# 第8話 ヴォルフラムと、セレスティア
# 第8話 ヴォルフラムと、セレスティア
朝の光が——
白い、白い、奇跡のような輝きで。
窓の向こうから、寝台のうえに、そっと、降りて、いた。
セレスティアは、目を、覚ました。
ゆっくりと、ゆっくりと。
誰の手にも、揺すられず。
誰の小言にも、追い立てられず。
今度こそ、本当の意味で——目を、覚ました。
しばらく、彼女は、寝台の天蓋の刺繍を、ただ、ぼんやりと、見つめていた。
——あれは、ぜんぶ、夢、だったのかしら。
雪の森も。
銀の獣も。
膝のうえで眠った、銀髪の、傷だらけの——あの、お方、も。
そう、思った、その瞬間。
胸の上で、左手の薬指の銀の指輪が——まだ、温かい、ことに、気づいた。
(——夢では、なかった)
ようやく、その実感が、薄い水紋のように、ゆっくりと、胸に、広がっていった。
***
窓辺に、立った。
窓の外——雪のあとの白い朝。
針葉樹の森が——信じられないほどに、清らかに、澄み切って、輝いていた。
昨日まで、瘴気で、重く、見えていた、あの森が——
今朝はまるで、別の場所のように。
それを——彼女は、気のせい、では、片付けなかった。
気づきもしなかった。
ただ、「ああ、穏やかな朝」と、思っただけだった。
——それで、よかった。
本人が、気づかないままに——
セレスティアの、しずかな、しずかな浄化の力は、城周辺の大地にまで、染みわたって、いた。
***
「お嬢様、おはようございます」
扉が、静かに、開いた。
朝食の盆を運んできた、アンナの顔。
しかし、その表情は——いつもよりも、わずかに、改まって、いた。
「今朝は、——大切なお方からの、お招き、にござります」
「……お招き、ですか」
「お朝食を、——ご一緒に、いただきたい、との、こと、にござります」
セレスティアの心臓が——どきり、と、跳ねた。
「あ、あの——あの方が、お目覚めに、なられたのですか」
「お目覚めに、なられました、——大切な、お方、にて」
アンナは、依然として、彼の名を——皇帝、とは、言わなかった。
けれど、その口調の、わずかに、震えた品格が、もう、すべてを、語って、いた。
「あの——」
セレスティアは、自分の声が、細くなることに、気づきながら、それでも、訊いた。
「お召し物は、——お任せ、いただけますか」
「お嬢様の、——初めての。公の——」
アンナの、口が、公の、で、一瞬だけ、止まった。
その先を——皇帝陛下との、初めての公式の、ご朝食、と。
言いたいのを、押し殺している、気配。
「——お嬢様の、初めての、ご朝食、にござりますもの」
「お任せ、いただきとう、ござります」
***
大きな鏡の前に、立たされた。
まず、長い髪を、丁寧に、丁寧に、梳いてもらった。
ジャスミンの香油を、こめかみに、ほんの一滴。
手の爪先まで、磨かれた。
そして——白銀のドレスが、彼女の身体に、静かに、纏わされた。
月光を織って作ったような、シンプル極まりない、しかし、極上の、白銀。
胸元には、繊細な銀の刺繍。
袖口は、絹のレースが、手首の細さを、優しく覆っている。
ファルネーゼで、十二年、彼女が着せられていた、染みの目立つお下がりのドレスとは——何もかも、違った。
***
セレスティアは、ゆっくりと——鏡の中の、自分自身、を、見つめた。
息が、止まった。
鏡の中に、立っていたのは——
だれ、ですか。
最初、その問いが、本気で、頭をよぎった。
しかし、瞬きをふたつ、したあと——
彼女は、理解した。
あ。
——これは、私、だ。
***
——ファルネーゼの広間で、無能と笑われた、私。
——雪の馬車に乗せられた、私。
——御者の老人ヤンの、毒のないスープを口にして、声を殺して泣いた、私。
——教会で、母のためにろうそくを一本だけ灯した、私。
——銀の獣の血まみれの頭を、大丈夫、と撫でた、私。
——傷だらけの男の身体に、自分の外套をかけた、私。
——そのすべての、私、が——
——生き延びて、ここまで、辿り着いた、結果。
それが、いま、鏡の中に、立って、いる。
憐れみでは、なかった。
自惚れでも、なかった。
ただ——ようやく、その娘を、認めて、あげられた、ような、気がした。
よく、生き延びました、ね。
あなたは、よく——ここまで、来てくれましたね。
頬に、温いものが、つう、と、ひとつ、伝った。
***
「お嬢様」
背後から、アンナの、静かな声が、寄り添うように、聞こえた。
「——これが」
「——本来の、あなた様、にござります」
本来の、私。
その、たったひと言が——
彼女が、ファルネーゼで、十二年、身に纏ってきた、無能、と、嘲笑、と、染みのドレス——そのすべてを。
そっと、背中越しに——脱がせてくれた。
セレスティアは、頬の涙を、拭わなかった。
ただ、鏡の中の、白銀の娘に向かって、目元だけで、微笑んだ。
それは——地獄の十二年への、告別の儀式、だった。
***
「お嬢様」
アンナが、——あらたまった声で、続けた。
「お母様の、お形見の指輪は、いかが、なさいますか」
セレスティアは、しばし、考えた。
そして、ふっ、と、微笑んだ。
「——首から、お下げしたい、と思います」
「ドレスの、胸元の、——肌着の下、心臓の、すぐ脇に」
「お母様には、——今日も、そばに、いて、いただきたい、ので」
絹の細いリボンに、銀の指輪は、そっと、通された。
白銀のドレスの、胸元の、誰の目にも、触れない場所に——静かに、納められた。
左手の、薬指は——空いて、いた。
***
長い、長い、磨き上げられた、黒大理石の廊下。
アンナと、ジークリンデに、両脇を支えられるようにして——
セレスティアは、朝食の間へと、歩いて、いった。
廊下の両脇には——無数の、城使用人たちが、整然と、並んで、いた。
彼女が、一歩、進むたびに——
左右の使用人たちが、波のように、深く、深く、頭を、垂れた。
憐れみでは、なかった。
警戒でも、なかった。
——あなた様を、お待ちしておりました、と。
帝国、全体の、声に、ならない、歓迎、だった。
セレスティアの胸が、——温かい、何かで、みたされていった。
***
廊下の角で、片膝をついていた、見覚えのある、漆黒の影。
クロウ。
昨夜の、取り乱しが嘘のように——
彼の灰色の瞳は、いつもの、事務的な、冷ややかな鋼、に、戻って、いた。
戻って、いた、つもりだった。
「お待ち、しておりました。——皇妃候補殿下」
セレスティアは、立ち止まって——おずおずと、訊いた。
「あの——昨夜は、お外套を、ありがとう、ございました」
クロウの、灰色の瞳が——わずかに、視線を、逸らした。
「——何のことか、わかりかねます」
その、一言を、絞り出すのに——
クロウは——途中で、一度、咳払いをした。
完全に、取り繕えていなかった。
横で、ジークリンデが、口元を扇で、隠して、くす、と笑った。
「クロウ、——可愛いところ、あるじゃない」
クロウは、無言で、ジークを、——睨んだ。
セレスティアは、その、ささやかな、温かい、可笑しさに——
目元だけで、ほんの、わずかに、微笑んだ。
十七年生きてきて、笑った、二度目の、微笑み、だった。
***
大きな、光あふれる、ガラス張りの、朝食の間。
磨き上げられた樫の卓に、もう、すべての食事が、整えられていた。
そして——奥の窓辺に。
ひとり、立っている、男。
***
背の高い、銀色の長い髪を、後ろで、ひとつに、緩く、結んだ青年。
漆黒の、襟元に銀の刺繍を施した——正装の上着。
右手に——杖。
顔に、首筋に——うっすらと、白い古傷の線。
男は、雪の白い光のなかで——窓の外を、見て、いた。
その横顔は——セレスティアの胸を、まっすぐに、射抜いた。
扉の開く音に——
男が、ゆっくりと、振り向いた。
夜空の色の瞳が、まっすぐに、彼女を、捉えた。
セレスティアの足が——ぴたり、と、止まった。
心臓が、どくん、と、跳ねた。
——あの、瞳。
——あの夜、雪のなかで、わずかに、開きかけた——あの、瞳。
男もまた——
彼女を見たまま、一瞬、息を、止めた。
千年、引き裂かれて生きてきた魂が——
ようやく、現実の肉体で——彼女と、対峙して、いた。
***
男は、杖を、ついて——ゆっくりと、彼女のほうに、歩み寄った。
足元は、まだ、おぼつかなかった。
昨夜の傷の名残——完全に癒え切っていない、自分の足、を、まだ、庇って、いる。
セレスティアは——動けなかった。
男は、彼女の、すぐ手前で——立ち止まった。
二人の身長差は、頭ひとつぶん上。
男は——まっすぐに、彼女を、見下ろして——
そして——
静かに、片膝を、つ、いた。
***
皇帝が。
ヴァルガルド帝国の、最高権力者、が——
追放された、平民出身の、ひとりの、娘、に——跪いた。
セレスティアの息が——止まった。
***
男は、顔を、上げなかった。
ただ、低く、しかし、明瞭な声で——名を、名乗った。
「私は——ヴォルフラム」
「ヴォルフラム・ヴァルガルド」
「——ヴァルガルド帝国の、皇帝、と、申します」
「貴女様の名は、——風で、聞き及んで、おりまする」
「されど——」
「貴女様の、お口から——もう一度、聞かせて、いただけませんか」
***
セレスティアは、震える声で——答えた。
「——セレスティア」
「セレスティア・ファルネーゼ、と、申します」
「元——ファルネーゼ王国、第一王女、——でございました」
でございました、と。
彼女は、人生で、初めて——自分の口で、過去形を、使った。
その瞬間——
胸の、いちばん深いところで——何かが、ふっ、と、軽くなった。
***
ヴォルフラムは——
ゆっくりと、彼女の、左手を、取った。
そして——
薬指——
いま、何も、嵌められていない、その細い薬指——
そこに、そっと、口づけ、を、した。
***
唇は、ほんの、一瞬、触れた、だけだった。
しかし、その、ほんの一瞬の感触は——
ファルネーゼで、二十年近く、誰にも、触れさせてもらえなかった、彼女の薬指に——
消えることのない、あたたかい、しるし、として、残った。
「——セレスティア」
ヴォルフラムは、ようやく、顔を、上げた。
夜空の瞳が、まっすぐに、彼女を、見た。
「——どうか、私の、お朝食の招待を——お受け、くださいませんか」
セレスティアの目から——ぽろり、と、涙が、こぼれた。
——この、お方が。
——あの方、で、いらっしゃったのですね。
——あの夜、私の膝のうえで——お眠りに、なられた。
「……はい」
「——喜んで」
***
ふたりは、向かい合って——席に、着いた。
使用人たちは、皆、気配を消すように、下がっていた。
部屋の中には、もう——ふたりだけ、だった。
ヴォルフラムは——侍女に、任せ、なかった。
自分の手で、銀のティーポットを、そっと、取った。
そして、セレスティアのカップに——
紅茶を、注ぎ、始めた。
***
その、手元、が——わずかに、震えて、いた。
ほんの、ほんの、目を凝らさなければ気づかないほどの、か細い震え。
ティーポットの口から零れる紅茶が——
ほんの一筋、軌道を、わずかに、外して——ソーサーに、ひとしずく、落ちた。
「——失礼」
ヴォルフラムは、ぼそりと、小さく、謝った。
彼は、もう一度、呼吸を、整えて——
今度は、完璧に、カップを、満たした。
***
その、手元の震え、と——
完璧を、取り戻すための、呼吸の整え方、を——
セレスティアは——見て、い、た。
千年。
千年——彼は、誰のためにも、紅茶を、淹れた、ことが、なかったのだ。
誰かに「与える」必要も、誰かに「尽くす」必要も——
なかったから。
最強の皇帝が——
たった、ひとりの、やせた、追放された娘の、ために——自分の手で、不器用に、紅茶を、淹れている。
どんな、甘い言葉、よりも——
その、不器用な誠実さが——
セレスティアの胸の、奥のほうに——静かに、染み込んで、いった。
***
差し出されたカップを——
セレスティアは、両手で、受け取った。
そして、ゆっくり、ゆっくり——口に、運んだ。
「——あたたかい、です」
ヴォルフラムの、夜空の瞳が——
わずかに、揺れた。
——あの夜の、雪の森で。
——自分が、彼女の膝のうえで、無意識に、絞り出した、たった、三文字——
——あ、た、た、か。
あの、温かさが——
いま、彼女の唇から、自分のほうへと、返って、きた。
***
ヴォルフラムは——
いくつかの、静かな、ことを、語った。
千年の、呪いのこと。
城に、ほとんど人が、いない理由。
か、細い、声で——セレスティアを「皇妃候補」として迎えた、その、本当の、理由。
「——正直に、申し上げます」
「私は、貴女様を——利用する、つもりで、お招きしたのでは——決して、ござりません」
「ただ——」
ヴォルフラムは、目を、伏せた。
「ただ——どうしても、お会いせねば、ならぬような、気が、して、いたのです」
「——貴女様の、お名前、を」
「——夢のなかで、聞いた、ような、気が、して、い、た、の、です」
***
セレスティアの胸に——温かいものが、じわり、と、広がった。
——私のことを。
——遠い、遠い、どこかで、呼んでくださっていた、お方。
その、奇跡の重さを、噛みしめる、間も、与えずに——
ヴォルフラムの声は——続いた。
「——セレスティア」
「貴女様には——自由が、ござります」
***
セレスティアは、——顔を、上げた。
ヴォルフラムの、夜空の瞳は——まっすぐに、彼女を、見据えていた。
しかし——
卓のクロスの、下のほう、で——
彼の指が、テーブルの縁を、そっと、握り込んでいる、その指の関節、が——
白くなって、いた。
セレスティアにしか、気づけない、ところで——
彼は、自分の身を、裂くように——耐えて、いた。
「ヴァルガルドの城で、お暮らしになることも」
「あるいは——私のもとを、お去りに、なられることも」
「——何処へなりとも、貴女様の、お望みの地へ——私が、お送り、申し上げます」
「ご決定は——貴女様、ご自身に」
***
ヴォルフラムの、その提案、が——
彼にとって、身を切るような苦しみであることを。
セレスティアは——わかって、しまった。
彼女を失えば——彼は、再び、千年の狂気に、戻る。
ふたたび、自分の爪で、自分の肉を、裂き続ける、血の月夜が——永遠に、戻ってくる。
それを、理解したうえで——
彼は——彼女の、尊厳を、彼自身の独占欲よりも、優先して、いた。
——それは、なぜ、か。
——彼もまた、セレスティアと同じく——誰かに、利用される苦しみを、魂で、理解していたから、だった。
***
セレスティアは——長く、沈黙、した。
それから——紅茶のカップを、そっと、ソーサーに、戻した。
そして、まっすぐに、ヴォルフラムを、見た。
彼女の瞳には——
十七年生きてきて、初めて宿った、自分の意志の光、が、あった。
***
「——私、は」
「——ここに、留まらせて、いただきます」
***
ヴォルフラムの——夜空の瞳が、大きく、見開かれた。
「あなた様が——どこへ行ってもいい、と、おっしゃってくださったから——です」
「私は——生まれて、初めて——自分で、選びました」
「ここに、いたい、と」
「——あなたの、お側に——い、た、い、と」
頬は、ほんの少し、赤かった。
卓の縁を、白くなるほど握っていた、ヴォルフラムの指、が——ふっ、と、力を、抜いた。
***
ヴォルフラムは——
しばらく、言葉を、失っていた。
それから、震える手を、ゆっくりと、伸ばし、卓の上の彼女の指先、に——
そっと、自分の指先を、添えた。
たった、指先と、指先が、触れる、だけ。
しかし、その温度は——たがいに、凍えてきた、千年と、十七年、を——一瞬で、溶かして、いった。
「——セレスティア」
ヴォルフラムの声は——低く、静かに、揺れて、いた。
「——私の、命を、賭けて、お護りします」
「私の、千年、よりも——これからの、あなたの、人生、の、ほうが」
「——私には、大切でござります」
***
朝の光が、ふたりを——金色に、染め上げて、いた。
雪のあとの、白い帝国の朝が——ふたりを、静かに、祝福、して、いた。
セレスティアの胸元、肌着の下——
母の指輪、が。
誰にも、聞こえない、静けさで——トクン、トクン、と、青く、明滅、して、いた。
***
——第1章「絶望と解放のプロローグ」。
ここに——終わ、る。
***
そして——同じ朝。
遠い、遠い、ファルネーゼ王国。
王妃ベアトリスの葬列が、しめやかに、執り行われて、いた、その、裏で——
喪服の、異母妹アンジェリカは——青ざめた顔で、呟いていた。
「お母様……だ、誰が、私たちを、お守り、してくださるの……?」
「——お姉様。——お姉様を、必ず、連れ戻さ、ねば」
「あの、無能のはずだったお姉様の——魔力、聖女の力——それさえあれば、私たちは、まだ、まだ、王国の頂点で、い、ら、れ、る、の、よ……!」
その目に灯った欲望は——
どこまでも、身勝手で——どこまでも、セレスティアを、道具としてしか、見ていない、もの、だった。
——ふたつの国の、シーソーが。
もっと、もっと——急に、傾き、始めようと、していた。




