# 第4話 銀狼の口づけ
夜が、明けた。
セレスティアは、馬車のなかで、目を覚ました。
ヴァルガルド帝国側の、深い針葉樹の森の、朝。
窓の外には、薄い、青みがかった霧が、ゆるゆると、流れていた。
——昨夜の、金色の瞳。
あれは、夢、だったのだろうか。
森の奥に、それきり、獣の気配は、もう、ない。
ただ、湿った苔と、針葉のあおい香りだけが、朝の静けさを、満たしていた。
***
「お嬢さん」
御者台の老人が、控えめに、声をかけてきた。
「もう、すぐ——引き渡し地点、です」
セレスティアは、頷いた。
馬車は、しばらく走ったあと——森のなかの、ぽっかりと開けた、円形の空き地に、辿り着いた。
そこには、すでに、一台の馬車が、無人で、止まっていた。
四頭立ての、漆黒の、塗装の艶やかな箱馬車。
その御者台に、御者は、いない。
代わりに、御者の座すべき場所に——銀色の毛皮が、一枚、鋲で止められていた。
ヴァルガルド帝国の、「迎え」の、印だ。
人ではなく、獣の毛皮が、迎えに、立っている。
「これより先は、儂の馬車では、入れぬ取り決めにござりやす」
老人の、声が、重く、低い。
セレスティアは、馬車を、ゆっくりと、降りた。
***
朝の空気は、ひんやりと、凛として、鼻の奥まで、清らかだった。
老人は、馬車の脇で、手綱を握ったまま、しばらく、なにも言わずに、彼女を見つめていた。
そして、震える唇で——
「儂は——ヤン、と申します」
ぽつり、と、零した。
「お嬢さんに、お話しすべきことが、あったわけじゃ、ござんせん。ただ——せめて、最後に、名乗りもしねえじじいに送られちゃ、お嬢さんが、寂しかろうと、思いやして」
「……ヤン、さん」
セレスティアは、その名前を、口の中で、繰り返した。
ヤン。
彼女の人生で——意味のある名前、になってくれた、最初の、名前。
懐から、彼女は、小さな革袋を、取り出した。
ファルネーゼを発つ前に、形ばかりの「死出の路銀」として、王宮の家令から渡された、わずかな銀貨たち。
その革袋の口を、ヤンの、節くれ立った手のひらに、押しつける。
「あの。これを」
「お、お嬢さん——」
「私には、もう、必要のないものですから」
少しだけ、笑った。
「ヤンさん。——これで、しばらくは、温かいスープが、飲めますね」
ヤンの、皺の深い顔が、ゆっくりと、歪んだ。
それから、その細い、痩せた肩が、震えだした。
七十を越えていようかというその老人は、皺の奥から、ぼろり、ぼろりと、大粒の涙を零して、声を、上げて、泣いた。
「……お嬢さん」
「お嬢さん、お嬢さん——どうか、どうか、ご無事で」
「儂のような、ろくでなしが祈っても、なんの効き目もござんせんが」
「それでも、儂は、毎日、ファルネーゼに帰る道々——お嬢さんが生きておいでなさいますよう、祈ります」
セレスティアは、なにも、言えなかった。
ただ、その老人の、震える肩に、そっと、手を置いた。
それは、彼女が、十七年生きてきて、初めて——誰かを慰めた、瞬間、だった。
***
ヤンの馬車が、霧の向こうへ、消えていく。
それを、セレスティアは、しばらく、見送っていた。
馬車の輪郭が、霧に溶けて、見えなくなって。
やがて、車輪の音すら、聴こえなくなって。
それから、彼女は、ゆっくりと——無人の、黒い馬車のほうへと、向き直った。
***
馬車に、近寄る。
御者は、いない。
それなのに、四頭の馬たちは、おとなしく、その場で、待機していた。
彼女が近づくと、ぴく、と、耳だけが、動いた。
降りなさい、と、言うように。
乗りなさい、と、言うように。
セレスティアは、ためらわなかった。
漆黒の扉に、手をかける。
中は、ファルネーゼの王宮の、どんな貴賓室よりも、贅沢な、深い赤色のビロード張りだった。
彼女が腰を下ろすか下ろさないかの、その瞬間。
——馬たちが、ふっ、と、歩きだした。
合図なく。
誰の鞭も、誰の声も、ないままに。
まるで、|目に見えぬ何かに導かれて《・・・・・・・・・・・・》いるかのように、馬たちは、滑らかに、北東へと、歩を、進めはじめた。
***
森が、変わっていった。
しばらく走ると、針葉樹の幹は、徐々に、見たこともないほど黒いものへと変わり——
やがて、地面の苔は、どこか、ぼんやりと、青く燐光を放つようになり——
空気そのものが、ゆっくりと、重く、湿っていった。
馬車の、車輪の音だけが、ガタゴト、ガタゴト、と、不気味なほど規則正しく、その異界のなかに、響いていく。
セレスティアの心臓が——
初めて、はっきりと、恐怖、を、覚えた。
——ああ、これは。
——これは、もう、人間の世界では、ないのだわ。
息が、わずかに、浅くなる。
——けれど。
その恐怖は、しばらくして、ふっ、と、奇妙な静けさに、変わった。
——……そうか。
セレスティアは、目を、閉じた。
——私は、もう、死んでいるのだ。
——これは、冥府への、道なのだ。
——ファルネーゼの、あの広間で、十二年前に殺されかけたのが、ようやく、いま、追いついてきたのだ。
そう思うと——|不思議なほど、心が静かに《・・・・・・・・・・・》、なった。
膝のうえで、両手を、軽く、組む。
左手の、薬指の、指輪を、右手の親指で、そっと、撫でる。
——お母様。
——もうすぐ、お側に、参ります。
***
馬車が、ふと、止まった。
森の、最奥。
夕刻——いや、もしかしたら、ここでは時間そのものが、すでに、おかしくなっているのかもしれなかった。
馬たちが、急に、怯えたように、いなないた。
そして——馬具を、自分から、ほどいた。
ありえないことに、四頭の馬は、御者もいないというのに、自分たちで、馬車から、するり、するり、と、繋ぎを抜けて——
そして、四方の闇のなかへ、一目散に、逃げ散った。
馬車だけが、残された。
そして、その車中の——セレスティア、ひとり。
霧が、馬車の周囲に、立ち込めはじめる。
息が、白くなる。
一瞬、——森の、すべての音が、消えた。
そして——
霧の向こうに。
圧倒的な質量が、立った。
***
銀狼。
体高、馬の背を、はるかに、超える。
銀の、月光のような毛並み。
湿った霧のなかで、それ自身が、ぼんやりと、白銀に、発光しているような——巨大な、巨大な、獣。
そして、その獣の、額のあたりに、灯る——
金色の、瞳。
昨夜、針葉樹の森のあいだから、彼女ひとりだけを凝視していた、あの瞳。
セレスティアの、息が、止まった。
しかし——
震えなかった。
膝のうえで握っていた両手を、もう一度、強く、組み直した。
ただ、それだけだった。
***
銀狼は、ゆっくりと、ゆっくりと、馬車のほうに、歩み寄ってきた。
一歩。
また、一歩。
霧が、その巨大な銀の身体を、撫でるように、左右に、ゆれて、流れていく。
そして——馬車の扉の、ちょうど真正面に、立った。
その鼻先を、馬車の、漆黒の扉に。
こん、と、ひとつ、軽く、押し当てた。
——降りろ、と。
そう、言わんばかりに。
***
セレスティアは、深く、ひとつ、呼吸を、した。
母の指輪を、左手の薬指から——抜きはしない。
ただ、もう一度、強く、強く、胸に、押し当てた。
そして。
静かに、自分の手で、扉を、開けた。
***
馬車から、降りる。
地面に、ブーツの底が、つく。
霧の冷たさ。湿った苔の感触。
そして、目の前に——
彼女の、身長の、ゆうに二倍はあろうかという、銀色の獣が、いた。
その、巨体。
その、獣気。
その、——金色の、瞳。
低く、低く——
「……グルル、ル、ル……」
唸り声が、銀狼の、喉の奥から、漏れた。
牙が、ちらり、と、覗く。
牙のあいだから、漏れる、熱い獣の息|が、彼女の、顔の前に、ふわっ、と、かかった。
——大丈夫。
セレスティアは、自分に、そう、言い聞かせた。
——大丈夫。これで、終わるのだから。
そして、彼女は——
銀狼の、巨大な、その金色の瞳を、まっすぐに、見上げた。
「……あなたが」
声が、ほんの、わずかに、掠れただけ。
「あなたが、——私を、食べてくださるのですね」
***
銀狼の、耳が、ぴく、と、わずかに、動いた。
セレスティアは、ふっ、と、目元だけで、微笑んだ。
「どうぞ。覚悟は、もう、ずっと前から、できております」
「ただ——ひとつだけ、お願いが、ございます」
銀狼は、動かなかった。
セレスティアは、左手の、薬指の指輪を、右手で、そっと、撫でた。
「私の、左手の——この指輪だけは。一緒に、お呑み込みに、ならないでください」
声は、しずかだった。
「これは、——亡くなった、母の、形見、ですから」
「もし、できることなら——私を、お食べに、なったあとで」
「どこか、土の見える場所に。土のうえに——そっと、置いて、いって、いただけませんか」
「私は、雨に濡れるのが、好きでした」
「だから、土のうえに置いてくださると——指輪も、たぶん、いつか、雨に濡れて、嬉しがって、くれると、思いますから」
***
銀狼は——
動かなかった。
唸り声が、止まっていた。
ちらり、と覗いていた牙が、ゆっくり、ゆっくりと、閉ざされた。
金色の瞳のなかで——なにかが、揺れた。
それは、獣のものでは、ない、揺らぎ、だった。
揺れた。
揺れた。
揺れて——
そして。
巨大な、銀の獣が——
信じられないほど、ゆっくりと——
その、湿った、温かい、鼻先を。
セレスティアの、頬、に。
寄せた。
***
ふ、と。
頬に、なにか、湿ったものが、触れた。
熱い。
温かい。
それは、彼女がこれまで、想像していた——「化け物の口」とは、まるで違う、温度だった。
獣の鼻先は、彼女の頬に触れたまま、しばらく——微かに、震えていた。
怯えではない。
攻撃でもない。
もっと、深い、何かに——揺さぶられたような、震え。
セレスティアは、その鼻先の温かさに、戸惑った。
——温かい。
——ああ、なんて、温かいの。
——私が、これから、食べられるはずの、化け物の鼻先が。
——こんなに、温かい、なんて。
そして、彼女は——
ファルネーゼの、教会で、ろうそくを灯したあのときと、同じ、おずおずとした手つきで——
自分の指先を、その、銀の獣の、鼻先に、そっと、添えた。
***
その、瞬間。
銀狼の、巨大な体躯の周囲に、ずっと立ち込めていた——黒く、瘴気のように重かった霧が、すっ、と。
退いた。
獣の、銀の毛並みが、霧の向こうから差し込み始めた、淡い月光に、清らかに照り映えた。
その変化を、セレスティアは、気づかなかった。
ただ。
その、金色の瞳の、深いところに——寂しさ、を、見つけて。
そっと、心の中で、呟いた。
——化け物、と、皆さん、おっしゃっていたけれど。
——なんて。
——なんて、寂しい目を、なさっているの。
***
しばらく、して。
銀狼は、ゆっくりと、後ろに、退いた。
そして、彼女に背を向けて、四足で、ゆっくりと、歩きはじめた。
——ついて、来い、と。
そう、言わんばかりに。
セレスティアは、ふらふらと、それに、従った。
***
森の最奥、霧の、向こう。
そこに——聳え立って、いた。
漆黒の、巨大な、城塞。
月明かりに、ぼんやりと浮かび上がる、その、圧倒的な威容。
尖塔のひとつひとつが、夜空の星々を、串刺しにするように、天を突いている。
——ヴァルガルド、帝、城。
セレスティアは、息を、呑んだ。
***
城門の、すぐ手前。
銀狼が、ふと、足を、止めた。
そして——振り向いた。
その、巨大な、銀の頭が、彼女のほうに、ゆっくりと、廻った。
金色の瞳が、まっすぐに、彼女を、捉えた。
その、瞳の、奥に。
ほんの、一瞬だけ。
——人の理性の光|が、灯った。
獣のものでは、ない。
獣のものでは、決して、ない、意思の光。
そして。
信じられないことが、起きた。
銀狼の、喉の奥から——
低い、ひどくかすれた、長く錆びついていたかのよう|な——
人の、声|が——
絞り出された。
「……お、まえ」
セレスティアの心臓が、初めて、激しく、跳ね上がった。
「お、前——」
「なぜ——震えない」
***
銀狼は、それきり、もう、なにも、言わなかった。
たどたどしい、ひどく不器用な、——人の言葉。
それを、たった一言だけ、置き土産のように残して——
銀狼は、城門の、奥の闇へと、ゆっくりと、ゆっくりと、消えていった。
残されたセレスティアは、しばらく、その場に、立ち尽くしていた。
——人の、言葉……?
胸の、鼓動が、止まらない。
さっきまでの、奇妙な達観が、いま、急に、崩れていく。
——あれは、——獣、では、なかったの。
そのとき。
ぎ、ぎ、ぎ、と。
ヴァルガルド帝城の、巨大な、漆黒の城門が——轟音とともに、開いた。
そして。
闇の、奥の、奥の、はるか向こうから——
無数の、静かな、足音|が——
彼女のほうへ、近づいて、来た。
血の月、今夜。
---




