4-1(アースディア大陸から来た娘1)
深い海の底からいきなり水面へと出たかのようだった。
「あ」
ハルナは小さく声を上げた。
力はすぐに消えた。
涙が頬を伝っていることに気づき、そっと拭う。
ハルナは初めてデアに着いたときのことを鮮やかに思い出した。繊細だが力強い父の手の感触。立ち竦んだ彼女に「どうしたの?」と訊いた母の暢気な声。まだ生まれて間もない弟は母の腕の中でぐっすり眠っていた。
執務室を出る。
『ファン、お母さまのご様子は?』
お母さま--シェルミの世話係を務める妹に訊く。
違うことは判っている。
しかし、シェルミかと疑うほど、ハルナが感じた力は強かった。
『お変わりはありません』
ファンの声にも動揺がある。
彼女も感じたのだ。
おそらく、デアにいる娘たちが全員。
それほど強い力だった。
『ハルナ姉さま』
魔術師協会にいるリディスの声が響く。リディスの声にも緊張感がある。
『大丈夫。嫌な感じはしなかったわ』
『フラン姉さまは、まだ』
『ニムシェよ』
ザッハディアにも行くと言っていた。今日は戻らないだろう。
『すぐに戻ります』
大丈夫よ、と伝えようとした時には、リディスの気配は消えていた。
『本当にせっかちな子ね』
と笑う。
『リディス姉さまはムリです』
魔術師協会に勤めている妹たちのひとり、リタが声を響かせる。
『ん?』
『幹部会議中ですから。席を外すなんてシリさんが許してくれるハズありません』
『わたしたちはこちらで待機しています、ハルナ姉さま』
リタと同じく魔術師協会に勤めているナターシャが続ける。
『そうして貰える?』
『はい』
マスタイニスカの屋敷はいつもより静かだ。北の領地から戻ったマグナとジュリを含め、娘たちの多くは、東ナリス皇国や中央ナリス王国、デール聖王国にエレノアやシオンたちのことを調べるために出払っている。
図書棟に入り、教室に近づくと、”声”だけでなく実際の声でも子供たちの泣く声が聞こえてきた。
「みんな。そんなに泣かないで」
ハルナの声に、教育係を務めるキットとユノが、子供たちが、顔を上げる。
「ハルナ姉さま!」
5人の子供たちのうち、ムギとイロナのふたりがハルナにしがみつく。彼女たちの乱れた心が押し寄せる。混乱して言葉にできない。疑問が渦となって荒れ狂っている。
ハルナもそうだった。初めてデアを訪れた時。胸が苦しくなった。それが何か、理由が判らず涙がこぼれた。まだ5歳だった。今なら判る。あの時の感情が何だったか。さっきデアを覆って広がり消えた強い力。あれも同じだ。
初めて訪れた街だった。しかし、幼いハルナの胸に溢れたのは、強烈な懐かしさだった。
「ムギ、イロナ、あなたたちも覚えがあるでしょう?」
ハルナが優しく二人を撫でる。
「姉か妹か判らないけれど、誰か新しい姉妹がデアに着いたのよ」
ムギとイロナが顔を上げる。
理解が二人の顔にある。
「そうか--」とムギが言い、「ねえさま!」とイロナが叫んだ。「ねえさまです!」
「判るの?」
イロナがこくりと頷く。
捜そう!
”声”が弾け、教室を覆う。ムギだ。同意するより先に子供たちが心を溶け合わせる。そうね。ハルナも子供たちを包むように心を繋ぎ、キットとユノも続く。屋敷にいる他の娘たちも続き、魔術師協会に勤めるリタとナターシャも心を繋いだ。デアには屋敷以外にも娘たちが暮らしている。彼女たちもまた心を溶け合わせた。
『あなたはダメよ。リディス』
と笑って、ハルナは妹たちと共にデアの空に心を舞い上がらせた。
どこを探しましょう。
キットが尋ねる。
デアは広い。
人口は100万を軽く超えている。
豊かな緑とともに市街地は見渡す限り続いている。
大丈夫よ。
ハルナには確信がある。
ハルナが感じた力の強さ。あれほど強い力の持ち主なら--。
彼女の方が、わたしたちを見つけるわ。
「いた!」
子供たちが叫び、空に舞い上がっていた娘たちの意識がひとりの少女に吸い寄せられるように収斂した。
馬車から降りた時、彼女の胸に訪れたのは、期待と、期待を上回る不安、それと微かな後悔だった。
「広いな」
しゃがれた声で感想を述べたのは、彼女の前に馬車を降りた男だ。背は高くないが身体に厚みがあり、腰には長剣をぶら下げている。
名はハンガ。
しかし、おそらく本名ではない。40になったと言っていたが、それも本当かどうか判らない。
判らないが、信頼できる人だ。
と彼女は思っている。
彼女とハンガの前には石畳が敷かれた広場が広がっている。
多くの人が行き交い、広場の中央には噴水が据えられ、広場に面して幾棟もの背の高い建物が並んでいる。
「どれが魔術師協会の建物なんだ?」
「ぜんぶだよ」
ハンガに答えたのは、ふたりの背後に停められた馬車の御者台に座った御者の女だ。近くには他にも何台も馬車が停まっている。魔術師協会を訪れる人々の為の停車場だと御者の女は教えてくれた。
「いろいろ手広くやってるからね、魔術師協会は。
あれは魔術師を養成するための学校だね。趣味で魔術を勉強している者のための教室はそっち。魔術用のいろんな道具を売ってる店が入っている建物がそれで、魔術師にシゴトを依頼したい時の窓口があるのがアレ。
向こうに見えているのがあらゆる書物が揃っているって噂の図書館だよ。ホントかどうかは知らないけどね。
あんたが知ってるかどうか知らないけど、魔術師協会のいちばんの収入源は貸金業だ。その為の窓口は、そこの建物の奥。
あんたはどこに用があるんだい?」
「人に会いに来た。あー、オレじゃなく、彼女がな」
「はい」
魔術師協会の建物群から視線をそらし、彼女が振り返る。
女にしては背が高い。肩まで落としたプラチナ色の髪に冴えた青みが透けている。知性を感じさせる栗色の瞳を、臆することなく御者の女に向ける。
彼女は17歳だ。
しかし、整った顔立ちには年齢以上の落ち着きがある。
「リディスという人に会いに来ました」
「魔術師か?」
少女が首を振る。
「会ったことはありませんが、わたしの姉のひとり--と聞いています。
魔術師協会を訪ねれば消息が掴めるだろうと」
「ふーん」
御者の女の顔に釈然としない表情が浮かぶ。
「ま、だったら、そこの、魔術師にシゴトを依頼する窓口に行ってみればいいんじゃねえか。
愛想がいいとは言えねぇけど、仕事は確かだよ」
少女は御者の女の示した建物を見てから、御者の女に視線を戻した。
「判りました。ありがとうございます」
丁寧に礼を言う。
御者の女が嬉しそうに笑う。彼女に礼を言う客は多くない。
「会えるといいな、その会ったことがないっていうあんたの姉ちゃんによ」
「はい」
「だったら行ってみるか。嬢ちゃん」
「はい」
「魔術師協会っていう割には、魔術師が少ないな」
ハンガが独り言のように言う。
もしかすると魔術師用の入口が他にあるのかも知れない。顧客用の窓口とは別に。魔術師協会は協会員である魔術師のために様々なサービスを提供しているという。デアに来る途中にそうした魔術師の為の保養所に泊まる機会があった。
そうハンガに答えようとして、彼女は足を止めた。
「ん、どうした?」
ハンガの問いにも答えず、視線を上に向ける。
栗色の瞳の奥で赤い光が輝く。
ハルナたちは空を飛んでいる訳ではない。彼女たちの身体は、マスタイニスカの屋敷に、魔術師協会に、娘たちの自宅にある。全員の力を合わせ、知覚力を大きく羽ばたかせているだけだ。
少女の視線の先には何もない。
見えないのではなく、そこにハルナたちはいない。
しかし彼女はハルナたちの姿を見た。ハルナたちが羽ばたかせた知覚力を感じ取り、ハルナたちの姿を見た。両手を広げて舞い降りてくる子供たちの姿を、温かく微笑む姉たちの姿を見た。
理解が追い付かず、呆然と立ち尽くし、少し遅れて、喜びが奔流となって彼女の全てを、過去の苦痛も記憶も何もかも押し流した。
『お帰りなさい!』
『お帰りなさい!』
『わたしたちの姉さま!』
子供たちの”声”が彼女の周囲で嬉しそうに跳ねる。
「ムギ。
イロナ。
ユウ。
ココ。
アンニ--」
子供たちは自分の名を名乗っていない。しかし、彼女は子供たちの名前を、文字を読むかのように正しく読んだ。
『うるさくてごめんなさい』
落ち着いた声が響く。姉のひとりが彼女の頬を優しく両手で包み込む。正しく表現すれば、姉の想いを彼女がそう感じ取った。
『お帰りなさい。わたしはキット。よろしくね』
『わたしはユノよ。歓迎するわ、新しい、わたしたちの姉妹』
別の姉がすぐに続く。
はい。
言葉にすることなく彼女が応じる。
はい!
『わたしはファン。お屋敷で待っているわ、新しいわたしの愛おしい妹。冷たい飲み物を用意してね』
他にも温かな声が続く。
『わたしはリタ。こんなに近くにいるとは思わなかったわ。すぐに迎えに行くから、ちょっとだけ待ってて』
え?
『わたしたちは魔術師協会にいるの。わたしはナターシャ。リタとふたりで迎えに行くわ』
え?
『わたしも行きたいところだけど、残念ながら行けないわ。わたしはリディス。後で会いましょう』
慌ただしい声が響き、すぐに気配が遠ざかる。
リディス姉さま--?
『お帰りなさい』
彼女がリディスに問い返すより先に、今までの誰よりも落ち着いた声が優しく響く。
老女が穏やかに微笑んで彼女を見つめている。まるで本当にそこに立っているかのように、彼女はハルナの姿を鮮やかに認識した。
『わたしはハルナ。お帰りなさい。いまはボストロ・レス・エクスコード公爵として皆の取りまとめをしているわ。あなたの名前を教えて貰えるかしら?
ああ、気を静めてね。
あなたの力はとても強いから、そっと、囁くようにね』
「はい」
実際の声に出して頷き、顔を伏せ、胸を抑えてから、笑みを浮かべて顔を上げる。
喜びに力の抑えが緩んだ。
鋭いピシリッという音が彼女の足元で響く。
『わたしはユン。
ユンです。
ハルナ姉さま』
足元で響いた音に気づくことなく、いつもの挨拶をするような静かな”声”で彼女はハルナに答えた。
「どうしたか、嬢ちゃん」
ハンガが訊く。
彼が見たのは、足を止めたユンが顔を空に向け、視線を戻し、何かを呟く姿だけだった。胸を抑え、再び顔を上げたユンの足元で鋭く短い音が響き、ハンガが視線を落すと、ユンの足元の石畳が一枚、砕けていた。
「何でもありません」
ユンがハンガを振り返り、首を振る。
ハンガの眉間に皺が寄る。
護衛として彼がユンを預かった時から、ユンはどこか陰を湛えていた。苦悶していた。それがいまは、これまでの彼女が嘘のように表情が明るい。
「ここまで連れて来て頂いてありがとうございました。ハンガさん」
「まだオレの仕事は終わってないぜ、譲ちゃん」
「姉が迎えに来てくれます」
「会ったことがないっていう、リディスっていう名前の姉ちゃんがか?」
「いいえ。リタ姉さまとナターシャ姉さまです」
ハンガが視線を走らせる。腰の長剣に手をかけている。さっきまでなかった人の気配がいきなり現れた。
「ユン」
女の声が響く。
ユンの背後に女がいる。ふたり。
ユンが振り返り、駆け寄る。声もなく抱きつく。ふたりの女がユンを受け止め、しっかりと抱き締める。
ハンガは長剣から手を離し、無精髭に覆われた顎を撫でた。
『なるほど。オレのシゴトは終わったか』
と納得する。
ユンがハンガに顔を向け、軽く頭を下げる。ありがとうございました、と唇が動いたように見え、消えた。
リタかナターシャか、どっちかハンガには判らなかったが、女が一人残っている。
「ハンガ様、ここまでユンを連れて来ていただいてありがとうございました。もし良ければ、これを受け取っていただけますか?」
女が小さな長方形の薄い金属片を差し出している。
「何だ?それは」
「魔術師協会が提携している店で使えるカードです。これを提示して頂ければ、どこでも無料でサービスを受けられます」
「居酒屋でもかい?」
「はい」
「オレは底なしだぜ?」
女が微笑む。
「もちろん限度額はありますが、居酒屋を一軒、呑み潰せるぐらいは使えますのでご安心下さい」
ハンガが口の端だけで笑う。
「その言葉が本当かどうか、試させてもらうとしよう」
「どうぞお試し下さい」
女がカードを渡す。
「本当にありがとうございました」
女が背中を向け、姿が揺らめき、消える。
「なるほど、ここは魔術師協会に違いねぇな」
カードを懐に仕舞ながら、ハンガは納得したようにひとり笑った。
「ユンはどこから来たの?」
リタが訊いたのは、影の中だ。フランが妹たちの護衛の為につけている妖魔にマスタイニスカの屋敷へと運んでもらっている。
「アースディス大陸のマーカス王国から来ました」
と、ユンは答えた。
「リディス姉さまと、シャッカタカー姉さまに、会うために」




