温、が——そこには、残って、いた。
***
城に、戻った。
夕餉のあと——
ふたりは、同じサロンで、本の続きを、読んだ。
「街、——素敵な、場所、でしたね」
「——今度は、もっと、長く、出ましょう」
「お気に召された、お店が、あれば——何でも、お買い求めくださって、構いません」
セレスティアは、くす、と、笑った。
「もう——十分すぎるほど、頂いて、おります、から」
静かな、温かい時間。
ヴォルフラムは——まだ、わずかな距離を、空けて、座っていた。
けれど——
セレスティアの肩には——まだ、彼の外套が、かかったまま、残って、いた。
***
——同じ夜。
遠い、遠い——ファルネーゼ王宮、異母妹アンジェリカの私室。
アンジェリカは、化粧台の鏡の前に、座って、いた。
鏡を、覗き込む。
そこに、映って、いたのは——蒼ざめた、自分の顔。
——あら、わたくし、今夜は、お顔色が——
その、瞬間。
鏡のなかの——アンジェリカの顔、が。
ほんの、一瞬だけ——別の人の顔、に、変わった。
目尻の、皺、の、刻みかた。
薄く、笑った、口元の、曲線。
つり上がった、眉、の、形。
——お、母、様。
***
「いっ——!」
アンジェリカは、椅子から、転がるように、後ろに、身を、引いた。
胸が、激しく、鼓動して、いる。
手が、冷たく、震えて、いる。
もう一度、鏡を、見る。
そこに、映って、いたのは——蒼ざめた、自分の顔、だけ、だった。
しかし——耳の奥では。
お母様の、うわごとが、繰り返し、繰り返し、聞こえている。
なぜ、あの娘は、まだ、生きているの。
なぜ、あの娘は、まだ、生きているの。
なぜ——
***
アンジェリカは——頭を、抱えた。
「お、お母様」
「わ、わたくしが——お姉様を、連れ戻します、から」
「だから——どうか、私の、耳から——お声を、止めて、くださいませ」
それは、もう——姉を救うため、ではなかった。
姉を、連れ戻して、自分の正気を、保つ、ための——
共依存の、連鎖、への、変質、だった。
***
——同じ夜。
帝都ヴァルガルディアの宿屋。
ヘルムートは——広げた地図のうえに、指を、滑らせて、いた。
「明日——市場の、聖女噂を、もう少し、聞き集める」
「あの女が、どこに、どの程度、出没するか、を、掴む」
「皇帝が、公務で、城を、離れる、機を、待つ」
「単独で、出てきた、瞬間、に——終わらせる」
温かい帝城の話、と、冷たい侵入者の指示、が——
同じ夜の、同じ空気のなかで、並んで、存在、していた。
***
セレスティアは——知らない。
自分が、今日、帝都の街で——静かに、敵と、すれ違っていた、ことを。
そして——血の月までの、二十日が——もはや、平穏な日々では、終わらないだろう、ということ、を。
***
血の月まで——あ、と、二十日。
帝城の彼女の寝台では——肩にかけたままの、あの方の外套に、頬を、寄せて——安らかな寝息を、立てている、セレスティア。
帝都の宿屋では——血塗られた毒の幻影を、地図の上に、重ねている、ヘルムート。
ファルネーゼの王宮では——耳を抑えながら、母の幻聴に、蝕まれていく、アンジェリカ。
三つの夜が——同じ、半月、の下で——静かに、静かに——交差、しはじめて、いた。




