第二話 腕自慢
童子切の箱には、蓋がしてあった。
啓之介と主膳は、その前に座っていた。先ほどより、畳一枚ぶん遠い。
散った書付は拾ってあった。ただ、一枚だけが箱の下に挟まり、角を出している。
「古より、名刀には神が宿ると申します」
主膳は膝の上で手を揃えた。
「幾代もの武人の手を経て、長く大切にされてきた品でございますれば、人知の及ばぬこともありましょう」
「知っておったのか」
「言い伝えとしては」
「ならば、なぜ叫んだ」
「実際に喋るとは存じませなんだ」
啓之介は箱を見た。
「蓋をして、よかったのか」
「刀でございますから」
「神なのではないのか」
主膳も箱を見た。
しばらくして膝で近づき、蓋を指二本ぶんずらす。
何も言われなかった。
主膳は箱の下の書付も引き抜き、戻ってきた。
「お前で駄目なら、誰ならよい」
主膳の手が、脇に置いた自分の刀へ触れた。
鞘を少し引き寄せる。
「会わせてみるほかありません。諸国の剣客、浪人にも広く声をお掛けください」
「腕の話ではない、と申しておったぞ」
「それでも、鬼の前に立てる者でなければ」
啓之介は開いた蓋の隙間を見た。
刀は黙っていた。
「身分を問わず、働きに応じて召し抱えるとあれば、腕に覚えのある者は参りましょう」
「来るか」
「参ります」
啓之介は筆を取った。
「では、来させよ。刀が五振ある。使う者が五人おればよい」
*
五日で、二十七人来た。
玄関には草履が並び、控えの間には大小が並ぶ。流派の名を染めた風呂敷、筒に収めた免状、使い込んだ木刀。家臣が名前を書き留めるあいだにも、庭では誰かが自分の勝った試合を話している。
啓之介は、その声を頼もしく聞いた。
初日の一人目は、立派な髭をしていた。
道場を三つ渡り歩き、いずれでも師範代を務めたという。免状を広げると、主膳は署名に目を留める。
「このお方に、学ばれたか」
「長く御指導をいただきました」
主膳が頷くのを見て、啓之介も膝を進めた。
男は童子切を前に、深々と礼をした。
「名にし負う御太刀。拙者にお預けくださるならば、必ずや御家の誉れとなる働きを——」
『長い』
男の髭が止まった。
「……ただいま、何と」
「儂ではない」
啓之介は首を振った。
男は刀を見た。主膳を見た。もう一度刀を見て、咳払いをした。
「……拙者、三つの道場で師範代を務め——」
『三つも渡って、まだ己の名で飯が食えぬか』
男の髭が震えた。
「何と申した」
『耳まで飾りか』
男は免状を巻いた。端が揃わず、もう一度巻き直した。
「刀ごときに、値踏みされる筋合いはござらん!」
『その刀を借りに来たのであろう』
「こちらから願い下げだ!」
立ち上がった拍子に、膝で箱を押した。
主膳が押さえる。
遠ざかる足音を聞きながら、啓之介は童子切へ向き直った。
「……怒らせてどうする」
『あの程度で帰る者を、鬼の前へ出す気か』
「お前が怒らせたのじゃろうが」
返事はなかった。
主膳は、ずれた箱を元の位置へ戻した。
二人目は、礼が短かった。
「鬼の一匹や二匹。拙者一人で十分です」
男は袖をまくる。太い腕だった。
庭の藁束を見つけると、あれを斬って見せようと言った。
「まず、お役目の説明を」
主膳が止めた。
「夜、市中を見回っていただく。娘を攫ったものを見つけたら、追っていただきたい」
「夜ですか」
「娘が攫われるのは、夜でございます」
男はまくった袖を戻した。
「昼のうちに捕らえては」
「居場所が分かりませぬ」
「では、まず居場所をお調べになるべきだ」
啓之介が口を挟んだ。
「それも含めて頼んでおる」
「承知しております。ただ、暗闇では腕も振るえませぬ。提灯持ちを五人、槍を持つ者を十人ほど」
「一人で十分ではなかったか」
「鬼を斬るのは拙者です」
男はもう一度袖をまくり、三日月の柄へ手を伸ばす。
『その袖をお戻しなさい』
手が止まった。
「何だと」
『殿の御前でございます。腕を並べて値をつけてもらう市場ではありません』
男は啓之介を見た。
啓之介も、まくられた袖を見た。
「……儂は構わぬが」
『わたくしが構います』
男は乱暴に袖を引き下ろした。
『そういうところです』
「刀の分際で、作法を説くか!」
『声までお汚いこと』
男は膝を立てた。
「帰らせていただく!」
『敷居を踏まないように』
出ていく足が、障子の前で一度止まった。
庭の藁束は、斬られずに残った。
三人目は、大典太を取り上げる。
「お前も喋るのか」
『喋るわよ』
男は笑った。
「こいつは愉快だ。旅の話し相手にも困らん」
啓之介は、ようやく茶を飲んだ。
男は袖を引いて、左腕の傷を見せる。
「三人に囲まれましてな。二人はすぐに逃げたが、残った一人がなかなかの遣い手で」
「ほう」
「死ぬかと思いましたよ。むろん、相手が」
男は声を上げて笑った。
啓之介も、少し笑った。
「娘を守ってくれるなら、礼は惜しまぬ」
「お任せを。で、その曲者は、何を使うので」
「爪でございます」
主膳が答えた。
「爪?」
「鉄の十手を裂き、人の胸を抉っております」
男の笑いが止まった。
「……十手を」
「はい」
「鉄の」
「はい」
大典太の鞘尻が、畳を擦った。
主膳が手を添えると、男は待っていたように刀を離す。
「人ではないと?」
「その疑いがあるゆえ、鬼討ちの者を募っております」
「鬼とは、あだ名か何かでは」
啓之介は茶碗を置いた。
「違う」
男は腰を浮かせた。
「持病の薬を、宿へ置いてきた」
*
昼を過ぎると、啓之介には免状の違いが分からなくなっていた。
巻物はどれも長かった。
武勇伝は、それより長かった。
声を聞いて腰を抜かす者がいた。聞こえぬふりで名乗りを続ける者もいた。刀へ向かって、自分の祖父が誰に仕えていたかを説く者もいた。
童子切は三人続けて『戻せ』と言う。
数珠丸は、誰にも何も言わない。
その日の最後の男は、鬼丸を手に胸を張る。
「鬼が出たなら、真っ先に斬り込んで御覧に入れる」
『今夜』
「……今夜?」
男は障子の向こうの明るさを確かめた。
『行け』
「一度、宿へ戻って支度を」
男は鬼丸を箱へ戻し、立ち上がる。
障子へ手を掛けたところで、また声がした。
『刀』
「拝借は、支度を済ませてから」
主膳が、男の座っていた脇を指す。
男は戻ってきて、自分の刀を引っ掴んだ。
翌日も、その翌日も、人は来た。
門をくぐる時は、みな声が大きい。帰りは捨て台詞を吐くか、家臣に小声で出口を尋ねるかのどちらかだ。
一人だけ、断られても座り直した者がいた。
袖の擦り切れた浪人だった。
「夜番でも結構です。門に立つ者は、足りておられますか」
主膳が顔を上げた。
「鬼が来るかもしれませぬぞ」
「来たら、お知らせします。斬れぬなら、そこまでは」
差し出された童子切を、浪人は両手で受けた。刀は何も言わなかった。
啓之介は家臣を呼び、食事を取らせた。
男が出ていってから、童子切へ目を戻す。
「あの者でも、駄目か」
返事はなかった。
名簿には、夜番に回した一人の名と、まだ刀を持たせていない者の名が残った。
刀を持たせていない者の名も、会うたびに一つずつ線で消えていった。
五日目の夕方、最後の面会が終わった。
啓之介は名簿を閉じた。
「どいつもこいつも」
そこまで言って、息を吐いた。
庭には、初日に据えた藁束が残っている。主膳が試し斬りのために水へ浸し、台へ縛ったものだった。陽に当たった側から乾き、数本が反っていた。
刃の入った跡は、一つもなかった。
「まだ、おるか」
「声を掛けた者は、これで」
主膳も名簿を閉じた。
机には、刀を集めるための勘定書きが残っている。買い入れた代金。借り受けるために差し出した品々。先方のために引き下げた運賃と蔵敷。そのどれも、啓之介が自分で決めた額だった。
「これだけ払うて」
啓之介は五つの箱を見た。
「一本も、門の外へ出せぬのか」
鞘には傷一つなかった。金具は曇らず、組紐も美しい。どれも届いた時のまま、座敷に並んでいた。
「箱を五つ増やしただけではないか」
啓之介は立ち上がりかけたが、行く先がなかった。浮かせた腰を、そのまま下ろした。
「もう一度、わしが」
主膳が童子切へ手を伸ばす。
『二度言わせるな』
手が止まった。
主膳は袖を引き、膝の上へ戻した。
啓之介は刀を睨んだ。
「まだ、何もしておらぬ」
『一度、申した』
主膳の手は、もう動かなかった。
いつもなら、何かしら次の手を言う男だった。今は箱から目を離さずにいる。
「どうすればよい」
啓之介は尋ねた。
主膳は口を開き、言葉を探してから、頭を下げた。
庭が暗くなり始めていた。
もうじき、門を閉める刻限だった。
*
馴染みの貿易商が来た。
港の蔵の使い方について、以前から約束していた相手だった。座敷へ通された商人は、机の名簿と、脇に並んだ五つの箱とを見比べた。
「使い手は、お決まりになりましたか」
「決まっておれば、お前にも知らせておる」
商人は事情を聞くと、困った顔で笑った。
啓之介は港の図面を広げる。新しく入る荷のために、もう一棟借りたいという話だった。
海に面した蔵を指で辿るうち、荷の山の横に立っていた大きな男を思い出した。
「先日、お前の蔵の前におった異人は、船乗りか」
「ええ。荷の引き取りに」
「あれは大きかった」
駕籠の窓から見えた男は、傍らの荷役人より頭一つ背が高かった。袖から出た腕は太く、木箱を抱えたまま、何か大声で笑っていた。
「ああいう者も、刀を使うのか」
「さて。鉄砲は好みますが」
「力はあろうな」
「それはもう」
商人の指が図面へ戻る。
「こちらでございましたら、船から荷を上げるにも——」
「鬼を見ても、逃げぬか」
指が止まった。
商人は顔を上げ、景気よく笑った。
「メリケン人は鬼など恐れません」
啓之介は図面から手を離した。
「そうか」
主膳が、閉じた名簿から顔を上げた。
「恐れぬか」
商人の笑顔が、少し遅れて止まった。
*
その夜、瑞姫は障子を閉める手を止めた。
庭で、小石の擦れる音がした。
池の向こう、植え込みの辺りだった。
「猫?」
身を屈めて覗いたが、縁側から届く明かりでは飛び石までしか見えなかった。
もう一度呼ぶと、廊下の端で足音が止まった。
「姫様、いかがなさいました」
「庭で音がしたの。何かいるみたい」
家臣は瑞姫を室内へ促し、提灯を手に庭へ下りた。
丸い明かりが植え込みを巡る。枝の下を照らし、池の縁を照らして、戻ってくる。
「何もおりませぬ。猫ならば、塀を越えたのでしょう」
「お手間を取らせました」
「夜はお閉めください。殿がお案じになります」
瑞姫は頷き、障子を閉めた。
家臣が雨戸を繰る音を聞きながら、開いたままの本へ戻った。
廊下の足音が遠ざかっていく。
瑞姫は読みかけの行を探し、頁を指で押さえた。
猫の鳴き声は、一度もしなかった。




