4-3(アースデイア大陸から来た娘3)
フランが魔術書をめくる。
最初に術の詳細と数式が記され、数ページ程度の呪文が続いている。紙質を確かめ、臭いを嗅ぐ。
フランのいるみやげ物屋の外から、波の音と人々の明るい笑い声が聞こえている。
「いいわね」
フランがいるのはザッハディア。ショナと接する海洋国家だ。国家とはいっても、都市国家で領土は狭い。
だが、旧大陸の南の果てから新大陸の東の果てまで伸びる交易網によって財政は豊かで国力は強い。
魔術書の出来を確かめるフランの手元をじっと見守っていた男が、「ふん」と鼻を鳴らす。
「もし、文句を言ったりしたら、ぶっ殺してやるところだ」
「そうやって」男を紹介してくれたデアの裏の世界の住人の名をフランが口にする。「--に、憎まれ口を叩いてショナに住めなくなったのに、威勢がいいわね」
笑顔で男に応じたフランは幻を纏っている。
30代後半の姿をしている。
「嫌いじゃないわ。あなたのような人。だから、なるべく長生きして欲しいから、憎まれ口はほどほどにしてもらえれば嬉しいわ」
約束の金貨をフランが置く。
再び男が「ふん」と鼻を鳴らす。「それが出来れば、苦労はせんわ」
「そうね」
と笑って、フランはみやげ物屋を出てザッハディアの雑踏に紛れた。
飛竜を乗り継ぎ、転移陣を潜って、マスタイニスカの屋敷の自分の部屋で影から出たフランは、机の上に一枚の紙が置いてあることに気づいた。
『お戻りになられたら、わたしの部屋においで下さい。ハルナ』
と、記してある。
何事だろうと廊下に出たフランは、ハルナが自分を呼んだ理由をすぐに知ることになった。
妹のひとり、リーズが廊下の窓から庭を見守っている。フランが廊下に出て来たことにも気づかない。
「何をしているの?」
「あ、フラン姉さま。お帰りなさい」
リーズの声が落ち着かない。
「あれです」
窓の外を指さす。
フランもリーズと並んで外を見て、「え」と短く声を上げた。
芝生が敷き詰められた広い庭の外れ、フランがいる寄宿棟からは遠く離れた林になった辺りで、ムギやイロナたち5人の幼い妹が、きゃあきゃあはしゃいだ声を上げて宙に舞っていた。
執務室に入って来たフランに「お帰りなさいませ、フラン姉さま」と微笑み、「ザッハディアは如何でしたか?」とハルナは尋ねた。
「いつも不思議に思うわ。才能って何なのかしらって。
彼に限らず、贋作師は師匠を持たないわ。全部独学--いえ、ほとんど何にも頼らずに自分で切り開いて身に着けた技術よ。
それなのにどうしてこんな完璧な仕事ができるのかしらね」
フランの影の中から妖魔が一冊の魔術書を差し出す。「ありがとう」礼を言って受け取った魔術書を、フランがハルナに渡す。
「知らずに渡されたら、あたしでも本物かと思うわ」
「見せて頂いても宜しいですか?」
「もちろん」
ハルナがページをめくる。
「良く出来ているでしょう?」
「これが、本当に偽物なのですか?」
ハルナは魔術書に記された呪を追っている。
「シオンさんと出会った時、ふわふわ君、狂喜したでしょうね」
「目に浮かびますね」
「これ、お土産よ」
甘くさわやかな香りが広がる。妖魔がケーキが載った大きな皿をふたつ捧げている。ザッハディア名物のチーズケーキだ。
「まあ。みんなが喜びますわ」
「多めに買っておいてよかった。新しく来たあの子のこと、教えて貰える?」
「お会いになられましたか?」
「ムギたちを宙に飛ばしているのを見たわ」
「ユン、と名乗っています。アースディア大陸から来たと。それも、マーカス王に教えて頂いてリディスとフラン姉さまを、いえ、シャッカタカーという名の魔術師を訪ねて来たと言っています」
「--何に驚けばいいか、困る答えね」
「お見せした方が早いでしょう」
「お願い」
「はい」
魔術書を置き、ハルナがフランの手を包むように握る。
「どうしてかしら」
すぐに、独り言のようにフランが言う。
「何がでしょう」
「どうしてみんな、生まれたところで幸せに生きていけないのかしらね」
「フラン姉さま」
「なに?」
ハルナがフランの頭を見ている。
「少しですけど、もう、フラン姉さまの方がわたしよりも背が高くなっていますね。一年前、お戻りになられた時にはまだわたしの方が背が高かったのに」
「それが何?」
「ハグ、して頂けますか?」
黙ってフランがハルナを抱き締める。
「こうして頂くと、初めてフラン姉さまにお会いした時のことを思い出します」
「ずいぶん大きくなったわ」
幼いハルナを抱きしめた時のことを思い出してフランが言う。
楽しそうにハルナが笑う。
「歳を取って縮んでしまいましたけど」
身体を離し、フランの栗色の瞳を見つめる。
「わたしは幸せですよ。ショナに来られて。
フラン姉さまにお会いできて。
もし、フラン姉さまにお会いできなかったらと思うだけで、ゾッとして、胸の奥が冷たくなってしまいますわ」
フランが微笑む。
「ありがとう、ハルナ。
少しあの子の記憶を検討させて貰っていいかしら」
「何か飲み物をお持ちします」
「ええ」
ハルナが執務室を出ていく。
『フラン姉さまはまだ今は子供です』
マグナの言葉を思い出す。
「そうね」
ひとり呟き、フランは、ハルナから伝えられたユンの記憶の中に沈んだ。
フランは何も忘れない。
ハルナを通じて力を使って伝えられたユンの記憶は、彼女自身が経験したかのように彼女のものになっている。そして、何も忘れないが故にユン自身よりも鮮明に思い出すことが出来る。
女がぶら下がっている。
ユンの母が。
ユンはまだ5歳だ。
母の死を理解していない。だが、母親が空っぽなのは感じ取った。数日前の父さまと同じく。自分だけ置いていかれた、と思った。
『弟くんは連れて行ったのね』
遺体は別の部屋にある。ユンには見えていない。しかし、空っぽの弟の身体を感じている。
フランは、開いたままのユンの母の瞳の奥を覗き込んだ。
『あまりに勘が良くて怖かった?気味が悪かった?
それとも嫉妬かしら。
いずれにしても、あの子を残していってくれたことは感謝しなくっちゃね』
ユンの記憶はここで途切れる。
気がついた時には見知らぬ部屋のベッドに寝かされていて、見知らぬ女に何かを話しかけられていた。
「ユン」
と答えた。
言葉は判らなかったが、名を聞かれたと思った。
『名前以外忘れてしまったのは、やっぱり自分を守る為なのでしょうね。でも』
違和感があった。
ユンが寝かされていたのはリウムの街の孤児院だ。
リウムの街はアースディア大陸にある東部諸王国の北端の国、マーカス王国の西に位置している。
海からは遠い。
『子供の記憶だから当てにはならないし、マーカス王国の守護神はオジさまだから、海に面していなくてもオジさまを守護神としていても不思議ではないけれど--』
疑問を残したまま先に進む。
孤児院でユンは14歳まで過ごした。記憶を取り戻したのは15歳の時。リウムの街の領主、ストーの屋敷でのことだ。
ユンは悲鳴を上げた。
心臓を掴まれて引きずり出されたかのようだった。
ベッドに横になったユンを、瞬きをしない母の瞳が見下ろしていた。
『記憶を取り戻したから力に目覚めたのか、力に目覚めたから記憶を取り戻したのか、どちらかしら。
もしかしたら、精神が耐えられるまで、力が記憶を封じ続けていたのかしら』
ユンは悲鳴を上げ続けたが、屋敷の誰にも気づかれなかった。ユンが身体を丸める。震える。
母から視線を逸らす。
「ユン!」
勢いよく扉が開き、大柄な男が駆け込んでくる。そのままユンを抱え上げる。重さなど感じていないようにユンを抱えたまま部屋から走り出る。
「ストー様……」
抱えられたままユンが呟く。
庭まで出て、ストーはようやくユンを下ろした。
「ユン!」
叫んで走り寄って来たのはストーの娘だ。
「大丈夫?」
とユンに訊く。
「他に逃げ遅れた者はいないか?!」
ストーが問い、「全員、揃っています。無事です、旦那様」と、執事が答える。
ストーが視線を巡らせる。
「明かりを灯したいところだが、まだ危険か」
ユンは戸惑っている。
なぜ、明かりが必要なのだろう、と。
納屋が潰れている。いや、それだけではない。屋敷を囲んだ塀も何ヶ所か倒れている。屋敷の裏側の塀の一部も--。
地震?
血の気が引く。
違う。
と気づく。
屋敷の中も物が散乱している。見えてはいない。見えるはずがない。だが判る。
瞬きをしない母の瞳が脳裏に蘇る。
激しく大地が揺さぶられる。人々が悲鳴を上げ、しゃがみ込む。ユンは胸を掴んだ。落ち着け!落ち着け!落ち着け!屋敷がぎしぎしと鳴る音が次第に小さくなる。
荒く息が乱れた。
立ち上がったストーの娘がユンの顔を心配そうに覗き込む。ユンに何かを話しかける。しかし、彼女の声はユンには届いていなかった。
殺してしまうところだった。
この人たちを。
わたしが。
わたしが--。
母さまを殺したんだ。
と思った。
『この時そう思い込んだとしても無理はないわね』
ユンの記憶を追いながらフランが思う。
領主のストーをひと言で評せば、いい人、ということになるだろう。
勇敢で、正義感が強く、公平だ。使用人にも慕われている。だがそれは、頑迷と優柔不断の裏返しでもある。
良き領主という型から抜け出せていない。
『ユンがこの人の家宰見習になったのは巫女様の計らいかしら』
ユンは14歳になって孤児院を出ると、居酒屋に勤めた。
そこでの働きぶりを、たまたま居酒屋を訪れたストー家の者に認められて、家宰見習としてストー家に迎えられることになった。
『できすぎね』
孤児院の院長は雷神の巫女だ。
ユンの記憶によればザッハディアの生まれで、幼い頃から一族の船に乗って世界を巡っていたが、思うところがあって船を降り、雷神の巫女になったという。
フランは20年以上前に、彼女を見たことがある。キャナの沖に浮かぶ雷神の主神殿が建つ遠雷庭で。雷神をからかいに行っただけなのでこっそり忍んでいって、大勢いる巫女の中のひとりとして見た。見たとは言ってもちらりと見ただけだが、それだけでフランは憶えている。
『遠雷庭を出てアースディア大陸に渡って、孤児院を始めるなんて、楽しい人ね』
ユンが育った孤児院は雷神の神殿に併設されている。
孤児院を開くにあたって、ストーは広大な土地を提供するなど、協力を惜しまなかった。
『それをマーカスに狙われたのね』
ユンがリウムの街を離れることになった事件が起こったのは2ヶ月ほど前だ。手伝って欲しいことがあるから一日だけと、ユンは巫女に孤児院に戻るよう頼まれた。
「それでは行って参ります。ストー様」
孤児院に戻る前に挨拶に行ったユンに、ストーは「気をつけてな」と、笑顔ではあったもののどこか迷いを残した声で応じた。
背中から長剣が差し込まれる痛みを、ユンの記憶を通じてフランも感じて、フランは不快気に眉をしかめた。遠くで悲鳴も聞こえた。だが、本当の声ではない。
深夜だ。
孤児院の来客用のベッドに横になっている。
「院長先生?」
胸の奥で渦巻くどす黒い不安を抑え、まだ明かりの漏れている院長室の扉をノックしたユンは、突然開いた扉に驚く間もなく荒々しく室内に引き摺り込まれた。ユンよりも頭ひとつ背の高い男に背後から首に太い腕を回される。
剣身がぬらりと鈍く光る。
ユンの首に回したのとは反対側の手に、男が抜き身の長剣を握っている。
「ああ、新しい子を連れてくる手間が省けた」
背後の男ではない、別の男のバカにしたような声が響く。ひょろりと背の高い男が薄ら笑いを浮かべてユンを見つめていた。
知らない男だ。
扉の近くに立った女が扉を閉じる。
彼女は知っている。孤児院に戻った時に紹介された。最近雇った職員の女だと聞いた。女の瞳に落ち着きがない。
院長である巫女は床に座り込んでいる。
巫女は膝に何かを載せていた。
何か?
ぐらりと世界が回った。判らなかった。感じなかった。あの日の弟のように空っぽだった。
だから判らなかった。
巫女が膝に載せていたのは、今日、孤児院に戻ったユンに笑いかけてくれた男の子だった。
部屋の隅から、母の瞬きをしない瞳がユンを見つめていた。
「さて、院長。あと何人、死体を積み重ねれば我々に協力して--」
固形物を含んだ液体がぶちまけられる音が院長室に響いた。少し遅れて硬く重い物が叩きつけられる音と、鋭い金属性の音が続き、尾を引いた。
「え」
声を上げたのは扉を閉じた女だ。
ユンの後ろの壁一面が赤く染まっている。
何かが倒れるどさりっという音が響く。女が音を追う。ユンの後ろに立っていた巨漢が尻もちをついている。
だが、何かおかしい。
巨漢の上半身がユンの陰に隠れて見えない。
女は視線を回した。
足元の床に何かが落ちている。腕のように見える。肘から先だけの太い腕のように。ユンの正面側、女の左手側の壁に長剣が突き刺さっている。長剣を握っていた腕--確かに腕だ。今度は正しく認識した。やはり、肘から先だけの太い腕--が落ちる。
女は視線を戻し、自分が間違っていたことを知った。
巨漢の上半身は見えていないのではない。
ない。
失われている。
ユンの背後の赤く染まった壁。
女がごくりっと喉を鳴らす。
なぜ赤く染まっているのかようやく気がつく。
血だ。
巨漢の上半身が、ただの血肉となって壁に張りついている。
ユンが女に視線を向ける。
瞳が赤く、眩しいほど、輝いている。
「あ、あ」
女が後ずさる。
どんっと背中が壁に当たり「ひッ」と声を上げる。
ユンが女から視線を逸らす。ひょろりとした男を見る。男は閉じた自分の口の辺りを狂ったように掻き毟っていた。まるで、自分の口を押えた手を振りほどこうとでもするかのように。
巫女はその有様を凝視している。何も見逃すまいとしている。
ユンが右手を上げる。
『いい判断ね』
フランが思う。
もしそうやって力を集中しなければ、ユンは男の頭蓋を砕いてしまっていただろう。
男の細い体が持ち上げられる。宙に差し出したユンの手が上がる。ユンの手の動きに合わせて男の足が床を離れる。
勢いよく開かれた扉が、大きな音を立てて壁に叩きつけられる。
悲鳴を上げて女が逃げ出す。
ユンは振り返らない。
宙に浮いた男の身体から力が抜ける。小刻みに震える。瞳から焦点が失われ、瞳孔が開く。
『苦しいでしょうねぇ』
心を読むというような生易しいものではない。
ユンが男の脳をかき回している。
理由を探している。なぜ、こんなことをしたのか。他に仲間はいるのか。どこから来たのか。探っている。
呼吸といった脳が司っている自律的な働きも、端から引き千切るように答えを探すユンの力に圧迫され、ほとんど止まっている。
ユンが答えに辿り着く。
信じたくなかった答えがそこにあった。
「そんな……」
ユンの腕が力なく落ち、男の身体も落ちた。
「ユン?」
巫女に呼ばれ、苦痛に満ちた顔を彼女に向け、ユンはすぐに視線を回した。
孤児院の敷地は広い。
敷地の一角には林まである。
逃げ出した女がその林に向かって走っている。
叫んでいる。
林の中に兵士がいる。
全部で11人。
ひとりの兵士が走って来る女に気づく。
ユンは迷わなかった。
女の足元の草が微かに揺れた。何の音もしなかった。女が苦しむこともなかった。転倒したかのように、深い穴に落ちたかのように、女の姿が消える。
「何かあったようだぜ」
兵士が振り返り仲間に声をかける。
「ようやく出番か」
別の兵士が応じ、武器の鳴る音がいくつも響き、途切れた。突然訪れた静寂を圧し潰すように、兵士の頭上にあった枝葉が崩れ落ちた。
『足だけ残ったのね』
女がいた場所には、足首から先だけが転がっている。
兵士たちも同じだ。
手足といった身体の末端の一部は残っている。武器も。鞘に収まったままの長剣の先端や、弓矢の一部は残っている。だが、他には何もない。兵士たちが姿を隠していた木は、兵士ごと削られて幹が消失している。それで崩れ落ちた。
生きている者はいない。
消された身体が復元する気配もない。
「院長先生」
遠くを見つめたままユンが言う。
「何?」
「わたしは、わたしは、人ではない……のでしょうか」
顔が蒼褪めている。
抑えた声に絶望がある。
「人よ」
ためらうことなく巫女が答える。
「人じゃないというのは、何の心の痛みもなく子供を殺すような、そこの壁に張りついたミンチのような、ボケナスのことを言うのよ。
あなたは人よ、ユン。
ただ少し、他人とは違う力を持っているだけのね」
泣きそうな顔をユンが巫女に向ける。
巫女が微笑み、視線を落す。もう決して動かない子供の髪を撫でる。
「この子をわたしのベッドに寝かせるのを手伝って貰える?」




