4-2(アースディア大陸から来た娘2)
父さまが死んだ。そして、後を追って母さまも死んだ。
重ねていた手をハルナが離し、リディスは短く息を吐いた。
「可哀想な子……」
リディスが小さく呟く。彼女の胸の奥で、遠い昔に消化した想いが、ユンの記憶に刺激されて苦く疼く。
「あの子が記憶を失くしたのは、自分自身を守るためだったのでしょうね」
ハルナが言う。
ふたりがいるのはハルナの執務室だ。
屋敷に着いたユンは、眠るシェルミとも会い、風呂も夕食も済ませ、旅の疲れだろう彼女に割り当てられた部屋で気を失ったように眠っている。
「明日、ユンと話しに来ます。あの子を連れ出しても大丈夫ですか?」
「もちろんいいけど、お仕事は大丈夫なの?」
「フラン姉さまとマグナ姉さまの助言に従って、ちょっと勝手にやらせてもらうことにしました。
明日はお休みです」
「そう。良かった」
たまにはリディスも休んでくれた方が、ハルナも安心できる。
「それはそうとハルナ姉さま。フラン姉さまのこと、あの子に話したんですか?」
ハルナが笑う。
「フラン姉さまの楽しみを奪う勇気は、わたしにはないわ」
「みんなにも口止めを?」
「そんな必要、あると思う?」
「そうですよね」
楽しそうに笑って、「明日の午前中には来ます」と、リディスはハルナの執務室を後にした。
***
「あなたとは賑やかなところで話したいわ。できれば、青空の下でね」
翌日、そう言ってリディスがユンを連れて行ったのは、スフィア神殿前の広場に面した甘味処だった。
日よけの長いシェードの下にテーブルと椅子が並べてあり、そのうちのひとつにリディスとユンは腰を下ろした。
リディスが慣れた様子で注文し、背の高いガラス製の器に、甘そうなクリームが層になり、その上に花が開いたかのようにフルーツが盛り付けられたスイーツがユンの前に置かれた。
パフェだ。
リディスの前にはコーヒーが置かれた。コーヒーカップの横にチョコレートの入った小皿が添えられている。
「随分と賑やかでしょう?」
コーヒーカップを手にリディスが訊く。
広場を行き交う人々の多くが、どこか浮かれた明るい雰囲気を纏っている。
「もうすぐ万神大祭があるのよ」
「万神大祭--ですか?」
問い返したユンの声には、まだ緊張がある。
「食べてみて」
リディスに促されてパフェをひと掬い口に入れ、「おいしい--」と声を漏らす。
「甘いものは好き?」
「はい」
素直に頷く。
「そうだと思った」
笑ってリディスは、
「ショナはすべての神々を守護神としていて、大小の違いはあるけれど、デアには全ての神々、それぞれの神殿があるわ。
どうしてだと思う?」
と訊いた。
「お母さまがいらっしゃるからでしょうか」
迷いを残しながらもユンが即答する。
『頭のいい子ね』
とリディスが思う。
昨日聞いたばかりの話を、お母さまが神々を生んだという話を、自分なりに考え、理解している。
「その通りよ。神々はお母さまを愛されているわ。それなのに、もし、どなたかおひとりをショナの守護神に定めたりしたら、神々が大喧嘩しちゃうでしょ」
「はい」
「だからと言って、全ての神々、おひとりずつお祭りをしていたら、ショナは一年中お祭りをしていないといけないわ。
だから、年に一度、夏至の日にすべての神々に祈りと感謝をささげるための祭りを催すことにしたの。それが万神大祭よ」
少し間を開ける。
「あなたが、わたしとシャッカタカー姉さまを訪ねて来た理由は、ハルナ姉さまに見せて頂いたわ」
「はい」
リディスがテーブルの上に両手を差し出す。
「手を貸してもらえる?」
「はい」
ユンは迷わなかった。
リディスの意図はすぐに察した。
隠すことなく力を使える。そのことにユンは幸せを感じている。
重ねた手を通じて、二人の力が交錯する。
どこかの狭い部屋。暗い。陽光がくすんでいる。現実ではない。主観だ。リディスの。ふたりの女がいる。リディスの前に。
ひとりはハルナ。
だが若い。
30代ぐらいに見える。
もうひとりは知らない女だ。
赤く鮮やかな長い髪。
冷たい笑み。
歳は--20代半ばと思える。いや、もっと若い?それとも、ずっと歳上だろうか?歳が見分けられない。何故か。
『ダメよ』
ハルナがリディスを抱きしめる。
『それは、ダメ』
『殺す価値もない人よ。もう、その人は』
見知らぬ女が、突き放すように淡々と言う。けれど、どこかその言葉は温かかった。
広場の賑わいがユンの耳に戻ってくる。
「わたしが初めてハルナ姉さまと、シャッカタカー姉さまに会った時の記憶よ」
リディスが言う。
重ねていた手をいつの間にか離している。
「いまの人が」
シャッカタカーの姿を心に刻みこむようにユンが呟く。
「ええ」
「--いつ頃のことなのですか?」
「30年以上前になるわ。
わたしの母さまはね、男の人がいないと生きていけない人だったの」
「えっ?」
「次から次へいろんな人とつき合って、わたしのことはほったらかし。
わたしの父さまが誰なのかも判らない。
そんな人だったのよ。
それで、わたしが14になった時にね、母さま、わたしを、その時つき合っていた男に差し出そうとしたのよ」
「え?」
「恋人にわたしを抱かせようとしたのよ」
「--まさか」
ユンが息を呑む。
「クトゥスさんと出会った時には、自分ではズイブン丸くなったと思っていたけど、その頃のわたしの目つきが酷く悪かったとしても、当然でしょう?」
リディスの表情は不思議と明るい。
「母さまとその時つき合っていた男が、--ろくでもない男だったけど、あー、それまで母さまがつき合った男はみんなろくでなしだったわ。わたしの父さまがそうでなければいいのだけど。
とにかくね、そのろくでなし、母さまに飽きてきていたのね。
母さまは力を持っていなかったけれど、『女はみんな男の心が読めるのよ』そうシャッカタカー姉さまは言われていたけれど、確かに母さま、自分が飽きられていることを察してて、ソイツを引き留める為にわたしを使うことにしたのよ。
わたしへの愛情は欠片もなかったから。
でも、その頃にはわたし、もう力に目覚めていたから、二人が何を考えているか全部知っていたの。
だから、母さまが買い物を装って家を出た後、わたしに襲い掛かって来たソイツの首を、わたし、力を使ってへし折ってやったわ。
その後、帰って来た母さまも殺すつもりだったの。
でも、家に戻って来た母さまを殺そうとした時に、シャッカタカー姉さまとハルナ姉さまが来てくれたの。突然部屋の中に現れて、『駄目よ。リディス』って、ハルナ姉さまは言ってくれたわ。わたしを抱きしめて。『それはダメ』って。
シャッカタカー姉さまは、『殺す価値もない人よ。もうその人は』と微笑んで、改めて母さまを見たら、本当にそうだったわ。
もう、母さまはわたしにとって何の価値もない人だったわ」
リディスが苦笑する。
「こんな話、賑やかなところじゃないとできないでしょ」
ユンには答えようがない。
彼女の胸の奥で痛いほど疼くものがある。
「シャッカタカー姉さまとハルナ姉さまにお屋敷に連れて来て頂いて、2ヶ月ほど経った頃だったかしら。シャッカタカー姉さまが『ちょっと気晴らしに行く?』って誘って下さって、散歩にでも行くんだろうと思って『はい』って答えたら、アースディア大陸に連れて行かれてね、そのまま何年も旅をすることになるなんて思いもしなかったわ。
わたしがマーカス王やクトゥスさん、カイさんと知り合ったのはその時よ。マーカス王はまだ、王でもなんでもなかったけれどね」
「--リディス姉さま」
「何?」
ユンがためらう。
「もう、お母様を恨んではいないんですか?」
「どうかしら」
リディスが視線を宙に投げる。
「わたしが母さまを恨んでいるのか、それとももう恨んでいないのか、母さまが死ぬまでわたし自身にも判らないって気がするわ」
「まだお元気なのですか?」
「わたしが首をへし折ったろくでなし、死ななかったのよ。二度と身体を動かすことはできなくなったけどね。
決して逃げることのない男を捕まえて、元気にやってるわ。母さま」
「どうして--」
「お屋敷でお母さまやお姉さまたちに会って、自分が決して独りじゃないって知ったし、シャッカタカー姉さまに連れられて、それまで想像すらしたことのない世界を知ったことも大きかったと思うけど、ユン、あなたももう知っているでしょう?
わたしが母さまへの憎しみを忘れられた理由は、ハルナ姉さまに抱き締めて頂いたからよ」
マスタイニスカの屋敷に着いて、ユンも、出迎えたハルナに抱き締められた。
「広い海にインクを一滴、落としたみたいだったわ。
憎しみが消えてしまった訳じゃない。でも、薄まって、もうどこにあるか、わたし自身にも判らなくなったわ。
ハルナ姉さまの腕の中で。
わたしはね、ううん、わたしだけじゃないわ、家にいる子はみんな、ハルナ姉さまの父さまと母さまの愛を分けて頂いているのよ」
「どういうことでしょう」
「それはまた今度、話してあげるわ。少し長い話になるから。ルナ母さまや、ルナ父さまのこと。
ペル姉さまこともね」
「--ペル姉さま?」
「自分を残して逝った母さまが憎い?」
問いに問いでリディスが返す。
ユンは応えない。
「母さまを憎んでいる自分が嫌いで、許せない?憎くて憎くて、それでいて、母さまが愛しい?」
黙ってユンが頷く。
「怒らないで聞いてね。
あなたの母さまは、少し、精神的に不安定な方だったのね。
ユン。
無理もないことだけど、あなたは、母さまに囚われ過ぎよ。あなたは、わたしが持っていないものを持っているでしょう?」
ユンが顔を上げる。
「リディス姉さまが持っていないもの?」
リディスが優しく微笑む。
「あなたはもう独りじゃないわ。わたしがいる。ハルナ姉さまがいる。みんながいるわ。だから、勇気を出して。
一緒に見に行きましょう」
先程のようにリディスがテーブルの上に両手を差し出している。
大きく息を吸い、顎を引いて、「はい」と頷き、ユンはリディスの手に自分の手を重ねた。
***
ユンの背後に、さざ波に似た囁き声が満ちていた。
人々がいる。
顔も見分けられない影でしかない人々の群れがユンの背後で揺らめいている。
ユンの前にはまっすぐ引かれた線のような崖がある。
底は見えない。
向こう側も。
どこまでも続く虚空だけがある。
ユンの手を誰かが握る。
顔を向けるとリディスがいた。
ユンはリディスの手を握り返した。
リディスの向こうにハルナの存在を感じた。
いや、ハルナだけではない。他の姉妹もリディスを通じて繋がっている。意識はこちらに向いていない。けれども確かなつながりをユンは感じた。
ユン自身にも糸は繋がっている。
姉妹の想いが複雑に絡み合って、暖かな織物となってユンとリディスを包んでいる。
「行きましょう」
「はい」
リディスの言葉に頷いて、ユンは土を蹴った。
浮揚感を感じる間もなくすぐに足が砂を踏む。
背後にあったざわめきが本当の波の音に変わり、潮の香りが彼女を包み込む。
波打ち際にいる。
短い砂浜の先に一軒の小さな家がある。
5歳の時に飛び出してから一度も帰らなかった家だ。帰ろうにも、今となってはどこにあるかも判らない家だ。
こんなに海に近くはなかった筈だ。
家の形も曖昧だ。
ただ、扉は、何度も潜ったこの扉だけは、よく憶えていた。
殴りつけるように心臓が打つ。
母から投げつけられた言葉がまざまざと思い出される。
『あんたなんかいらない!!』
ふと気づくと、リディスの背中が目の前にあった。
まるで母から彼女を守るかのように。
「目を閉じて」
と、リディスが言う。
「わたしの肘を持っていれば大丈夫」
「はい」
言われるまま、目を閉じ、リディスの肘の上を握る。
不思議なほど不安はなかった。
「段があるわ。気をつけて」
「はい」
扉が開く音がする。
リディスに導かれてリビングに入る。心臓が静まっている。ふたりの足音しか聞こえない。
他には何も聞こえない。
ぎしぎしと鳴る綱の音も聞こえない。
広いリビングではなかった。数歩あるけば壁に当たる筈だ。だが、何十歩も歩いてようやく、「いいわよ、目を開けて」とリディスが告げた。
3段ほどの階段の前にいる。
通り抜けて来た筈のリビングは、母は、見えないほど彼方に遠ざかった。そう感じた。
階段を上がる。
3方に分かれた通路がある。
左の通路を選ぶ。
濃い青い壁に囲まれた木製の扉がある。
軽く頷いたリディスに促され、ユンは息を大きく吸い込んで、扉を押した。
スフィア神殿の前の広場に戻ったかと思った。
だが、そうではなかった。
鉦や太鼓、弦楽器の奏でる音楽がにぎやかに、調子外れに楽しく響いている。
何十人もの女が華やかな衣装に身を包んで踊っている。
少し離れたところで男たちが担いでいるのは、ふたつ首の巨海竜を象った祭りのための練り物だ。長い木の棒がふたつ首に繋がり、まるで本当に生きているかのように操られている。
陽気な海神の似姿を載せた大きな山車もある。
男たちはほとんどが半裸だ。
海神に倣っている。
女たちの中にも半裸になっている者がいる。胸を晒して恥じる様子もなく、堂々としている。
海神に収穫を感謝するための祭りだ、と判る。小さい頃に見た。幼かった。だが、憶えている。賑やかで、集落が朝から明るく浮き立っていた。
つられて心が浮き立ったことを、鈍い痛みとともに思い出す。
人々の中に、老人に親し気に頭を小突かれている男がいる。
ユンはその男を見つめている。腕に赤子を抱いて。いや、抱かれているのは彼女自身だ。男を見つめているのは、母だ。母の視覚を使って、母と心を繋いで、男を、--父を見ている。
父が母に気づく。
老人に断り、歩いてくる。
母に微笑みかけ、優しい目をユンに向ける。父が何かを言う。ユンには判らない。赤子である彼女には理解できない。
拗ねたような声で母が応え、父が笑う。
赤子が視線を上げる。
人がいる。
宙に浮いている。
ユンだ。
赤子が手を伸ばす。自分に向かって。ユンも手を伸ばし、気づくと人々の姿はなく、波が彼女の足元を濡らしていた。
5歳まで育った家が背後にある。
懐に赤子が、彼女自身がいる。
赤子の姿が淡く膨らむ。
飛び立つ。
無数の蝶となって。
紙で作った、作り物の蝶となって空へと舞い上がっていく。
「いいのよ。それで」
ユンに寄り添ったリディスが言う。
何がと問い返すことなく、
「はい」
とユンは頷いた。
***
「ショナの言葉はどこで覚えたの?」
ユンが落ち着くのを待って、リディスは訊いた。
「院長先生が新大陸の出身でしたので、孤児院にいる間に教えて頂きました」
パフェを掬うスプーンを止め、ユンが答える。
「そう」
リディスがコーヒーカップを置く。
「こちらでの生活がもう少し落ち着いてからでいいのだけど、ユン、魔術師協会で働く気はある?」
「え?」
「わたしの秘書をして欲しいんだけど、どうかしら。ご領主さまの家宰見習だった経験を活かして貰えたら嬉しいわ」
「でも、わたし--」
「なに?」
「魔術は何も知りません」
「魔術師協会に勤めるからといって、魔術師である必要はないわ。むしろ、魔術以外の仕事の方が多いのよ。
もちろん魔術を知っている方が良いけれど、それは仕事をしながら覚えればいいわ。
魔術師になるのに最低限必要なのは論理的な思考ができること。あなたにはそれがあるわ。
何より、いい教師もいるしね」
リディスの口元に楽し気な笑みが浮かぶ。
「どなたですか?」
「フランという子よ。
まだ13歳だけど、魔術に関しては誰よりもよく知っているわ。
今はハルナ姉さまのお使いでちょっと出かけているけれど、そうね、明日には戻って来るかしら」
「フラン--」
「あら。知ってるの?」
「昨日、ハルナ姉さまにお聞きしました。
屋敷で一番の約束事は、濫りに他人の心を読まないこと。特に、フランという子の心は間違っても読まないように、と。
もし読んでしまったら戻れなくなるかも知れないからと」
「そうね」
リディスが沈黙する。
視線を遠くに彷徨わせる。
ユンはリディスの視線を追って空を見上げた。雨が降ってきたかと思った。身体を包む冷たい雨が。
だが、頭上にはシェードがあり、シェードの向こうには青空があった。
声ならぬ声が聞こえた。
いつか、本当に--
何かを振り払うようにリディスがユンに向かって笑う。
「ちょっと悪戯が好きなところは困ったものだけど、いい子よ。会うのを楽しみにしていればいいわ」
「はい」
明るい口調とは異なり、リディスの声には陰りがある。それが何か判らないまま、ユンは浅く頷いた。




