# 第5話 化け物の城の、優しい人たち
ぎ、ぎ、ぎ——
漆黒の城門が、ゆっくりと、その重い扉を、開いていく。
無数の、静かな足音が、闇の奥のほうから、こちらへ、近づいてきた。
セレスティアは、母の指輪を、左手の薬指のうえで、ぎゅっと、握りしめた。
——刑吏が、参るのですね。
——あるいは、私を、別の場所へ、連れて行く、兵が。
ファルネーゼで、十二年。
彼女が「迎え」というものに対して持ちうる、唯一の想像力は、ただ、それだけだった。
しかし——
城門の、闇の奥から、現れたのは。
刀を抜いた者では、なかった。
***
正装の、城使用人たち。
二列に、整然と並び、彼女に至る道筋を、挟むように——その全員が、片膝をついて、深く、深く、頭を垂れていた。
老いた家令らしき白髪の男。まだ若い侍女たち。剣を腰に佩いた騎士装の男たち。白い制服の料理人らしき男女。
|誰一人として、彼女に剣を向けていない《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
セレスティアは、その光景の前に、立ち尽くした。
——どういう、こと?
使用人たちの隊列の、先頭。
ひとり、すっきりと、立ち姿の整った、黒衣の長身の男が、いた。
漆黒の、フード付きの外套。腰には、装飾を排した黒鞘の細剣。
その男が、滑るような所作で、彼女の前に進み出て——
胸に片手を当て、完璧な礼を、執った。
「お待ちしておりました」
声は、低く、事務的だった。
「——皇妃候補殿下」
……皇、妃、候補。
その単語が、頭のなかで、何度か、ゆっくりと、回った。
意味が、すぐには、結ばなかった。
男が、ゆっくりと、フードを、外す。
現れたのは、銀色に近い灰色の髪と、右目を覆う黒い眼帯——そして、もう片方の。
灰色の、鋭い瞳。
その瞳は、声と同じく、ひどく冷静だった。
冷たい鋼のような、職務に徹した瞳。
——けれど。
その奥に、ほんの一瞬だけ。
|セレスティアにだけ、わかってしまう種類の《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、熱、が、灯っていた。
濡れてはいない。震えてもいない。
ただ、長い、長いあいだ、ひとつのことを、ただ、待ち続けてきた男だけが宿せる種類の——あの、熱。
「私は、クロウ。我が主の、影を統べる者にござります」
声は、変わらず、冷たいまま。
「我が陛下より、|貴女様を「皇妃候補」として、最大限の礼をもって、お迎えせよ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》——との、ご下命にござります」
「——え」
「贄、として、お迎えするつもりは、当初より、ござりませなんだ」
「……」
「ファルネーゼ王国に発したご通達のなかには、確かに、その文言は含まれておりましたが——あれは、彼の国のお国柄に、無用の刺激を与えぬための、便宜上の、表現にござりまする」
セレスティアは、呆然と、立ちつくしていた。
——お迎えに、来ていた。
——“贄”ではなく、“皇妃候補”として——
——あの帝国の皆様が、私を、待っていて、くださっていた。
——私を?
——無能、と、呼ばれて、捨てられた、私を?
頭が、追いつかなかった。
ただ、母の指輪を、もう一度、強く、強く、左手で、握りしめた。
***
クロウに導かれて、彼女は、城の中へと、進んだ。
ヴァルガルド帝城——
ファルネーゼの王宮よりも、はるかに広大で、はるかに静謐な、荒涼たる美しさの館だった。
磨き上げられた黒大理石の床。
白銀の燭台に、深紅の絨毯。
尖塔のあいだから差し込む、蒼い月光。
ただし、人が、極端に、少ない。
城は、明らかに、その規模に対して、生きている使用人の数が、足りていなかった。
すれ違う使用人たちは、皆、彼女を見ると——
はっと息を呑んで、即座に目を伏せ、片膝を、ついた。
その動作は、儀礼そのものだった。
けれど。
彼らの目の、奥のほうにあったのは。
|憐れみ、では、なかった《・・・・・・・・・・》。
警戒、でも、なかった。
——|何かを、希う、ような、色。
セレスティアは、戸惑った。
——みなさんは、私に、いったい、なにを、望んでいらっしゃるの。
答えを聞くより先に、彼女は、ひとつの扉の前に、辿り着いていた。
***
通された、貴賓室。
扉が、開かれた、そのとき。
セレスティアは、思わず、息を呑んだ。
暖炉に、轟々《ごうごう》と、燃え盛る、橙色の炎。
磨き抜かれた樫の机に並べられた、銀のティーセットと、湯気の立つ深皿のスープ。
寝台の脇には、清潔な、絹の寝衣。
奥の扉を開ければ、湯浴みの用意が、整っているらしかった。
——これは。
——これは、|ファルネーゼで、十二年、私から奪われ続けてきた、|そのすべて《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、だ。
胸の奥が、妙に、痛んだ。
「これは——」
彼女は、おずおずと、クロウに、尋ねた。
「これは、——どなたの、お部屋ですか」
クロウの、灰色の瞳が、ほんの少し、見開かれた。
「ご無体な。——もとより、貴女様の、お部屋にござります」
「私の」
「本日より、ヴァルガルド帝国全体が、貴女様にお仕えする部屋にござります」
淡々と、それを述べる、クロウの声は。
依然として、事務的だった。
涙ぐむことも、声を震わせることも、決して、なかった。
ただ、その瞳の奥の、あの熱が——
ほんの少しだけ、——揺れた、ようには、見えた。
***
「お困りのことが、ござりましたら、わたくしの名を、お呼びくだされ」
クロウは、最後に、もう一度、深く頭を垂れて、退出していった。
扉が閉まる——その、わずかな間際に。
部屋の奥のほうから、聞き慣れない、女性の声が、かかってきた。
「——ご無事で、なにより」
***
声の主は。
暖炉の脇、深紅のソファに、片足を行儀悪く組んで、すでに、座っていた。
二十代後半とおぼしき、すらりと長身の女性。
燃えるような赤毛を、頭の高い位置で、ゆるりと結い上げている。
深紫の魔導士外套の襟元から、白い喉が、覗いている。
女は、彼女の姿を認めると、ソファから、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、セレスティアの全身を、上から、下まで——まじまじ、と、見た。
その瞬間、女の目が——
ふっ、と、軽く、見開かれた。
「……まあ。すごい」
ぽつり、と、女が、呟いた。
その声には、|魔導士としての、深い、深い驚愕が、混じっていた。
「あの——」
「いえ、こちらのこと」
女は、首を振って、にこり、と、綺麗な、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね、お嬢さん。ちょっと、想定外のものを、見てしまっただけだから」
セレスティアの、頭は、混乱していた。
——想定外?
——なにが?
女は、片手を差し出して、自分のことを、こう、名乗った。
「アタシは、ジークリンデ。気軽に、ジーク、と呼んでちょうだい」
「帝国筆頭魔導士。——そして、今宵から、あなたの『魔力指導役』を、仰せつかった、しがない一介の女よ」
セレスティアは、その手を、おずおずと、取った。
女の——ジークの——手は、|男のように節くれ立って《・・・・・・・・・・》、硬く、温かかった。
「魔力、指導……?」
セレスティアは、心の底から、申し訳なさそうに、首を、振った。
「あの——私には、魔力など、ございませんが」
ジークの片眉が、くいっ、と、上がった。
それから、にやり、と、悪戯っぽく、笑って——
「あらそう」
「じゃあ、それを——最初の課題に、しましょうね」
くす、と、笑う。
「ま、いまは、お疲れでしょ。湯浴みでも、夕餉でも、ゆっくりお召しになってちょうだい。詳しいお話は、明朝に」
ジークは、ひらり、と、外套を翻して、扉のほうへ歩きだした。
が、扉の手前で、ふと、立ち止まり——
半身だけ、振り向いて、彼女に、つけ加えた。
「あなた、本当に——無傷、で、おいでなのね」
「……?」
「いえ、なんでもない。湯あたりには、気をつけてね」
扉が、静かに、閉まった。
あとには、|薄く、首を傾げたままの、セレスティア《・・・・・・・・・・・・・・・・・》、だけが、残された。
***
「お嬢様。湯浴みのご用意が、調っております」
奥の扉が、しずかに、開いた。
現れたのは、ジークとは、まるで違う種類の、静謐な気配の老婆だった。
灰色の髪を、後ろで小さくきっちりと束ね、よく洗濯された、上等な麻のお仕着せをまとっている。
痩せた、皺の刻まれた指。けれど、その指先は——子供のように、繊細だった。
「わたくしは、本日より、お嬢様付きを仰せつかりました——アンナ、と、申します」
アンナは、深く、ひっそりと、頭を、下げた。
その挨拶ひとつ取っても——
ファルネーゼの王宮のどの侍女よりも、品があった。
***
湯気の立つ、白い、白い、大理石の浴槽。
ほのかに甘い、香油の混じった、花の匂いの湯。
アンナは、まずセレスティアの長い銀混じりの白金の髪を、ゆっくり、ゆっくり、湯で洗った。
ファルネーゼでは、誰にも、こんな丁寧に髪を洗ってもらったことはなかった。
次に、アンナの皺の手が、彼女の背中に、絹のような布を、当てた。
肩から、肩甲骨。
肩甲骨から、腰。
ゆっくりと、優しく、上下に、撫でるように——
その、布が。
ぴたり、と、止まった。
***
止まったまま、——動かなかった。
セレスティアは、最初、なにが起こったのか、わからなかった。
アンナは、なにも、言わなかった。
悲鳴も、上げなかった。
涙も、こぼさなかった。
ただ。
|凍りついたように、動きを止めたまま《・・・・・・・・・・・・・・・・》——
長い、長い、沈黙だけが、白い湯気のなかに、どろり、と、漂っていた。
その沈黙は——
彼女に、強烈な、不安を、呼び起こした。
ファルネーゼで、十二年。
誰かが、彼女に対して、不意に、動きを止めたとき。
それは、決まって、|これから、自分が叱責される予兆だった。
ベルトを取り出される、扇を振り上げられる、火かき棒の柄が握り直される——その、直前の沈黙。
セレスティアの、肩が、ほんの少し、強張った。
そして、彼女は、おずおずと、振り向くこともできずに、自分から先に、|消えるような小声で、こう、尋ねた《・・・・・・・・・・・・・・・》。
「……あの。——お湯の温度が、お気に召しませんでしたか?」
「もしくは——私の身体が、お、お気に障るような、汚れ方を、しておりましたら」
「申し訳、ござ、いませ——」
言葉の途中で。
うっ、と。
背中の真後ろから——絞り出すような嗚咽が、彼女の耳を、打った。
***
「……ち、違い、ます」
アンナの、震える、ひどく低い、しわがれた声。
「ち、違うのです、お嬢様。違うのです……」
「ただ——」
「ただ、湯気が、——目に、染みただけ、にございますから」
——嘘だ、と。
セレスティアにも、わかった。
けれど、なにも、言えなかった。
アンナの、皺の手が、震えながら、もう一度——
今度は、|気をつけて、気をつけて《・・・・・・・・・・・》、彼女の背中に、布を、当てた。
布の動きが、——赤黒い、古い痣たちを、ひとつ、また、ひとつ、なぞっていく。
ベルトの金具の、丸い痕。
扇の角の、鋭い、裂け。
火かき棒で叩かれた、楕円形の、いつまでも消えなかった、紫色の名残。
アンナの嗚咽は、それきり、止まらなかった。
声を上げまいと、必死に、唇を噛みしめている気配が、湯気のなかに、伝わってくる。
「……お嬢様」
「これからは——」
「これからは。ヴァルガルドの城は」
「もう、お辛い目には、|あなた様を、お遭わせいたしません《・・・・・・・・・・・・・・・》」
「これは、わたくしどもの、主ばかりではござりません。城の全員の、お約束にござります」
***
セレスティアの、頬を。
温かいものが、ひとつぶ、ふたつぶ、転がり、落ちた。
悲しい、というのとは、違った。
ただ——
|誰かが、私のために、泣いてくださっている《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、ということを。
彼女は、人生で、初めて、知った。
***
湯から、上がって。
清潔な絹の寝衣を、着付けながら——
セレスティアは、おずおずと、アンナに、尋ねた。
「あの——」
「森で、私を、迎えてくださった……|銀色の、大きな、お方は《・・・・・・・・・・・》」
アンナの、シーツを整える手が、ぴたり、と、止まった。
「——お会いに、なられたのですね」
声は、しずかだった。
「あの方は——わたくしどもの、主、にござります」
「……ご主人さま」
「皇帝陛下、ではなくて?」
アンナの、表情が、ほんの少し、揺らいだ。
深く、深く、息を、吐いて——
それから、覚悟したように、唇を、開いた。
「——わたくしどもの陛下は」
「お姿を、——月にひとたび、奪われて、おいでです」
セレスティアの、息が、止まった。
「今宵は、——血の満月」
「陛下が、——一年でもっとも、お苦しみになる夜、に、ござりまする」
***
アンナが、退室したあと。
ひとりになったセレスティアは、ふらふらと、窓辺に、歩み寄った。
窓の外。
夜空に、まるで、傷口のように——
|血の色に染まった、満月が、煌々と、懸かっていた。
そして、ずっと、ずっと、城の奥——あるいは、城の外、深い森の彼方から。
長い、長い、遠吠えが、響いてきた。
あの、声。
第3話、国境を越えた森のなかで、彼女が「哀しい歌のようだ」と感じた、あの、声。
胸が、ぎゅっと、痛んだ。
——あの方は。
——今、お苦しみに、なっていらっしゃるのですね。
左手の指輪を、胸に、強く、押し当てる。
——お母様。
——お会いするのは——もう少し、先に、なるかも、しれません。
——私には、——たぶん、まだ、しなければいけないことが、あるのかもしれませんから。
***
そのとき。
どん、と。
ノックも、なしに——
部屋の扉が、勢いよく、開け放たれた。
飛び込んできたのは、ジークリンデ。
さっきまでの悪戯っぽい余裕は、消えていた。
息が、あがっている。
赤毛が、わずかに、乱れている。
「セレスティア様」
言葉遣いが、|呼び捨て交じりだったときと比べて《・・・・・・・・・・・・・・》、敬称に変わって、いた。
「緊急事態よ」
その声は、震えていた。
「——陛下が、|今宵、城に、お戻りに、ならない《・・・・・・・・・・・・》」
「森のなかで、——狂気に、お呑まれかけている」
「もしこのまま、夜明けまで、お戻りに、ならねば」
「陛下は、——完全に、獣に、墜ちる」
「クロウを含め——誰一人として、陛下に、近づけない」
ジークの瞳が——
まっすぐに、セレスティアを、捉えていた。
乞うような、瞳だった。
「でも——たったひとつだけ、可能性が、ある」
「陛下が——|あなたに、お会いになってから《・・・・・・・・・・・・・・》、——|千年ぶりに、お声を、お絞りに、なった《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、と——」
「クロウから、聞いたの」
***
セレスティアの、胸の、奥が——
はじめて、どきり、と、激しく、跳ねた。
千年ぶり、に。
——あの、銀の獣が。
——人の、言葉を。
「ねえ、お願い」
ジークが、ふいに、片膝を、ついた。
帝国筆頭魔導士の——位を、誇り高くまとう女が。
まだ出会って一刻も経たない、年若の異国の娘の前に。
「——|私たちを、助けて」
声は、もう、震えていなかった。
ただ、|まっすぐに、彼女のことを、必要としていた《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
「私たちを、——陛下を、——助けて、くださいませんか」
***
セレスティアの、心の奥で。
なにか、——|今までと、まったく違うかたちの感情、が、ゆっくりと、こみあげてきた。
——“役に立て”、と、命じられたのでは、ない。
——“利用される”ために、必要とされたのでは、ない。
——尊い者として、必要と、されている。
ファルネーゼで、十二年。
彼女が、誰かに「必要」とされたとき、その「必要」は、|常に、便利な道具としての必要だった。
いま、目の前で片膝をつく、この、誇り高い、赤毛の女が、こちらに向けている「必要」は——
|まったく、別の、種類の、「必要」《・・・・・・・・・・・・・・・》、だった。
セレスティアの瞳が、ほんの少しだけ、潤んだ。
膝立ちのジークのほうに、彼女は、ひとつ、ゆっくりと、歩み寄った。
そして、自分も——そっと、その場に、跪いた《・・・・・・・・・・・・》。
目線を、あわせる、ために。
「……ジークさま」
「私は、——魔力など、なにも、わかりません」
「あの方の、お助けの仕方も、知りません」
「ただ」
ふっ、と、彼女は、微笑んだ。
その微笑みは——
|十七年生きてきて、彼女が初めて浮かべた、まっすぐな微笑み《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、だった。
「私の、できることが、もし、なにかひとつでも、あるのなら」
「——お連れ、ください」
「あの方の、もとへ」
***
——同じ夜。
はるか、西。
ファルネーゼ王国、王宮の最奥、王妃ベアトリスの寝室。
医師たちの顔は、もう、完全に、青ざめていた。
「もう、——どのような薬も、お利きに、なりませぬ」
「このまま、夜が明けるまで、もちますかどうか——」
寝台の上では、王妃ベアトリスが、——
うわごとで、何度も、何度も。
「——なぜ、あの娘は、まだ、生きているのよ」
と、繰り返していた。
血の月、今夜。
ふたつの国の、運命が——同じ刻に、|静かに、回りはじめていた《・・・・・・・・・・・・》。




