3-1(ラカン帝国帝都ニムシェ)
転移陣を出ると、フランは周囲を見回し、「あら?」と声を上げた。
15年ぶりの我が家にも関わらず、しばらく人が住んでいない家屋特有の埃っぽさや不快な臭いがない。
フランは閉じていた窓をすべて開き、冷蔵庫を開いた。
何も入っていない。
氷もない。
しかし、誰かが掃除してくれていたかのように、庫内は清潔だった。
「--ロラン、ね」
すぐに製氷箱に水を満たし、呪を唱える。
製氷箱の水がたちまち氷になり、それを冷蔵庫の上部に収め、フランは自宅を出た。
遠くに高い壁がある。
壁に近い家屋と比べると大きさがよく判る。
ラカン帝国帝都ニムシェを内区と外区に区切る壁だ。
壁は繋がっていない。
途切れている。
フランの家から見えているのは3枚だけだが、王宮を中心に、貴族をはじめとする上流階級の人々が住むニムシェの内区を囲んで、全部で8枚の壁がそそり立っている。
魔術防御の為の壁である。
”八葉の壁”。
人々はそう呼ぶ。
それぞれの壁は不規則に、壁と壁を斜めにずらして配置してある。ずらしていることにもちろん意味はある。意味はあるが、壁と壁がずれていることで妙に心が落ち着かない居心地の悪さがある。
そうした居心地の悪さも含めて、フラン好みの、ムダにデカい構造物だ。
「まあ、お久しぶりねぇ」
フランが挨拶に行った右隣の住人は、機嫌よく応じた。40半ばの女で、血色がよく、15年前に会った時よりも身なりが良くなっていた。
『景気は悪くないようね』
女の様子からフランはそう読み取った。
後宮の奥深くにいるフランの知り人は、いまも上手く国を運営しているらしい。
だが、反対側の左隣に住む女は、違うことを言った。
「暮らし難くなってイヤになるわ」
女は一人暮らしだ。
結婚していたが離婚している。子供も手放した。
自分のことで手一杯なのか、それとも元々そういう性格なのか、フランのことをいろいろ詮索してきた右隣の女と異なり、久しぶりに会ったフランにもさして興味を示さなかった。
「帝都維持保全法ってのができてから、腐れ衛士がやたら威張っててね。うっとうしいったらないわ。
そこの娼館街も潰されるってウワサがあるし」
フランの家は、ニムシェを北西から南東へと貫くイム河の東側、外区でも外れ、娼館が立ち並ぶ一角のすぐ近くにある。
イム河はラカン帝国の物流の大動脈だ。
数えきれないほどの船が昼夜を問わず行き来しており、荷揚げ用の港はフランの自宅から遠くはない。娼館はそうした船乗りたちを相手に賑わっている。
「ツマラナイことを考えるわねぇ」
フランが嘆息する。
娼館を含めた雑多な街並みが気に入ってフランはここに居を構えている。
「そこはほら、ナニを失くしちゃったけど、しょせん、ツマラナイモノしかぶら下げてなかった連中だから」
「そうね」
「こんなこと言ってたら、衛士に捕まるかしら」
女が声もなく笑い、フランも薄く笑った。
いろいろ教えてくれてありがとう、と隣人と別れてフランはイム河の河岸へ足を向けた。
イム河を遡上してきた川風がフランの赤い髪をなびかせる。
『リリに切ってもらわないといけないわね』
フランが髪をいじる。
連れ立って歩いていたふたりの男の一人がフランを見て口笛を吹き、もう一人が「ねえ、これからちょっとどう?」と誘ってきて、フランは「今は用事があるからまた今度ね」と笑顔で応じた。
「約束したからねー」
男たちが笑顔で手を振ってくる。
「楽しみにしてるわ」
フランも艶やかに笑って手を振り返した。
彼らが見ているフランは13歳には見えない。家を出た時から、隣人に怪しまれないよう生身に幻を重ねている。隣人に会ったのは15年前。それから15年の歳月が過ぎたであろう姿を見せている。
幻ではあっても足元には影が落ち、風に揺れる服に陰影もあり、触れば実体もある。妖魔で造った偽の実体がある。
『ふらん』
フランの耳元で囁いたのは、彼女の幻を形作っている妖魔だ。
『何?』
『宦官がいるよ。ふらんを見ているよ』
『どこにいるの?』
『後ろのタテモノの、一番、うえ』
足を止め、フランが振り返る。
幻は残している。
人々はフランが振り返ったことに気づかない。
立ち止まってイム河を見つめる彼女を--特に男たちだが--ちらりちらりと横目で見ながら通り過ぎていく。
『あら。ホントね』
フランの視線の先にはイム河に沿って背の高い建物が壁となって並んでいる。その中でも一番高い5階建ての建物の最上階にある右端の部屋の窓が、大きく開け放たれている。
そこに白い顔が浮かんでいた。
ラカン帝国は宦官が支配する国である。
表向きは、ラカン一族の皇帝が神殿組織も含めて支配している。中央集権体制を敷いており、強力な官僚組織もある。
しかし、本当の支配者は宦官だ。
精緻に構築された官僚組織とは別に、血管のように、王宮の隅々まで宦官組織が張り巡らされている。中央から地方に派遣される役人には必ず補佐役として宦官がつく。補佐役である彼らが実質的に地方の実務を回しているのである。
ラカン帝国で定められる法は、貴族院で審議され、皇帝が裁可している。けれども、そもそも貴族院に提出される法はすべて宦官が起案している。皇帝も貴族院も、宦官が起案した法をただ追認しているにすぎない。
軍事にしても同様だ。
軍の指揮権は王にある。あるが、宦官の許可なしには軍は動かせない。
何よりラカン帝国最大の軍事力は、彼ら、宦官たちだ。
彼らは死なない。
男性器を切り取る代わりに、宦官たちは、本来なら残せるはずだった子孫の分の命を与えられている、と言われている。本来残せるはずだった子孫の分の命が尽きるまで、何があっても死なない、と言われている。
『ちょっと遠いわねぇ』
フランを見つめている宦官の表情は判らない。
『誰か近くまで行ってもらえるかしら』
『はーい』
いくつか返事があり、幾体かの妖魔が姿を消したまま走っていく。妖魔が窓枠にとりつき、一瞬、黒い影を現して着いたことをフランに報せ再び消える。
フランが呪を唱える。視覚と聴覚を妖魔と繋ぐ。
妖魔たちは窓枠に取り付き、四方から宦官を見ている、その映像をフランも見た。
『知らない子ね』
宦官を見て、フランはそう思った。
白粉を塗ったかのような白い肌に細く脆い銀髪。細い目の奥から青い瞳でフランを見つめている。けれどさして情熱がない。ただ、見ている。ふと気になって視線を止めた、そんな感じだ。
階位は低い。
着ている服が質素だ。
狭い室内には他に誰もいない。
扉はふたつ。
ひとつはおそらく廊下へと続く扉で、もうひとつは隣の部屋に続いている。フランは、扉の隙間から隣の部屋に妖魔を忍び込ませた。三人の男女がいた。こちらは普通の人、着ている物からラカン帝国の役人と判る。
『ここに番所はなかった筈だけど』
ラカン帝国は監視社会だ。帝都であるニムシェには、様々な場所に、治安を守るための”番所”と呼ばれる役人の詰める施設が設けられている。
『イム河を見張るための番所を増やしたみたいね』
窓を大きく開いて姿を見せることで、あえてここに宦官がいると知らせているのだろう。つまり、良く言って歩哨、悪く言えば、ただの案山子といったところだ。
『いいわ。みんな戻って』
『えー』
妖魔たちが不満の声を上げる。
フランが苦笑する。
食べたいのだ。
『ダメよ。宦官なんか筋張ってて美味しくないし、おなかを壊しちゃうわよ』
『うー』
妖魔たちが唸って窓から離れる。隣の部屋を覗きに行っていた妖魔は、他の仲間たちに続こうとして、ふと、室内に置かれた椅子に視線を止めた。
突然背後からガタンッと何かが倒れる音がして、宦官はビクリッと振り返った。椅子が倒れている。眉をひそめ、椅子を起こし、がたがたと揺すってみる。
首を捻る。
椅子が倒れないよう壁際に移す。
くすくすと無数の嗤い声が彼の周りで湧き起こり、身体ごと勢いよく振り返った宦官の前で、開いていた窓が大きな音を立てて閉じた。
昼過ぎという時間だからか、イム河に近い年代物の店が並ぶ商店街に人通りは少なかった。
「アキさん」
フランに声をかけられ、いまにも潰れそうな一軒の酒屋の店先でまどろんでいた老婆は不機嫌そうに唸って顔を上げた。
「おや」
フランの姿を認め、立ち上がる。
「久しぶりだねぇ」
老婆が嗤う。
「しばらく見ないから、てっきりあんたは死んだんだと思っていたよ」
フランも薄く笑った。
老婆の推測は間違っていない。
「久しぶりに会う古い友人にお土産を持っていきたいのだけど、何か良いものはあるかしら?」
「おお、あるぞ、とっておきが」
「呑んだら目が潰れちゃうようなモノはダメよ?」
「空を飛んでるかと思えるほど気持ち良くなれるブツもあるが、それもダメか?」
「それはまた別の時にね」
「つまらんのぉ」
老婆が店の奥に向かう。
フランが前に会った時よりも腰が曲がり、動きも鈍くなってはいる。しかし、声には張りがあり、足取りも確かで、とても80を越えているとは思えない。若い頃には颯爽としていて、世界中を飛び回っていた人だった。若い頃と変わらない口の悪さも含めて、歳をとるならこんな風に歳をとりたいものね。とフランが思ううちの一人だ。
老婆が封をしたガラス製の小ぶりな瓶を持ってくる。
「酔林国の酒じゃ」
「まあ」
フランが受け取る。ラベルの字に見覚えがある。本人が書いたものではないが、よく似ている。
「ハノ酒ね。よく手に入ったわねぇ」
「やはり知っておるか」
「もし知らなかったら、『料理と魔術の研究家』、だとは名乗れないわ」
「何度聞いても怪しいカタガキじゃな」
老婆が笑う。
「とっておきなんじゃが、だが、ま、あんたなら売ってやってもいいぞ」
「おいくら?」
老婆が答える。かなり高い。しかし、フランは迷わなかった。
「お手頃ね」
「あんたなら判ってくれると思ったわ」
満足げに老婆が笑う。
「イルシャリ・ア王国の蒸留酒はないの?」
「あるぞ。ずっと寝かしといたのがな。若い頃にワシが仕入れたヤツじゃ」
老婆が再び店の奥に消える。老婆が戻ってくるまでしばらく時間がかかった。ガラス瓶に琥珀色の酒が入った商品を手に戻ってくる。
「何年ぐらい寝かせていたの?」
「忘れたわ」
「いいわね。頂くわ」
「味見するか?」
「必要ないわ」
フランが手にした瓶を傾ける。琥珀色の液体の滑らかな動きを見る。あなたを信じているわ。と、声に出すことなくウソを告げる。
ホントは呑みたい。
しかし、フランは肉体的にはまだ13歳、成人前だ。アルコールはハルナに厳しく止められている、というのが本当の理由だ。
「近頃は売り上げが渋くてのぅ」
老婆がフランから代金を受け取りながら愚痴を言う。
「アホウがしょーもない決まりを作ってから、さっぱりじゃ」
「帝都維持保全法のこと?」
「街中で酒を呑むのを控えろ、だそうじゃ。酒は風紀を乱すからとな。そのうち、ニムシェでは一切酒を呑むなと言い出しそうで寒気がするわ」
「つまり、稼ぎ時ってことね」
フランが微笑み、老婆が嗤う。
「善良な市民を捕まえて、物騒なことを言わんでくれるか」
「あら。ごめんなさい」
と笑ってから、「アキさん、『完璧な世界』って聞いたことある?」とフランは訊いた。
「ふむ?」
老婆が短く考える。
「いや、聞いたことないな。なんじゃ、それは」
「西端ベルリアーズ公国から持ち出されたという魔術書よ。あたしも噂で聞いて、ちょっと気になっているだけだから知らなければいいの」
「西端ベルリアーズ公国?」
老婆が眉間に皺を寄せる。
「何か心当たりでもあるの?」
「いや。関係があるかどうかは知らぬが、少し前から、西端ベルリアーズ公国から来たという亡命貴族がニムシェにいるぞ」
「何という名の方かしら」
「シオン--、なんとか、ゴードフル。確かそんな名じゃったな」
礼を言って酒屋を後にし、『もう少し街の様子を見て行こうかしら』と遠回りをして、フランは東の広場に向かった。
ハルナたちへの土産になりそうな物を探して東の広場から西の広場に続く賑やかな大通りを歩いていた時である。
『ふらん、ふらん。ごはんがくるよ』
と、妖魔が囁いた。




