# 第6話 化け物の涙
# 第6話 化け物の涙
「お嬢様、せめてお召し物を——!」
アンナの声が、廊下に、悲鳴のように、響いた。
セレスティアは、すでに、寝衣のうえに厚手の毛織りの外套を、一枚、羽織って、廊下を歩いていた。
ジークリンデの背中に、つかつかと、ついていく。
化粧も、結髪も、なにも、していない。
ただ、左手の薬指の銀の指輪だけが——彼女の身に纏う、唯一の装飾だった。
「アンナ」
彼女は、振り返って、しずかに、首を、振った。
「あの方は、いま——お苦しみに、なっていらっしゃるのですよね」
「で、ござりまするが、——」
「では」
「私の身支度を整える時間が——あの方の苦しみを、ほんの少しでも、引き伸ばしてしまうのなら」
「——いりません」
アンナは、絶句した。
セレスティアは、もう、振り返らなかった。
ジークの背中だけを見つめて、城の、奥へ、奥へと、進んでいった。
その後ろ姿を、廊下に置き去りにされたアンナは——
胸の前で、皺の手を、ぎゅっ、と、握り合わせて。
声を殺して——もう一度、泣いた《・・・・・・・・》。
***
城の地下、ほとんど誰も知らぬ秘密の通路。
螺旋階段を、ジークの導きで、ふたりは、降りていった。
「クロウ達は、もう、森の外周に、散ってる」
ジークが、振り返らずに、低い声で、言った。
「ファルネーゼからの追手か、あるいは——血の月夜に城に近づくものは、何人であれ通さない《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、というのが、彼の流儀よ」
セレスティアは、頷いた。
ただ、頷くしか、できなかった。
「もうひとつ——あなたに、断っておかなくちゃならないことが、ある」
ジークの声が、わずかに、沈んだ《・・・》。
「アタシは、——あなたを、結界の外まで《・・・・・・・・・・・》、しか、お連れ、できない」
「これより先は、アタシの魔導士としての訓練を以ってしても——瘴気で、精神が、保たないの《・・・・・・・・・・・・》」
***
森の入口、雪の積もった針葉樹のあいだ。
ジークは、足を、止めた。
そして、雪のうえに、ひざまずいて、魔法陣を、刻みはじめた。
赤い光が、淡く、雪に滲んでいく。
「アタシは、ここで、あなたを見守ってる」
ジークが、立ち上がりながら、言った。
「何かあったら、すぐに、強制的に、引き戻すから」
「……はい」
「ねえ、セレスティア様」
ジークが、初めて、まっすぐに、彼女の目を、見た。
「——本当に、ごめんなさい」
「アタシたちが——もっと、早く」
「もっと、早く、あなたを、——見つけられていれば《・・・・・・・・・》」
「あの方を、こんなに——こんなに、お苦しめ、せずに、済んだのかも、しれないのに」
セレスティアは、首を、ゆるく、横に、振った。
「ジークさまの、せいでは、ござりません」
「私は、もう、ここに——ちゃんと、辿り着けて《・・・・・・・・・》、おりますから」
ジークは、それを聞いて、束の間、目を、伏せた。
それから、ふっ、と、寂しそうに笑った。
「——やっと、来てくれたのね《・・・・・・・・・・》」
ぽつり、と、こぼれた。
「行ってらっしゃい。——あの方を、お願い」
***
セレスティアは、ジークの結界を、そっと、跨いだ《・・・・・・・・》。
途端に——空気の質が、変わった。
息が、重い。
夜気が、どろり《・・・》、と、湿っている。
鼻の奥に、生臭い、血の匂い《・・・・》のような、気配が、滲み始めた。
——これが、瘴気。
そう、頭で理解はしたけれど。
不思議と——彼女の頭は、晴れていた《・・・・・・・・・・・》。
雪が、淡く、淡く、降り始めていた。
彼女は、外套の襟を、軽く合わせて——
ひとり、深い森の奥へと、足を、踏み入れた。
***
しばらく、歩いた。
ふと、彼女は、気づいた。
——足音が、しない。
正確には、雪を踏みしめる、あの、きゅっ、きゅっ、という音が、妙に、軽い《・・・・・》。
彼女が一歩、踏み出すたびに——
ブーツの下の雪が、す《・》っ《・》、と、溶け《・》て《・》い《・》る《・》。
そして、その溶けた跡からは——湯気、すら、立っていた。
……気のせい、かしら。
——気のせい、ではなかった《・・・・・・・・・・・》。
それどころか——彼女が歩いた周囲、半径数歩分の、どろり《・・・》とした瘴気が、まるで、清水で洗い流すように、す《・》っ《・》と《・》、退い《・》て《・》い《・》っ《・》た《・》。
けれど、彼女は、それに、まったく、気づかなかった《・・・・・・・・・・・・》。
***
ただ。
ふっ、と——左の胸のあたりが、温か《・》い《・》、ことに、気づいた。
外套のうえから、薬指の指輪に、そっと、触れる。
指の先で、感じた。
指輪の、薄青い石が——
ト《・》ク《・》ン《・》。
ト《・》ク《・》ン《・》。
彼女の心臓の鼓動と、まったく同じ間隔で——淡く《・》、青く《・》、明滅し《・》て《・》い《・》た《・》。
——……あ。
問いかける、間も、なかった。
足が、ひとりでに《・・・・・》、ある方向に、歩いて、いく。
不思議だった。
あの方の、いらっしゃる場所が、わかる《・・・》。
なぜ、わかるのか、わからない。
ただ、——心臓のあたりが、それを、知っている《・・・・・・・・・》。
***
開けた、空き地に、出た。
ぽっかりと、満月に、穿たれたような、雪の空き地。
赤い月の光が、雪のうえに——血のように《・・・・》、滴り落ちている。
そして、その中央に——
い《・》た《・》。
***
セレスティアは、そ《・》の《・》場に《・》、凍り《・》つ《・》い《・》た《・》。
第4話で、城門で、自分を、導いてくれた——あの、銀の獣。
その姿は——変わり果てて、いた。
体高、馬の背を、超える、巨大な銀の獣。
その毛並みは、半ば《・》——血で、赤黒く、染まっていた《・・・・・・・・・・・》。
全身に、無数の、引き裂かれた傷。
しかし——
それらは、敵に、裂かれた傷では、なかった《・・・・・・・・・・・・・》。
自分自身の、鋭い爪で——《・・・・・・・・・・・・》自分の肉体を、裂き《・》続け《・》た《・》、痕、だった。
周囲には。
引き裂かれた針葉樹の幹。抉り取られた、地面。
散らばった、黒い血の雪。
そして、銀の獣自身は——
雪のうえに、四つ足を踏ん張ったまま——
もう一方の前足の爪で、今、《・》ま《・》さ《・》に《・》——自分の肩口を、再び、引き裂こうと、していた《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
***
——なぜ。
セレスティアの、唇が、震えた。
——なぜ、ご自分のことを、お傷つけ、になるの……?
***
そのとき、彼女には、まだ、わかっていなかった。
銀の獣が、自分を、傷つけ続けている、本当の理由、を。
——それは、狂気では、なかった《・・・・・・・・・・・・》。
理性を、保つための《・・・・・・・・》、肉体への罰、だった。
もし、理性を、失えば。
彼は《・》——
長く、長く、大切に、護ってきたもの《・・・・・・・・・》たちを、噛み殺してしまう。
民を。
城のなかで、彼を、ひとりで待っているはずの——細い、新しい、あの娘を。
血の月夜。
獣の本能が、彼の、最後の、薄皮一枚の理性を、今夜こそ完全に剥ぎ取ろうと《・・・・・・・・・・・・・》、うねっている。
——だから。
肉を、自分で、裂く《・・・・・・・・》。
痛みで、意識を、繋ぎ止める《・・・・・・・・・・・》。
そうしている、あいだは——《・・・・・・・・・・・・》
まだ、自分は、誰のことも、噛み殺さなくて、済む《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
優しすぎたから《・・・・・・・》。
誰のことも、傷つけたくなかったから《・・・・・・・・・・・・・・・・》。
だから、彼は《・》——自分の《・》こ《・》と《・》だ《・》け《・》を《・》——そ《・》の《・》爪で《・》、切り《・》刻み《・》続け《・》て《・》き《・》た《・》。
千年。
***
雪を、踏む音が、きゅ、と、ひとつ、響いた。
銀の獣の——耳が、ピク《・・》、と、跳ねた。
そして。
金色の瞳が——こちらを、向いた。
——その目に、理性の《・》光は《・》、な《・》か《・》っ《・》た《・》。
ただ、狂気と、苦痛と、渇望《・・・・・・・・・・・》、だけが、燃え盛って、いた《・・・・・・・・》。
「グ……ル、ル、ル、ル——ッ!!」
低い、低い、地の底からのような、唸り声。
牙を、剥い《・》た《・》。
鋭い、白い、湾曲した、凶器、のような牙。
そして——
銀の獣は《・・・・》——セ《・》レ《・》ス《・》テ《・》ィ《・》ア《・》に《・》、襲い《・》か《・》か《・》っ《・》た《・》。
***
巨大な、銀の塊が、宙を、跳んだ《・・・》。
雪を、爆発させる勢いで。
彼女に向かって——引き裂くために《・・・・・・・》、跳んだ。
***
セレスティアは——動かなかった《・・・・・・》。
逃げる、ということを——頭が、思いつかなかった《・・・・・・・・・・・》。
ただ。
ただ——哀し《・》か《・》っ《・》た《・》。
——どうして。
——あなたは、こんなに、お辛そうなのに。
——いま、私を傷つけたら、もっと、もっと、お辛くなってしまわれるのに《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
それだけが、彼女の、頭のなかに、あった。
***
銀の獣の、巨大な、血まみれの前足が——
彼女の頬の、すぐ脇、に——振り下ろされた《・・・・・・・》。
雪を、爆ぜさせて《・・・・・》、爪が、空を、薙いだ《・・・・・・》。
——彼女の頬は、無事だった《・・・・・・・・・・・》。
爪は、彼女の頬の、わずか数寸の脇を——引き裂くこと、なく《・・・・・・・・・》、雪のうえに、空振り、した。
なぜか。
——銀の獣自身が《・・・・・・》。
——空中で、自分の前足を、捻じ《・》り《・》、外し《・》た《・》、か《・》ら《・》、だった。
***
「——ギャアアアアアアアッ!!」
獣の、魂の底からの絶叫が、雪の森を、引き裂いた。
銀の獣は、空中で、自分の前足を——ね《・》じ《・》っ《・》て《・》。
彼女に、爪が当たる軌道を、強引に、逸らした《・・・・・・・・》。
その代償に。
自分の前足が、あり得ない角度に、折れた《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
骨が、軋む、嫌な音。
巨大な銀の獣は、雪のうえに、どさり《・・・》、と、崩れ落ちた《・・・・・》。
折れた、自分の前足を、もう一方の前足で、抱え込むように《・・・・・・・》、身体を、丸める《・・・・・・》。
ぜ、ぜ、ぜ、——と。
獣の喉から、苦しげな、息が、漏れる。
***
金色の瞳のなかに——わずかな、わずかな、理性が、戻りかけて、いた《・・・・・・・・》。
——間に合った《・・・・・》。
そう、その瞳が、語っていた。
——この、か弱い、細い、白い、首を《・・・・・・・・・・・》——
——噛み砕かずに、済んだ《・・・・・・・・・・》。
***
セレスティアは——
そ《・》れ《・》を《・》、見て《・》い《・》た《・》。
ぜんぶ、見ていた。
そして——理解、した《・・・・》。
——ああ。
——あなたは。
——誰のことも、噛み殺したくないから《・・・・・・・・・・・・・・・・》。
——だから、ご自分のことを、こんなに、ひどく、い《・》じ《・》め《・》て《・》い《・》ら《・》っ《・》し《・》ゃ《・》っ《・》た《・》の《・》で《・》す《・》ね《・》。
涙は、出なかった。
ただ、心の、いちばん深いところが——ぐらり《・・・》、と、ひとつ、傾いた。
***
セレスティアは、ゆっくりと、歩み寄った《・・・・・》。
折れた前足を抱えて、雪のうえで、震える、巨大な銀の獣のほうへ。
一歩。
また、一歩。
彼女が、雪を踏むたびに——
ブーツのまわりの、血まみれの雪が、淡く、乳白色の光に《・・・・・・・・・》、包まれて、いく《・・・・・・》。
彼女は、それに、気づかなかった《・・・・・・・》。
ただ、銀の獣の、すぐそばまで、辿り着いた。
そして——
雪のうえに、両膝を、そっと、ついた。
***
両手を、ゆっくり、ゆっくり——
銀の獣の、血まみれの、巨大な頭、に。
添え《・》た《・》。
***
獣の、巨体が、ビクリ《・・・》、と、跳ねた。
千年。
誰にも、触れられたことのなかった、獣の身体が——触れられること《・・・・・・・》への、原初の、怯えを、見せた《・・・・・・・・・・》。
避けられ続けてきた、その毛並み《・・・・・・・・・・・・・》が——生まれて初めて、人の指のぬくもりを、感じていた《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
セレスティアは、手を、離さなかった。
ファルネーゼで——
ベルトの金具に打たれた、肩甲骨の青黒い痣を、自分で、何度も、撫でて——
痛みを、慰めてきた《・・・・・・・・・》、あの夜の、自分の手つきと、同じ手つきで《・・・・・・》。
ゆっくり、ゆっくり、銀の獣の、傷だらけの、その銀の頭を、撫で《・》た《・》。
「——もう」
声は、涙の混じらない《・・・・・・・》、ただ、優しい声、だった。
「もう、ご自分を——お傷つけに、ならないで、ください」
***
獣の、ぜいぜいという、苦しい、息が——ぴたり《・・・》、と、止まった。
***
その、息を、止めた瞬間に——
世界の、音、が、消え《・》た《・》。
雪の落ちる音。
針葉樹のあいだを抜ける、夜風の音。
遠くの、別の獣の遠吠え《・・・・・・・》。
——そういう、あらゆる、夜の森の音、が《・・・・・・・・・・・・・・》、す《・》っ《・》、と、消え《・》た《・》。
世界に残されたのは——
傷だらけの、巨大な銀の獣、と。
十七歳の、痩せた、白金の髪の少女、だけ《・・》、だった。
***
「お痛い、ですよね」
セレスティアは、しずかに、続けた。
「ご自分の、お身体ですもの。痛くないわけ、ないですよね」
「ねえ。——あなたは」
「あなたは、——どなたのことを、傷つけまいとして《・・・・・・・・・・・・・・・》、——ご自分のことを、こんなに、い《・》じ《・》め《・》て《・》、い《・》ら《・》っ《・》し《・》ゃ《・》る《・》の《・》」
***
銀の獣の、巨大な銀の頭が——
彼女の、両手のひらのなかで、ほんの、わずかに——震えた《・・・・・・・・・・・・》。
攻撃ではない。
怯えでも、もう、ない。
もっと、深い、何かに——魂の、深いところを、揺さ《・》ぶ《・》ら《・》れ《・》て《・》い《・》る《・》、震えだった。
***
セレスティアは、頬を、傷だらけの、銀の毛並みに、そっと、寄せた《・・・・・・・》。
血の匂いがした。
獣の体温が、した。
そして——誰よりも、孤独な、いきものの匂い《・・・・・・・・・・・・・・》が、した《・・》。
「私は——ここに、おります」
「あなたが、お休みになるまで——ずっと、ここに、おります《・・・・・・・・・・・》」
「私のことは——」
「——大丈夫」
ふっ、と、彼女は、微笑むようにして、付け加えた。
「打たれることも、罵られることも——慣れ《・》て《・》お《・》り《・》ま《・》す《・》、か《・》ら《・》」
「だから——どうか、もう、ご自分のことを、お傷つけに、ならないでください」
***
——世界が《・・・》、更に《・》、静か《・》に《・》、な《・》っ《・》た《・》。
雪の落ちる気配さえ——な《・》く《・》な《・》っ《・》た《・》。
いま、戻ってきたばかりの、銀の獣の、最後の理性——
その、いちばん奥のほうが——
セ《・》レ《・》ス《・》テ《・》ィ《・》ア《・》の《・》、そ《・》の《・》台詞を《・》——理解し《・》た《・》。
私は、打たれることに、慣れている《・・・・・・・・・・・・・・・》。
私は、罵られることに、慣れている《・・・・・・・・・・・・・・・》。
だから、もう、——自分を、傷つけないで《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
それは——獣にすら、わかった《・・・・・・・・・》。
目の前の、細い、白金の髪の少女、が——《・・・・・・・・・・・・・・・》
自分と、同じか、もしかしたら、それ以上の、地獄を、生きてきた《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
そして、その地獄を、彼女自身が——当たり前のもの《・・・・・・・》、として、もう、受け入れてしまっている、こと《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
***
銀の獣の、巨大な、銀の頭が——
セレスティアの、肩のあたりに、ことり《・・・》、と、預けられた《・・・・・》。
それから。
——金色の瞳から《・・・・・・》。
透明な、雫が《・・・・・・・》。
ひとつぶ《・・・・》——こぼれた《・・・・》。
***
化け物、と、千年呼ばれてきた、銀の獣の——
生まれて、はじめての、涙、だった。
雫は、雪のうえに、ぽとり、と、落ちた。
そして、雪を、金色の小さな円形に《・・・・・・・・・》、——溶かした《・・・・》。
その雫は——
銀の獣の血や、傷とも、違う。
ただ、ただ、純粋な——悲しみの、形、だった。
セレスティアは、それに——気づかなかった《・・・・・・・》。
ただ、肩にかかる、巨大な銀の頭の——重みと、温かさを。
そっと、両手で、受け止めながら——頬を、銀の毛並みに、寄せて、いるだけ、だった《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
***
——どれほどの、時間が、流れただろう。
彼女の体温が、ゆっくりと、銀の獣の身体に、伝わって、いく《・・・・・・・》。
彼女の指のなかで、銀の獣の、千年の、張り詰めた孤独が、す《・》こ《・》し《・》ず《・》つ《・》——溶け《・》て《・》い《・》っ《・》た《・》。
彼女の両手から——彼女自身は、知らない《・・・・・・・・・・》。
淡く《・》、乳白色の《・》、光が——
銀の獣の、傷だらけの体に、す《・》っ《・》と《・》、流れ込んで、いっていた。
折れていた前足が——あるべき位置に、戻った。
自傷の傷たちが——す《・》っ《・》、と、閉じて、いった。
血まみれだった銀の毛並みが——月光のように、白く、白く、澄んで、いった《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
ふたりを取り囲んでいた、瘴気の濃い霧が——半径数歩分、す《・》っ《・》、と、退いていた。
その範囲だけ——
雪が、まるで、花の香りを含んだ春の風のように《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、淡く、淡く、舞っていた。
セレスティアは、ただ、ぼんやりと、思っただけだった。
——あら。
——だんだん、おとなしく、なって、こられた。
——よかった。
そう、思って、心のなかで、——微笑んだ《・・・・》、だけだった。
***
銀の獣の、半眼に閉じられた金色の瞳は——
穏や《・》か《・》な《・》寝息を《・》、立て《・》始め《・》て《・》い《・》た《・》。
セレスティアの、膝のうえに——ほんの、軽く、頭を、預けて《・・・・・・・・・・・・》。
世界で、いちばん、安心している——子犬みたいに。
***
——東の空が、ほんのわずかに、白み始めた、ころ。
セレスティアの膝のうえで——
銀の獣の身体が、ぼうっ《・・・》、と——淡い、月光のような光に《・・・・・・・・・・・》、包まれた《・・・・》。
え《・》。
彼女は、息を、呑んだ。
光のなかで——
巨大な、銀の獣の輪郭が——徐々に、徐々に、縮んで、いく《・・・・・・》。
別のかたち《・・・・・》へと、溶けて、いく《・・・・・》。
***
光が——ふっ《・・》、と、収まった、とき《・・・・・・》。
セレスティアの膝のうえに、頭を預けて、眠っていたのは——
もはや、銀の獣では《・・・・・・・》、なかった《・・・・》。
***
背の高い《・・・・》——若い、ひとりの男、だった。
長い、月光のような銀の髪。
血の気のない、白すぎる肌。
夜空のような色の、長い、睫毛(——目は、まだ、閉じられていた)。
細く、整った——完璧に近い、造形の、顔立ち。
しかし——
頬から、首筋、裸の鎖骨、肩、胸——あらゆる場所に《・・・・・・・》。
さっきまで銀の獣の身体に刻まれていたはずの、——自傷の傷の名残が、うっすらと、白く、刻まれていた《・・・・・・・・・・・・・・》。
新しい傷は、塞がっていた。
けれど《・・・》。
古い《・・》、古い《・・》——千年積み重なった傷の残痕だけは。
彼の肌に《・・・・》、痛々しく《・・・・》、白い線として、刻まれていた《・・・・・・》。
そして——彼は、裸だった《・・・・・・・・》。
銀の獣から、人の姿に戻った、その瞬間の——
何の鎧も、なにもまとっていない、無防備な、《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》生まれたままの、ひとりの男、だった。
***
セレスティアの、頬が——ぼっ《・・》、と、赤くなった《・・・・・》。
——え。
——え、ど、どなた《・・・》、ですか。
——男の方……?《・・・・・・・》
——裸の、男の方……?《・・・・・・・・・・》
恥じらいで、はじけた、ような、頬の、赤み。
——けれど。
彼女の、頬の赤みは——たった、一瞬で《・・・・・・》、消えて、しまった。
なぜなら。
膝のうえの、その、若い男の——傷だらけの体、を、見たから。
頬の、薄い線。
首筋から、肩へと走る、深い線。
鎖骨を、横切る、無数の、白い、爪痕。
彼が、千年——ずっと——
自分自身の爪で《・・・・・・・》、自分の体を《・・・・・》、引き裂き続けてきた、その痕跡。
***
セレスティアの、胸の、奥のほうの——
だれにも、開かれたことのなかった、扉、が——
そ《・》っ《・》と《・》、開い《・》た《・》。
——……守らなければ《・・・・・・・・・》。
そう、思った《・・・・・・》。
男の人だから、とか。
裸だから、とか。
そういうことよりも、——もっと、ずっと、深いところで《・・・・・・・・・・・・・》。
私が、守らなければ、いけない《・・・・・・・・・・・・・》——傷だらけの、いきもの《・・・・・・・・・》——なのだ、この方は《・・・・・・・・》。
そう——思って、しまった《・・・・・・・》。
***
セレスティアは、自分の身に纏っていた、毛織りの外套を——
ゆっくりと、脱いだ《・・・》。
そして、それを——
膝のうえの、男の、傷だらけの、裸の身体、に——そっと、かけた《・・・・・・》。
外套の襟元を、——男の、鎖骨の傷を、覆うように《・・・・・・・・・・・・・》、柔らかく、整えた《・・・・・・・・》。
そして、彼女は——
寝衣一枚の、薄い肩を、夜の寒さに、ふるりと、震わせた。
けれど、それに、彼女は、——気づかなかった《・・・・・・・》。
ただ、膝のうえの男の、——静かな寝顔だけを、見つめていた。
***
——あの。
心の中で《・・・・》——彼女は《・・・》、そっと、問いかけた《・・・・・・・・・・》。
——どなた、ですか。
——もしや《・・・》。
——あの方、で、いらっしゃ、いますか?《・・・・・・・・・・・・・》
***
その、瞬間。
膝のうえの男の——閉ざされていた、長い睫毛が。
わずかに、震えて《・・・・・・・・》——
わずかに、——開きかけた《・・・・・・・・・》。
夜明け前の、青みがかった、淡い光に——
うっすらと、夜空の色をした瞳が、覗いた、その、瞬間《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》——
***
血の月、——沈んで、ゆく《・・・・・・》。




