# 第2話 毒のない一杯
馬車の揺れが、ゆっくりと、止んだ。
窓の外で、湿った砂利を踏む蹄の音。御者台の老人が、なにか短く呟く声。
セレスティアは、まぶたの裏を淡い光で撫でられて、ゆっくりと目を覚ました。
——朝、だ。
それは、十七年生きてきて、初めて経験する種類の「目覚め」だった。
誰の手にも揺すられず。
誰の小言にも追い立てられず。
ただ、夜が明けて、光が差して、自分の身体が、もういいよ、と起きるに任せる——そんな、ささやかで、信じがたい目覚めだった。
しばらくのあいだ、彼女は座席に身を預けたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
——私は、本当に、あの国を出たのだろうか。
胸の上に置かれた左手の薬指で、銀の指輪が、ほのかに温く息づいているように感じられる。
——出たのだ、たしかに。
ようやく、その実感が、薄い水紋のように、ゆっくりと胸に広がっていった。
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ふと気づいたのは、馬車の窓ガラスの内側に、霜が花のように咲いていることだった。
外気よりも車内のほうが、いくらか温かい。そこに乗客の吐息が触れ、凍りついた——という、ありふれた冬の朝の光景。
ただ、奇妙ではあった。
御者台のほうから漏れ聞こえる老人の咳には、白い湯気が混じっている。
それなのに、自分の口から吐き出される息には——湯気のかけらすら、立たない。
指先を、つくづくと眺めてみる。
足先も、確かめてみる。
どこも、冷えていない。
旅装といえば、簡素な毛織りのワンピース一枚きりで、それも肩のあたりは縫い目がほつれかけているというのに。
不思議だな、と一瞬、思った。
が、その不思議は、すぐに別のもっと小さな考えに、押し流された。
——今までだって、そうだった。
薪を取り上げられた真冬の自室で、毛布一枚を抱えて夜を越せたのも、いま思えば、こうだったのかもしれない。
ある夏、毒草を仕込まれた紅茶を、結局どうしても口に運べず床に落としてしまったとき——あのとき、不意に頬を撫でた、ひどく涼しい風。
——私は、人よりも、寒さや暑さに強い体質なのだ。
セレスティアは、そう結論づけた。
それきり、忘れた。
……だから、彼女は、まだ知らなかった。
誰にも言われたことがないから、知るはずもなかった。
その細い身体から、いま、ごく薄い陽炎のように、絶え間なく何かが滲み出していて、それが彼女自身を、そして、すぐ近くの空間を、人知れず温めているのだということを。
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「お嬢さん。降りなさるか」
御者台のほうから、ぼそり、と声がかけられた。
ちょうど昼頃合いだろうか。馬車は、街道沿いの古い木立の陰に、停まっていた。
御者の老人——名前すら、まだ訊いていない——は、無言で焚き火の支度を始めていた。
皺の深い、瘦せた手が、慣れた手つきで火打ち石を打ち合わせる。
セレスティアは、馬車を降りて、少し離れたところに、ためらいがちに立った。
失礼にならぬよう。邪魔にならぬよう。
それは、もはや呼吸よりも先に、身に染みついた癖だった。
老人は、火を起こすと、煤けた小鍋を吊るした。
中で、乾燥肉らしき塊と、根菜の屑が、ことこと、と慎ましやかな音を立てはじめる。
やがて、簡素な木の椀に、湯気の立つそれが、たっぷりと注がれた。
黒パンの欠片を一片添えて、老人は、それを、ぶっきらぼうに差し出してきた。
「食え」
「……」
セレスティアは、その椀を、両手で受け取った。
そして——
身体が、勝手に、動き始めた。
まず、椀の縁を鼻先に近づけ、そっと匂いを嗅ぐ。
次に、椀をごく小さく、ゆっくりと回す。スープに、不自然に澱む色がないかを、確かめるために。
表面に、自分の顔が映るか、それを覗き込む。
それから、わずかに首を傾け、息を整え——心の中で、五つ、数える。
それは、十二年。
彼女が一日も欠かさず、食事のたびに、毎食、繰り返してきた——生きるための儀式だった。
——あ。
しゃがんで火を見ていた老人の視線が、ふと、こちらに向いていた。
皺に埋もれた、薄い色の双眼。
驚いているのでも、憐れんでいるのでもない。ただ、見ていた。
セレスティアの手が、止まった。
顔が、火照る。
「あの……っ、ち、違うんです、わたくしは——」
「いいんだ」
老人は、視線を、すっと焚き火に戻した。
「お嬢さんがどんな家から来なさったか、儂は聞かんよ。ただ——ここでは、その必要はない。儂が気にかけにゃならんのは、儂の老いた首ひとつだけでな。お嬢さんを毒で殺しても、儂の首には、なんの得にもならんから」
ぱちり、と。
焚き火の薪が、ひとつ、爆ぜた。
「冷めるぞ」
老人は、もう、こちらを見なかった。
セレスティアは、椀を握りしめたまま、しばらく、息ができなかった。
やがて、震える指先で、木の匙を取った。
スープを、ひとさじ、すくった。
唇に、運んだ。
——あ。
——あたたかい。
ただ、それだけのことだった。
少し塩気が強くて、根菜の甘みが溶けていて、乾燥肉の、ほのかに獣めいた香りが沁みていて。
特別な料理ではなかった。むしろ、貴族の食卓には決して上らないような、街道沿いの旅人の、粗末な、粗末な、朝餉。
それなのに。
その、ひとさじが——
彼女の胃の腑に、ゆっくりと、しみ込んでいった瞬間。
ぽろり、と、頬を、温かいものが伝った。
それから、ぽろり、ぽろり、と。
止まらなくなった。
——あ。
——だめ。
声を立てまいと、唇を噛んだ。
しかし、嗚咽は、勝手に、喉の奥から零れ出た。
手も、止まらなかった。
ひとさじ、また、ひとさじ。スープを口に運びながら、彼女は、声を殺して、泣いた。
確かめずに、食べられる。
誰も、私を、殺そうとしていない、食卓で。
それが、こんなにも、温かいなんて。
それが、こんなにも、——眩しいなんて。
老人は、最後まで、こちらを見なかった。
ただ、自分のぶんのスープを、ゆっくり、ゆっくり、すすっていた。
それは、彼の、不器用な、精いっぱいの、優しさだった。
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——一方、その頃。
ファルネーゼ王宮、王妃の私室。
ベアトリス王妃は、寝起きの紅茶のカップを、なんとはなしに、もう一度手元に引き寄せていた。
「……ちょっと。火が、弱いのではなくて?」
控えていた侍女に、苛立った声で命じる。
暖炉では、確かに、薪が勢いよく燃えている。それなのに、肩のあたりが、寒い。
肩掛けを、もう一枚、羽織らせた。それでも、寒い。
——おかしいわね。
そういえば、と。
さきほど化粧台の鏡を覗き込んだとき、壁紙のごく上のほうに、見覚えのない、小さな染みのようなものがあった気もする。
夜のあいだに、雨でも漏れたのだろうか。
あとで、家令を呼ばねば。
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王妃が肩掛けを引き寄せていたのと、ちょうど同じ時刻。
王宮東の薔薇園では、若い庭師の娘が、小さく息を呑んでいた。
「……どうして?」
白薔薇の畝、ひと畝ぶんが——昨日の夕方には、確かに見事に咲き誇っていたはずの白薔薇が——
今朝には、すべて、首を垂れて、しおれていた。
たった、ひと晩のあいだに。
霜が降りるほどの寒さでもなかったというのに。
その白薔薇は、王宮じゅうで、たったひとり、セレスティア王女だけが毎朝こっそり水をやっていた、ささやかな一画だった。
「……白い花が」
通りすがりの、年老いた女官長が、ぽつり、と呟いて、足を止めた。
若い庭師には、聞こえないほどの、小さな声で。
「……白い花が、お屋敷を、出ておゆきになったのね」
老女官長は、それきり、なにも言わずに、廊下の奥へと、ゆっくりと消えていった。
王宮のどこかで——どこか遠くで、ガラスの割れる、小さな音が、ひとつだけ、した。
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夕刻。
馬車は、なだらかな丘陵地帯を抜けて、少しずつ、山岳地帯の入り口へと差しかかっていた。
セレスティアは、窓越しに、流れていく景色を、ただ、ぼんやりと眺めていた。
街道沿いの小さな村を、いくつも、通り過ぎた。
井戸の縁で水を汲む、若い母親。
泥んこになって駆け回る、五、六歳ほどの子供たち。
店先で、固いパンを子供に齧らせている、人の好さそうな焼き菓子屋の女主人。
——私は。
ふと、気づく。
——私は、こういう景色を、ほとんど、見たことがなかったのだ。
王宮という名の、磨き上げられた石造りの牢の中で。
継母と異母妹の視線という、見えない鎖の中で。
普通の人々が、普通の日々を、普通に営んでいる、その実像を——彼女はほとんど、知らずに、育ってしまっていた。
そのとき。
馬車が、小さな村の真ん中を通り抜けていく途中で——
井戸の脇にいた、ひとりの幼い少女が、こちらに気づいて、ぱあ、と顔を輝かせた。
そして、舌足らずに笑いながら、小さな手を、ぶんぶんと振ってくれた。
「……」
セレスティアは、しばらく、固まっていた。
それから、おずおずと、窓のごく内側で、自分の指先を、ほんの少しだけ、揺らすように、動かしてみた。
それは、王女として一度も、誰にも、許されたことがなかった——“手を振り返す”という、たった、それだけの、仕草。
少女の姿は、すぐに後ろへと流れて、見えなくなった。
けれども、セレスティアの胸の中には、その、ぼんやりとした小さな笑顔が、いつまでも、温かく残っていた。
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その夜。
夕餉の後、馬車を止めた焚き火の脇で、老人がぽつり、と言った。
「お嬢さん。明日の晩には——ヴァルガルドとの、国境です」
セレスティアは、顔を上げた。
老人は、焚き火の炎ごしに、こちらを見ていた。
さっきまで、皺に埋もれていた双眼が——いまは、ただ、まっすぐに、彼女に向けられている。
「……本当に、お行きになるんで」
短い、ぶっきらぼうな、しかし——確かに、彼の人生のなかで、誰かの行く末を案じた声音だった。
セレスティアは、空を見上げた。
夜空には、まだ細い、けれども、不気味なほど紅色を帯びはじめた、欠けた月が、のぼっていた。
——あの月が、満ちる夜まで、あと、二日。
「……ええ」
しずかに、答えた。
「私には、行く場所が、もう、そこしか、ありませんから」
少しだけ、笑った。
「それに——“本当に行くのか”と、訊いてくださって、ありがとうございます。十二年ぶり、です。私のことを、そう、訊いてくださったのは」
老人は、それきり、なにも、言わなかった。
ただ、皺の深い、その肩が——ほんの少しだけ、落ちた。
馬車が、再び、ゆっくりと、動き出す。
山道の闇のなかへ、ガタゴトと、沈み込んでいく。
セレスティアは、窓に額を寄せて、左手の薬指の指輪を、そっと、胸に押し当てた。
血の満月まで、あと、二日。
そして——
ファルネーゼ王宮では、その同じ夕刻。
東の薔薇園の白薔薇が、ひと畝ぶん、すべて、黒く、変色していた。
誰一人、その意味を、まだ、理解してはいない。
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