# 第1話 建国祭の夜、捨てられた王女
薔薇とシャンパンの香りに、嘘くさい笑い声が混じっている。
ファルネーゼ王国・建国五百周年の祝賀夜会。大広間の天井を埋め尽くすシャンデリアの群れは、まるで地上に引き降ろされた星のようで、集った王侯貴族たちの宝飾を、こぼれんばかりに輝かせていた。
その中央——玉座の段の前に、ひとりの少女が立たされている。
齢十七。銀の混じった白金の髪を腰まで伸ばし、ガラス細工のように繊細な美貌を持った少女。本日この瞬間まで、ファルネーゼ王国第一王女であった——セレスティア・ファルネーゼ。
「セレスティア・ファルネーゼ。今この場をもって——お前との婚約を、破棄する」
その声は、楽団が静止した広間に、ことさら芝居がかった抑揚で響き渡った。
声の主は王太子ライナルト。社交場の華と謳われる美貌の青年は、しかし今夜はその顔にすら、安酒の熱のような昂ぶりをにじませている。
息を呑む音が、波のように広間を渡っていった。
けれども。
その台詞を真正面から浴びた当のセレスティアは——ただ、静かに目を伏せただけだった。
——ああ。
胸の奥に湧き上がってきたのは、悲鳴でも、絶望でもなかった。
それは、長い長いあいだ背負い続けた、ひどく重い荷物を、ようやく地面に降ろせたときの——奇妙な静けさ。
来た、と思った。
いつかこういう日が来るだろうということは、ずっと、ずっと前から、知っていた。
「無能の王女などを妃に迎えるなど、王国の恥でしかない! お前のことは、これまで温情によって王女の籍に置いてやっていただけだ。それも、今宵限りだ——」
言葉を被せるように、ライナルトが声を張る。
彼の足元に侍るように立っているのは、異母妹のアンジェリカ。肩を露わにした薔薇色のドレスをまとい、扇の陰でくすくすと笑い続けているその様は、王太子の隣をすでに勝ち取った勝者の顔つきだった。
その背後、玉座の脇に控える王妃ベアトリス——セレスティアにとっての継母——は、もはや微笑みを隠そうともしていない。
「父上、王太子殿下、わたくしも一言、よろしゅうございますか」
アンジェリカが愛らしく小首を傾げて、進み出る。
「お姉さまには、これまで本当によくしていただきましたわ。せめて、最後の最後で——王国のために、お役に立っていただきたく」
ふふ、と笑う。
「ヴァルガルド帝国へ。お姉さまを“贄”として、捧げますの」
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ヴァルガルド帝国——“呪われた銀狼の国”。
大陸の北東に位置する、長く鎖国を続けている軍事大国。
その皇帝は人ならざる獣の姿に変じ、近づいた者は皆、引き裂かれて死ぬ——そう噂されている、忌まわしき土地。
なかでも、月に一度訪れるという血の満月の夜。
その夜、銀狼の皇帝は完全な狂気に呑まれ、城に踏み入った者を、女であろうと子供であろうと、一切の容赦なく食らうのだという。
そして、その血の満月は——三日後に、迫っていた。
つまり、これは婚約破棄などではない。緩慢な処刑である。
いや、緩慢ですらない。三日後の夜に、確実に殺すための、見栄えのよい儀式。
建国祭の華やかな舞台を借りて、目障りな娘を、美しく葬るための。
セレスティアは、それを正確に理解した。
そして、それでもなお——心の表面に、漣ひとつ立たなかった。
——なるほど。次は、こうやって殺すのですね、お母様。
彼女が継母を、その呼び名で呼ぶことは、たぶん、もう、二度とない。
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彼女が「無能」とされ始めたのは、五歳の春のことだった。
国宝とされる魔力測定の宝珠。
齢五つを迎えた王族・貴族の子が、その手のひらに宝珠を載せ、内に秘めた魔力を測る——そんな、王国の長い伝統儀式。
幼いセレスティアの小さな手のひらに、宝珠は載せられた。
その瞬間。
——白く、光った。
いや、光った、というのとは、少し違ったかもしれない。
ガラスの球体の内部に閉じ込められていた、青く揺らぐ測定の燭——その火が、まるで百倍に膨れ上がった陽光を浴びたかのように、悲鳴を上げる暇もなく焼き切れた。
ぱきり、と。
乾いた、小さな音。
宝珠の内側に走った、目には見えるか見えないかの、微かなひび。
誰も、その音には気づかなかった。
儀式を司る神官すら、その日、宝珠が壊れたのだということに、気づくことができなかった。
彼らがその日確認したのは、ひとつだけ。
「宝珠が、何の反応も示さなかった」という、表面上の事実だけだった。
以来、十二年。
継母ベアトリスは、その日の儀式の結果を金科玉条のように振りかざし、セレスティアからすべてを奪っていった。
王女としての教育も、まともな衣食も、母の遺品の数々も。
ある冬には、薪を取り上げられた部屋で、毛布一枚を抱えて凍えながら夜を越えた。
ある夏には、毒草を仕込まれた紅茶を、本当に運よく、口にする前に床に落とした。——あれは、本当に、「運よく」だっただろうか?
異母妹のアンジェリカは、そんな姉を笑い物にすることが、何よりの娯楽だった。
夜会のたびに用意される姉のドレスは、決まって継母のお下がりの、しかも一番染みの目立つもの。
父である国王は——なにも、見ていなかった。
あるいは、見ないことに決めていた、というのが正確だろう。
愛されない、ということに、人は慣れる。
だが、「殺意を向けられている」ということに慣れるには、もう少しだけ、時間が要る。
セレスティアはずっと、息を潜めて生きてきた。
目立たぬよう、逆らわぬよう、誰の感情も逆撫でしないよう。
まばたきの回数すら、誰かに数えられているような気がして。
——疲れた、と思った。
それは、彼女が生まれて初めて自覚した、自分自身の感情だった。
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国王から、形ばかりの「申し開きはあるか」が問われ、形ばかりの「いいえ、何もございません」が返された。
夜会は、滞りなく次の余興へと進んでいく。
まるで、たった今ひとりの王女が殺されかけたのだという事実など、最初からこの場には存在しなかったかのように。
セレスティアは、衛兵に挟まれて、広間を退出した。
与えられた支度の時間は、半刻にも満たなかった。
通された自室——もはや、「元」自室——には、すでに先回りしていた継母ベアトリスの姿があった。
「あら、まあ。哀れな顔ね、セレスティア」
ベアトリスは、絹のような笑みを浮かべている。
「化け物の餌になりに行くのに、その顔では、あちらに失礼でしょう。せめて少し、紅でも差してあげましょうか」
「……結構です」
「相変わらず、可愛げのないこと」
継母はくすりと笑い、それから、視線をすっと、セレスティアの左手の薬指へと滑らせた。
そこに嵌められた、小さな、銀の指輪。
薄青い石をひとつだけ載せた、なんの細工も施されていない、ささやかな指輪。
——亡き実母が遺した、たったひとつの形見。
「その指輪——ヴァルガルドへ持っていく価値はないわよね」
ベアトリスはにこやかに、しかし躊躇なく、手を伸ばしてきた。
「卑しい家の出だったあなたの母の遺品など、皇帝への土産には汚らわしいでしょうし。そうそう、アンジェリカが似たような型のものを欲しがっていたのよ。譲ってくださる? ねえ——」
その指が、セレスティアの薬指に、触れた。
その、瞬間。
「——お『触れ』にならないで」
空気が、軋んだ。
セレスティアの右手が、継母の手首を、ぴたりと握り止めていた。
ぎし、と。指の骨が、確かに軋む音を立てた。
ベアトリスは、目を見開いた。
信じられない、というよりも、見たことのないものを見たような表情だった。
いつも俯いて、顔色を窺うばかりだったあの娘の——
その瞳に、いま、確かに——
冷たい焔が、宿っている。
「……っ」
「これだけは——譲りません」
声は、低く、静かだった。
しかしそこには、十二年ぶんの沈黙を、ぜんぶ煮詰めて、ぎゅっと固めたような、怖ろしさがあった。
「ヴァルガルドで殺されようと、途上で野盗に殺されようと、その前に、お母様、あなたに首を絞められようと——これだけは、絶対に、誰にも、渡しません」
「な、なんなの、その目は——っ」
継母の声が、初めて、震えた。
セレスティアは、ふっと、握っていた手首から指を離した。
そして、伏目に、すうっと頭を下げた。
「では、お別れでございますね。お元気で——お母様」
その仕草は、王女としての、完璧な、優雅な辞去の礼だった。
継母がそんなものを彼女から受け取れた夜は、これが最初で、そして、最後だった。
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馬車に乗せられたのは、その夜のうちだった。
王宮の裏門。下働きの使用人さえほとんど通らない、暗い裏路地に面した、簡素な扉。
迎えに来たのは、紋章のない黒塗りの箱馬車と、無表情な御者がひとり。
葬列のような静けさだった。
与えられた荷物は、薄汚れた革鞄ひとつ。
中身は、着替えの下着が二、三枚と——左手の薬指の、小さな指輪。それだけだった。
馬車の扉が、内側から閉ざされる。
ガタリ、と車輪が、ゆっくり動き始める。
セレスティアは、座席に深く身を預けた。
古びたクッションは、長旅にはとても耐えられそうにない硬さで——けれど、不思議なほどに、それさえも、許せた。
——王女としての生涯が、革鞄ひとつに収まるなんて。
くすり、と。
声が漏れた。
自分でも驚くほど、軽やかな笑い声だった。
ああ、おかしい。
あんなにも、息苦しかった国を。
こんなにも軽い荷物ひとつで、出ていけるなんて。
馬車の窓に、こつり、と額を寄せる。
夜の街道は、王都の灯りから離れるにつれ、ぐんぐんと闇を深めていった。
やがて、星々が見えてきた。
無数の、無数の星々。
誰の目にも見張られていない夜空を、こんなに長く見上げたのは——いつ以来だっただろう。
ふと、目尻から、温かいものが伝った。
悲しい、というのとは、違った。
怒り、でもなかった。
ただ——、ようやく、泣くことを許された、という気がした。
「……ようやく、眠れる」
小さな、ほんとうに小さな呟きが、ガタゴトと揺れる馬車の中に、ぽつりと落ちた。
誰の機嫌も取らなくていい。
誰の足音にも怯えなくていい。
毒を盛られているかもしれない紅茶を、確かめるふりをして冷ましながら飲まなくていい。
行く先が、化け物の住む呪われた帝国だとしても。
三日後の血の満月の夜、本当に引き裂かれて死ぬのだとしても。
——構わない。
左手の薬指の、小さな指輪を、ぎゅっと胸に押し当てる。
お母様。
いま、行きます。
あなたが私を産んで、私だけを置いて先に旅立った、あの場所へ——もしかしたら、もうすぐ。
そう思ったとき、心の奥でなにかひとつ、たしかに、決まった。
もう、戻らない。
あの国へは、二度と。
たとえどんな未来が——あるいは、未来などなくとも、私は、振り返らない。
馬車は、夜の街道を、北東へと進んでいく。
ヴァルガルド帝国の、深い、深い森のほうへ。
そして、セレスティア・ファルネーゼという名の少女は、生まれて初めて——
誰の目も気にすることなく、安らかな寝息を立てて、眠りに落ちた。
馬車の窓から差し込む星明かりだけが、その横顔を、静かに、静かに、見つめていた。
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——彼女が、やがて知ることになる、たったひとつの真実。
あの宝珠が反応しなかったのは、彼女に魔力がなかったからでは、ない。
逆だ。
宝珠の測定限界を、はるかに、はるかに、はるかに——
超えていた、ただそれだけのこと。
そして、三日後。
血の満月の夜。
“呪われた銀狼”の皇帝と、彼女は、出会う。




