# 第3話 血の月、前夜
夜が明ける前の、いちばん深い闇のなかで——
セレスティアは、夢を見ていた。
ひどく、懐かしい夢だった。
幼い自分の髪を、後ろからゆっくり梳いている、白い指。
——母の、指だった。
幼いセレスティアは、ふんわりとした絨毯のうえに座って、編んでもらうがままに、目を閉じていた。
母の声が、囁いている。
「セレスティア、あのね」
「あのね、北は——こわくないのよ」
「北は、お母様の、ふるさと」
お母様?
そう、聞き返したかった。
けれど、声が、出ない。
「だから、もし、あなたが、いつか、北へ——」
その続きを、聞きたかった。
けれど、そこで——夢は、唐突に、終わった。
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目が、覚めた。
馬車の、規則正しい揺れ。
窓の外は、まだ、青みがかった夜明け前の闇に、淡く沈んでいる。
セレスティアは、しばらく、夢の余韻のなかで、ぼんやりとしていた。
頬に、ひとすじだけ、温い涙の跡があった。
——母の声が、こんなに近く聴こえたのは、何年ぶりだろう。
六歳の冬に、母を失ってからずっと——夢の中ですら、母はもう、声を聞かせてはくれなかったのに。
ふと、左手の薬指の、銀の指輪に、視線を落とす。
——え。
胸が、小さく、跳ねた。
台座に嵌められた、薄青い石。
いつもは、ほとんど色さえ薄れて見える、ただの古い、傷だらけの石。
それが、いま——
ほのかに、ほんのわずかにだけ。
青く、灯っている。
息を呑んで、瞬きを、二度した。
そのころには、もう、石は、ただの石に戻っていた。
——気のせい、よね。
セレスティアは、自分にそう、言い聞かせた。
窓の外で、夜が、ゆっくりと、白み始めていた。
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その日の昼前。
馬車は、ファルネーゼ最後の街——境街リエヴァに、入った。
国境へ向かう旅人が、最後の補給を済ます街。
石畳に、馬蹄の音と、荷車の軋みと、商人たちの声が、賑やかに重なって響いている。
「お嬢さん。しばらく、街を歩きなさるか」
御者台の老人が、馬の首を撫でながら、ぶっきらぼうに、そう言った。
「水と糧食を仕入れるのに、儂は半刻ばかしかかる。——馬車に閉じ込めておくほど、儂は薄情者じゃあ、ない」
セレスティアは、深く、頷いた。
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黒のフードを目深に被ったその姿は、どこから見ても、ただの細い、若い、貧しい旅人で——王女としての面影は、もう、どこにもなかった。
誰も、彼女を、見咎めなかった。
誰も、彼女に、声をかけなかった。
それが、奇妙なほどに、心地よかった。
ふと——ささやかな広場の片隅に、古い、小さな教会が、建っていた。
石造りの、苔むした、慎ましい教会。
扉が、半ば、開かれていた。
セレスティアは、なぜか、足を止めた。
なぜ立ち止まったのか、自分でも、わからなかった。
ただ、夜明け前に見た夢の——母の白い指の感触が、まだ、髪の上に残っているような気が、しただけだった。
誘われるように、彼女は、教会の中に入った。
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堂内は、薄暗かった。
長椅子の最前列に、ひとりだけ、深く皺の刻まれた顔の老婆が、座っていた。
固く合わせた指。深く、深く、頭を垂れて——一心に、なにかを、祈り続けている。
セレスティアは、その後ろ姿を、しばらく、ただ、見つめていた。
——羨ましい、と、思った。
あの方には、神様にお願いしたいことが、まだ、お有りなのだ。
あの方の人生には、まだ、神様の助けを請うほどの、未練が、お有りなのだ。
——私には、もう、ない。
セレスティアは、自分の心が、もうずいぶん前から、空っぽになっていたことに、改めて、気づいた。
私は、神様に、もうなにもお願いすることがない。
明日、化け物に食われて死ぬことすら——もう、いまさら、嘆くまい。
ただ——母のためだけに、ろうそくを、一本だけ。
灯してから、行こう。
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祭壇の脇に、信徒たちのための献灯のろうそくが、並んでいた。
彼女は、そのうちの一本に、火を移した。
ちろり、と、小さな炎が、灯る。
その炎を、しばらく、じっと見つめた。
——お母様。
声には、出さなかった。
——お母様。私はもう、お母様のところに、参ります。
——もしも、それまでに、ほんの一日でも、二日でも、誰かに、優しくしていただけたなら——
——それは、たぶん、お母様のお導きだと、思っておきます。
ろうそくの炎が、ふっと、揺れた。
まるで、誰かに、頬を、撫でられたみたいに。
セレスティアは、それきり、長くは立ち止まっていられなかった。
会釈をひとつ、祭壇に向けて。
彼女は、静かに、教会を、出ていった。
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——そして。
彼女が、扉の向こうに消えてから——ほんの、数瞬のあと。
ぱっ。
と、信徒席の脇のろうそくに、ひとりでに、火が、灯った。
ぱぱっ。
ぱぱぱっ。
堂内のあらゆる灯明が——壁の燭台の蝋燭が、祭壇の脇のランプが、信徒席ごとに据えられた小さな献灯が——
まるで、ひそやかなさざなみが伝うように、次から次へと、ひとりでに、火を点していった。
誰の手も、触れていないというのに。
ありえない、静謐な堂内が——
無数の小さな炎たちの、舞い踊るような揺らめきに、淡く、淡く、金色に染め上げられていく。
祭壇の脇に置かれていた、もう何日も前に水が涸れて、茶色く萎れきっていた、見捨てられた百合の一輪が——
ふわり。
と、息を吹き返したように。
白い、白い花弁を、ゆっくりと、ひらいた。
長椅子の——たったひとりの祈り手だった、皺の老婆が。
ゆっくりと、顔を、上げた。
その目は、見開かれていた。
「……ああ」
声が、震えた。
「……ああ、ああ。聖女様。聖女様が——おいでに、なられたのですね……」
涙が、皺をなぞって、頬を伝った。
老婆は、もはや誰もいない教会の入口を、震える指先で示すように——
深く、深く、ゆるゆると、その額を、石の床へ、伏せた。
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その奇跡を、セレスティアは、知らない。
ただ、教会から少し歩いたあたりで——
ふっ、と、彼女は、空を見上げた。
風が、頬を、撫でていった。
優しい、温かい、よく晴れた朝の風だった。
——気のせい、よね。
彼女は、もう一度、自分にそう言い聞かせて、馬車のほうへと、歩いていった。
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馬車に、戻る道すがら。
補給を終えた老人が、彼女を、待っていた。
革袋いっぱいの水と、保存食を積み込み、すぐに馬車を、発進させる。
ガタゴト、と、車輪が動き始めた頃。
御者台の老人が——めずらしく、彼女のほうを振り返らずに、口を開いた。
「お嬢さん。ひとつ、聞いていただきたいことが、ございます」
声は、低く、かすれていた。
「……はい」
「——昨夜。丑の刻」
ぱきり、と。
老人の手のなかで、煙管の火皿が、軋んだ。
「街道脇の藪から、お嬢さんの寝ておられた馬車に向かって、毒矢が、三本、飛んでまいりやした」
セレスティアの息が、止まった。
「うち一本は、車軸にくれてやって。残り二本は——儂の短刀で、地面に縫い止めさせていただきやした」
「……」
「一昨夜には、車輪の留め金が、何者かに鋸で、半分ほど挽かれておりやした。次の急坂で、車輪は外れる手筈であった。儂は、それも見つけて、夜のあいだに、直しやした」
「……っ」
「最後の宿場では——宿の女中が、お嬢さんに出された茶のなかに、附子の粉を、ひとさじ、たっぷり、盛ってくれておりやした。儂は、その茶碗を、お嬢さんの手前で——自分の肘で、卓ごと、ひっくり返しやした。覚えて、おいでですか」
覚えていた。
覚えていた。
昨日の夕、宿で、老人が、ひどく不器用な手つきで、自分の茶器を派手に倒した、あのとき。
彼女はただ、御者の老人に、年寄りに無理をさせて申し訳ないと——ぼんやり、思っただけだった。
あれが——あれが、三度目の、殺害未遂、だった。
「お嬢さんを乗せて、儂が国境までこの馬車を駆る、と決まってから——あの王宮の、王妃様のお気に入りらしい影の方々が、もう、四度。お嬢さんの、お命を、奪いに、参っております」
「……」
「儂が、お嬢さんに、なにも言わずにここまで来たのは——お立場の弱いお嬢さんを、これ以上、お疲れさせたくなかったから、です。が」
老人は、ふう、と、煙草の煙を、夜気に細く吐いた。
「もう、国境です。これより先は、儂の手の届かぬ地。だから——せめて、これだけは、お知りおきいただきたかった」
しん、と、馬車の中が、静まりかえった。
セレスティアは、両手を、膝の上で、強く、握りしめていた。
——四度。
四度、私は、知らないところで、殺されかけていた。
そして、そのことを、知らないままで——たぶん、私は、生涯、生きていくつもりだった。
涙は、出なかった。
ただ、心の奥のほうで——
冷たく、静かに、なにかが、かたい結晶のように、固まっていく音が、した。
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——同じ刻。
ファルネーゼ王宮、王妃ベアトリスの私室。
パアン、と。
高価なクリスタルのワイングラスが、絨毯の上で、粉々に、砕け散った。
「——なぜ、あの娘は、まだ、生きているのッ!?」
ベアトリスの絶叫が、夜の私室を、引き裂いた。
床にひれ伏したままの、黒衣の伝令役は、頭を上げる気配すら、なかった。
「……四度の手筈、すべて、失敗にござい、ます。御者の老爺ひとりが、すべてを、未然に……」
「老爺ひとりですって!?」
ベアトリスは、化粧台の縁を、爪が割れるほどに、叩いた。
「ただの老爺ひとりに、わたくしの、手の者が、四度も、負けたというのッ!? ありえないッ、ありえないわ、そんなこと——あの『無能』は、毒矢にも、附子にも、なぜ、傷ひとつ負わずに——」
絶叫の途中で。
彼女の視線が、ふと、化粧台の鏡に、止まった。
その、鏡。
昨夜、彼女が確認したときには、ごく小さな、染みのようなものがあっただけだったはずの——その鏡が、いま。
ぴしり、と。
ひとひらの、ひびを、走らせて。
たったいま、目の前で、上から下まで——割れた。
「ひっ……」
ベアトリスの喉から、初めて、本物の悲鳴が、漏れた。
——その夜から。
王妃ベアトリスは、原因不明の高熱に、寝込み始める。
医師は、首をかしげるばかりだった。
どんな薬を煎じても、その熱は、引かなかった。
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夕刻。
ファルネーゼ王国、最後の関所——国境検問所。
すり減った石の門柱の脇に、馬車は、止まった。
国境警備兵たちは、馬車の中の人物が誰なのかを、すでに、知っていた。
“贄として、ヴァルガルドへ送られる、元第一王女”。
彼らの視線は、複雑だった。
蔑みと、憐憫と、見て見ぬふりと——その全部が、混ざっていた。
書類検めの、わずかな時間。
セレスティアは、馬車を、一度だけ、降りた。
冷えた石畳のうえに、ブーツの底で——ひとつ、足跡を、つける。
ファルネーゼ王国の地に、彼女が刻む、最後の足跡。
検めをしていた若い兵士のひとりが、ふと、こらえきれぬように、口を開いた。
「……あの。本当に……行かせるのですか。この方を」
上官に、即座に、肘で小突かれた。
若い兵士は、唇を、強く噛んで、俯いた。
セレスティアは、その青年に、向き直った。
そして、ほんの少しだけ、微笑んだ。
「——ありがとうございます。お訊ねくださって」
たったそれだけを、彼女は、告げた。
彼女は、振り返らなかった。
ただの、一度も。
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国境を、越えた。
無人の緩衝地帯を、馬車は、ゆっくりと、抜けていった。
そして——空気が、変わった。
ヴァルガルド帝国側の、深い、針葉樹の森。
針葉のあおい香り、湿った苔の匂い、そして——どこか、獣の気配。
森の奥から、低く、長く、遠吠えが、響いてきた。
「……銀狼です」
御者台の老人が、ぼそりと、言った。
「本物の——銀狼が、鳴いておりやす」
馬車が、止まった。
セレスティアは、扉を、そっと開けて、外に降りた。
夜空を、見上げる。
月は、ほぼ、満ちかけていた。
まだ、深い赤色には、染まっていない。
しかし——明日。明日の夜には、間違いなく——あの月は、血の色に、染まる。
遠吠えが、もう一度、響いた。
——なぜ、だろう。
その声が、彼女には、威嚇とも、咆哮とも、聴こえなかった。
ただ、ひどく、ひどく——哀しい、歌のように、聴こえた。
誰のことも、もう、信じられない者の。
誰のことにも、もう、愛されないと諦めてしまった者の——遠い、遠い、嘆きの、ような。
「……お嬢さん」
御者台から、老人の、低い、低い声が、した。
その声は、これまでで、いちばん、震えていた。
「言い忘れておりやした。あちら側の国境に——お嬢さんを、迎えに来るのは」
ふう、と。
煙管の煙を、長く、夜の森に、吐き出して。
「帝国軍では、ござんせん。使用人でも、ござんせん。——銀の毛皮を纏った、言葉を解さぬ、処刑人。そう、伝え聞いて、おりやす」
「……っ」
「明日の、血の満月の夜。——城に着くより先に、食われるかも、しれません」
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森の、ずっと、奥。
針葉樹の幹の、あいだ。
闇の、もっと、奥のほう。
ふたつ。
ふたつの、金色の光が——
じいっ、と。
こちらを、見ていた。
まばたきも、せずに。
夜風にも、揺らがずに。
ただ、一心に。
馬車の中の、彼女ひとりだけを——見据えていた。
獣の、瞳だった。
老人の、震える声が、最後に、つけ加えた。
「……お嬢さん。あれが——あなたの、お迎えで、ござりやす」
血の月、満ちるまで——あと、一日。
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