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『獣の皇帝陛下に溺愛されています ~無能と捨てられた元王女ですが、隣国で最強でした~』  作者: てん
第1章「絶望と解放のプロローグ」

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# 第7話 銀色の睫毛、夜空の瞳

# 第7話 銀色の睫毛、夜空の瞳


 夜明け前の、あおい、淡い、薄明かりのなかで——


 膝のうえに眠る、銀髪の若い男の、長い、長い、睫毛まつげ、が——


 わずかに、震えて——

 わずかに、開いた。


 セレスティアは、息を、止めた。


 夜空の色をした、深く、深い瞳。

 焦点は、合っていない。

 ただ、ぼんやりと、宙のどこかを見つめている、うつろな、虚ろな、瞳。


 ——けれど。


 その瞳が、ゆっくり、ゆっくりと——彼女のほうへと、めぐらされた。


 ふたりの目が、合った。


 セレスティアの胸が、どきり、と、ひとつ、跳ねた。


 男の唇が——乾いた、白い、唇が、わずかに、動いた。


 声に、ならなかった。

 何度か、口の動きだけが、空気を、ひっかいた。


 そして——ようやく。


「……あ……た、た……か……」


 たった、それだけ、だった。


 たった、三文字。

 かすれた——千年ぶりに人語を発する者の、不器用な、ひとこと。


 ——……温かい。


 それが、彼女には、わかった。


 千年。

 千年、あの方は、誰の体温も、温かい、と感じたことが、なかったのだ。


 涙が、こみあげそうになって——

 彼女は、慌てて、それを、呑み込んだ。


 ——お休みになって、ください。

 ——お休みになって、ください。

 ——あなたは、いま、お休みに、なるべき方、なのです。


 男の夜空の瞳は、ほんの、わずかに——見開かれかけた。


 彼女の顔を、認識しかけている、ような顔。


 しかし——

 その意識は、彼の身体には、もう、残って、いなかった。


 睫毛が、ゆっくりと、再び、閉ざされる。

 男の身体から、すっ、と、力が、抜けた。


「あの——」


 セレスティアの、声が、震えた。


「お、お休みに——なって、いらっしゃるだけ、ですよね?」


 返事は、なかった。

 ただ、膝のうえで、男の胸が、穏やかに、上下に、動いて、いた。


***


 ——眠っている。

 ——たぶん、深く。


 そう確認できたとき、彼女の肩から、ようやく、ちいさく、力が、抜けた。


 そして——覚悟を、決めた。


 外套を、もう一度、男の身体に、きちんと、整えてかける。

 銀の長髪が、雪に触れていたので、そっと、雪のうえから、避けてやる。


 それから。


 びりっ、と。


 彼女は、自分の寝衣の袖を、引き裂いた。


 絹の、薄い、白い布。

 それを、男の頬を流れる、まだ完全には止まっていない、細い血の筋に——そっと、押し当てた。


 寒さで、彼女自身の唇が、震えていた。

 指先の感覚が、すこしずつ、遠のいていく。


 寝衣一枚、片袖の半分を裂いた状態で、夜明けの森の雪のうえに、いる。

 普通であれば——

 彼女は、いつ凍死してもおかしくない、状態だった。


 ——けれど。


 不思議と。

 彼女の周囲、半径数歩のあいだだけ——雪が、淡い湯気を立てながら、静かに溶け続けていた。


 ——気のせい、ね。


 彼女は、また、それを、気のせい、で、片付けた。


 そして——

 男の身体を、自分のからだで、抱き締めるようにして、体温を、分けようと、した。


 自分の命を、削るように。


 ——どうか、温かく。

 ——どうか、もう、お痛くなりませんように。

 ——あなたを、こんな寒さの中に、ひとりで、お置きしたく、ない。


***


「——セレスティア様!!」


 ジークリンデの叫び声が、雪のうえを、跳ねて、響いた。


 結界の外で、ずっと魔導の糸で見守っていたジークが——ついに、駆け込んできた。


 雪の中央に、いたもの——


 寝衣一枚の少女が、銀髪の若い男の身体を、自分のからだで、抱き締めるようにして、護っている、姿。


 ジークの足が、ぴたり、と、止まった。

 息が、止まった。


 そして——男の顔を、見た。


「——陛、下——っ!?」


 思わず、口にしかけて——

 寸前で、ジークは、自分の口を、両手で、ふさいだ。


 セレスティアの胸が、どきり、と、跳ねた。


 ——……やっぱり。

 ——あの方は。


 ジークが、わざとらしく、咳払いを、した。


「あ、——いえ、その——ご無事で、よかった!」


 声が、わずかに、上ずって、いた。


***


 そのとき。


 雪の音も、立てずに——

 別働で、森の外周を固めていたクロウが、現れた。


 漆黒の外套。眼帯。鋭い、灰色の瞳。

 朝の薄明かりのなかで、その姿は、ほとんど影のようにしか、見えなかった。


 クロウの灰色の瞳が——順番に、三つのものを、見た。


 セレスティアの寝衣の薄さ。

 裸の男の上にかけられた、彼女の外套。

 男の頬の傷を押さえている、彼女の引き裂かれた寝衣の袖。


 その、灰色の瞳の奥に——


 今までで、いちばん、深い、熱、が、灯った。


***


 クロウは、——片膝を、つ、いた。


 雪のうえに。


 それは、もはや——敬意、というよりも——

 信仰、に、近かった。


 冷徹な、職務に殉ずる男の——あの、揺るがない、灰色の仮面、が。


 たった、いま——完全に、剥がれ落ちた。


 クロウは、漆黒の外套を、脱いだ。


 そして、それを、セレスティアの肩に——

 そっと、そっと、かけた。


 彼女の肩を覆ったのは、まだ、男の体温の残った、温かい、漆黒の布だった。


「——皇妃候補殿下」


 クロウの、声、が——震えて、いた。


 事務的な声色を、保とうとしていた。

 保とうとして——失敗していた。


「——お風邪を、召されては」


「——わたくしどもの、一生、の——不覚、に、ござります」


 その、一言を、絞り出すのに——

 クロウは、途中で、二度、息を、継いだ。


 灰色の瞳には——

 涙、では、ない。

 もっと、深い、もっと、原初の、何か、が、溢れかけて、いた。


 セレスティアは、無言で、頷くこと、しか、できなかった。


***


 帰路。


 クロウが、抱き上げるようにして、銀髪の男の身体を、抱えた。


 セレスティアは、ジークに支えられて、結界の外まで、運ばれた。

 冷え切った身体に、ジークの魔法の温風が、優しく、かけられている。


 森の道を、戻りながら——

 ジークが、ぽつりと、こぼした。


「あなたが、いてくれなければ——あの方は、今夜——本当に、死んでいた」


 ジークの声は、静かだった。


 セレスティアは、おずおずと、尋ねた。


「……あの方、というのは」


 ジークは、しばし、沈黙した。

 それから——慎重に、慎重に、答えた。


「——いまは、お訊ねに、ならないで」


「明日の朝には、——すべて、お話しできると、思うから」


 セレスティアは、それきり、何も、訊かなかった。


 ただ——心の、奥のほうで、静かに、思った。


 ——あの方は。

 ——どなたで、いらっしゃっても、私には、もう、関係のないこと、です。


 ——あの傷だらけの体を、守りたい、と、思った。

 ——それが、すべて。


***


 城に戻ると、すでに、アンナと、複数の侍医たちが、廊下に、待機していた。


 男の身体は、担架たんかに乗せられて——

 奥の、皇帝の居室のほうへ、運ばれて、いく。


 セレスティアは、その背中を、廊下の途中から、見送るしか、なかった。


 担架が、廊下の角を、曲がる、その、直前——

 担架の上の男の、閉ざされた目の、脇から——


 涙の跡が、一筋。


 しずかに、流れているのを、彼女は、見て、しまった。


 胸が、痛んだ。


 ——どうか。

 ——どうか、もう、誰にも、傷つけられませんように。

 ——あなたが、ご自分のことを、もう、お傷つけになりませんように。


***


 自室に、戻った。


 アンナが、温かい湯と、新しい寝衣と、蜂蜜入りの温かいミルクを、すでに、整えて、待っていた。


 冷え切った彼女の手足を、アンナは、ゆっくりと、皺の指で、温めながら——

 ぽつり、ぽつりと、嘘では、ないけれど、半分しか、真実ではないこと、を、語った。


「お嬢様の、お助けが——間に合いました」


「あの方は、——大丈夫、にござります」


「お嬢様」


「あの——あの方は、どなた、なのですか」


 アンナの手が——一瞬、止まった。


 そして、慎重に、慎重に、答えた。


「——わたくしどもの、大切な、お方、にござります」


「お嬢様には——そう。お知り、おきいただければ——それで、十分、にござります」


「すべては——また、明日に」


 セレスティアの胸が、わずかに、痛んだ。


 ——やっぱり。

 ——皆さま、何かを、隠していらっしゃる。


 けれど、彼女は——追及、しなかった。


 ——私には、まだ——そのことを、尋ねる、権利が、ないのかも、しれません。


***


 アンナが退室したあと。


 セレスティアは、寝台の上に、ひとりで、横たわった。


 窓の外、すでに——血の月は、沈み。

 白い、夜明けの光が、城を、照らし始めていた。


 彼女は、左手の薬指の銀の指輪を——胸に、押し当てた。


 そして、心の中で——お母様に、語りかけた。


 ——お母様。


 ——私は、——たぶん、もう、お会いするのは、ずっと、ずっと、先になります。


 ——私が、お幸せに、なりたいから、生きたい、というのでは、ないのです。


 ——そんな、そんな、立派なことでは、ないのです。


 ——ただ。


 ——もし、あの方が、もう一度、あんなふうに、ご自分のことを、お傷つけになる夜が、来てしまったら。


 ——そのとき、私の手が、まだ、あの方の頭に、添えられるようで、ありたい、のです。


 ——それだけ、なのです、お母様。


 ——私のことを、おゆるし、ください。


 指輪の薄青い石が——

 もう一度、トクン、と、青く、明滅した。


 まるで、彼女の決意に、応える、ように。


 彼女は、その光に、——気づかなかった。


 ただ、深い、深い、静かな眠りに、落ちていった。


***


 同じ刻——城の最奥、皇帝の居室。


 寝台の上で、銀髪の若い男は、まだ、深く、深く、眠っていた。


 その寝台を取り囲むのは——三人の影。


 ジークリンデ。

 クロウ。

 そして——帝国筆頭侍医長、白髪の老人。


 老侍医長の、皺の指が、男の素肌の胸に、置かれている。

 そこから、淡い、銀色の光が、診察の魔導として——すっと、男の身体のなかに、流れ込んで、いた。


 老侍医長の、目が——大きく、見開かれた。

 そして、もう、閉じなかった。


「——奇跡、にござります」


 しわがれた、震える声が、室内の静寂を、引き裂いた。


「陛下の、千年の呪いに、刻まれていた——核心の魔法陣」


「——半分、消えている」


***


 クロウの灰色の瞳が、——見開かれた。

 ジークが、息を、み込んだ。


「物理的に、——消えている、というのは——」


 ジークの声が、震えた。


「あの夜——たった、一夜で——呪いが、半分、解けた、ということ?」


 老侍医長は、無言で、頷いた。


 そして——呟いた。


「これは——あやふやな、伝説、では、ござりません」


「これは——目の前の、肉体に刻まれた、物理的な、奇跡、にござります」


「であれば——」


 老侍医長の、皺の指が、震えた。


「あの方は——本物だった、ということに、なりまする」


「セレスティア・ファルネーゼ様こそが——」


「千年の、予言の——そ、の、お、方、に、ござりまする」


***


 千年。


 千年、乖離かいりしていた——

 銀狼《獣》の意識と、ヴォルフラム《人間》の意識、が——


 彼女の手のひらに、触れられた、その瞬間——

 一つに、戻ろうと、して、いる。


 千年、引き裂かれて、生きてきた、ひとつの魂が、彼女という存在を、介して——統合され、ようと、して、いる。


 その、震えが——いま。

 寝台の上で、深く眠る男の身体の、奥のほうから——微かに、しかし確かに、感じ取れた。


 老侍医長の、皺の手が——わずかに、震えた。

 これほどの、奇跡を、帝国筆頭の医として、長い長い生涯のなかでも——一度も、目にしたことが、なかったから。


***


 そのとき。


 寝台の上で——

 深く眠る皇帝の、閉ざされた夜空の睫毛が——

 ほんの、わずかに、震えた。


 そして。


 男の、乾いた唇が——無意識に、無意識に——

 一言、囁いた。


「……セレ……ス、テ、ィア……」


***


 クロウが——息を、止めた。

 ジークが——目を、見開いた。


「……陛下が、お名前を」


「まだ——どこからも、お聞きに、なって、いらっしゃらない、はず、なのに——」


「いいえ」


 老侍医長の声、が——室内の空気を、柔らかく、断ち切った。


「お聞きになって、いらっしゃらない。けれど——」


「——陛下の御魂みたまは、もう」


「——あの方の名前を、知っていらっしゃる」


***


 そして——同じ朝。


 遠い、遠い、西の地——ファルネーゼ王国、王宮、王妃ベアトリスの居室。


 医師たちは、ついに、首を、横に、振っていた。


 寝台のうえで、うわごとを、繰り返していた、王妃が——


「——なぜ、あの娘は、まだ、生きているのよ……」


「あの、無能の——聖女、なんぞでは、断じて、ない、——わ、た、く、し、が、呪いを、か、け、てやった、はず、なの、に……」


 ぱた、と。


 王妃の手が——寝台の脇から、垂れ落ちた。


 ひゅっ、と。


 王妃の口から——最後の息が、漏れた。


 医師の、ひとりが、震える声で、告げた。


「——王妃様、御崩御ごほうぎょ


***


 血の月、沈み——

 白い夜が、明けた、その朝。


 ヴァルガルドの城では——銀の獣の、千年の傷が、ひとつ残らず、塞がっていた。


 ファルネーゼの王宮では——王妃ベアトリスが、たった三日の高熱で、崩じていた。


 ——セレスティアにかけた呪い、が。

 ——そのまま、自分自身に、返ってきた、かのように。


 ふたつの国の——幸福と腐敗、が。


 まるで、対称形のシーソーのように。

 静かに、しずかに、傾いていた。


 そして、その傾きは——

 これから、もっと、もっと急に、加速していくこと、になる。

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